最後のバスに間に合わず、フーゴは一人夜道を歩いていた。耳の奥にはまだディスコテカの喧騒がこびりついている。服や髪がそよ風に揺られるたび、酒や香水の匂いも鼻先を掠めた。しんと静まり返った住宅街で、騒がしい夜の残り香を纏ったままの自分はどうも場違いに思える。一人きりになって冴えてきた頭が余計にその寂しさを助長した。 結局タバコは気に入らなくてあれきりになったが、酒の口当たりには慣れた。三日前には初めて講義を欠席して二流映画を観に行ったし、その帰りに車のハンドルも握った。もちろん免許なんか持っていない。何もかもめちゃくちゃだった。けれど車は動いたし、事故を起こすこともなかった。初めてにしては上出来だった。 世の中のギャングや柄の悪い連中と比べたら、こんな温室育ちの中途半端な悪事など笑いの種にもならないだろう。はしゃいでいる自覚はある。馬鹿馬鹿しいとも思う。 それでも元の優等生を続けようと思えないのは、同期生たちに混じって社会適合者ごっこをするのが新鮮だったのもあるし、何より幻覚にささやかな仕返しをしたかったからだ。 あの幼い子供を虐める気分は、悪くない。とびきり心地よくもないが、今まで散々ちくちくとやられ続けてきたのだ。それを思えばいくらか胸がすいたって誰にも責められやしないだろう。 子供じみている。馬鹿みたいだ。こんなことをしていたって、何にもならないのに。 「自分でもわかってるじゃあない」 街頭の影から突然子供が現れる。フーゴは横目でその姿を視認するだけして、立ち止まることもなく視線を前に戻す。子供はそんなフーゴを恨めしそうな表情で見つめつつ、古びた電球が点滅する瞬間と同時に姿を消えた。次の瞬間にはゴミ箱の横に座り込んだ姿で現れて、またフーゴに話しかける。 「フーゴ、いまからでも間に合うよ。いい子にもどろうよ」 ゴミ箱を通り過ぎると、今度はバス停のベンチへ。次はどこかの家のポストに寄りかかって。そんなに話を聞いてほしいのなら歩いて着いてくればいいものを、子供はフーゴの視界に入ろうと躍起になって姿を現したり消したりを繰り返す。 「ディスコテカなんて、本当は好きじゃあないんでしょ。こんなことつづけても、何にもならないよ」 「……何にもならない?嘘をつくなよ。少なくともお前の声を聞いても苛立たなくなったし、息苦しさも消えた」 先月まで喉元まで肺を占拠していた淀みはもうほとんど感じない。夜の澄み切った空気を思う存分吸い込める。 「後悔するよ」 時刻はもう十一時を回っている。玄関口に立ったとき、夜間のセンサー照明がパッと着いて、帰宅の遅さを咎められているような気がした。 「……ただいま」 ドアが開く音を聞きつけてきたのだろう、靴を脱いでいると母親がすぐ駆け寄ってきた。無言で自室に上がってしまえたらいいのに。しかしもしそうできたとしても、結局面倒な答弁が今この瞬間から明日の朝へ延期になるだけなのは分かっていた。フーゴは諦めて母親に向き直る。久しぶりに顔を見た気がした。 「おかえりなさい。パンナコッタ、あなた最近帰りが遅いのね?」 「ああ、そうだね」 「お友達とどこか寄ってるの?図書館とか?」 「別に……そういうんじゃあ、ないよ」 「ほんとうのことを言わなきゃだめだよ」 「大学の友達と遊んでるだけ」 「うそつき。いけないことしてるくせに」 「……そう、それならいいのよ……勉強時間はきちんと確保するのよ?友達と遊ぶのもいいけれど、学生の本分は勉強なんだから」 自慢の天才児が凡人に堕ちるようなことがあったら困る? 「それに、あまり帰りが遅くなるような遊び方はいただけないわ。治安がいいところに住んではいるけれど、悪い人はどこにでもいるのよ。事件に巻き込まれでもしたら……」 そうしたら、今までの努力が全て無駄になるから? 言葉の裏を勘ぐってしまうのはもう癖のようなものだ。けれどそれが被害妄想だとは思わない。概ね当たっているだろう。今までの十四年間でそれだけのことがあったし、今この瞬間も、母親はフーゴを見ていない。見ているのはきっと、一ヶ月前までのフーゴだ。全てを両親の意向のままに、いい子を演じ続けていたパンナコッタ・フーゴ。 「なんでそんなこと考えるの。心配してるだけでしょ」 「大丈夫だよ。危ないところには行ってないし、今日はたまたまバスに乗り損ねて遅くなっただけ……」 「そうじゃあないでしょ。ごめんなさいって謝って、心配してくれてありがとうって言ってキスをして、これからは早く帰ってくるねって言うんでしょ」 「晩御飯はどうしたの?用意してあるわよ。食べる?」 「ああ、いいよ……もう寝るから」 「だめ!そんなこと言わないで!食べてよ!食べて!」 酒のつまみやらなにやらで、もう胃袋に余裕はない。子供の声がキンキン頭に響く。鼓膜が破れそうに感じるのも、この頭痛も、全てまやかしだ。実際に空気は振動していない。そう自分に言い聞かせても、次第に痛みは強くなる。うるさい。 無理矢理廊下を進んでいこうとしたら足がもつれてふらつきかけた。揺れたフーゴの身体を近くにいた母親が抱きとめる。 「マンマをうらぎらないで!あやまって!!」 「……ちょっと、ねえ、パンナコッタ?あなたお酒飲んだの!?ねえ!?」 「フーゴ!!」 「パンナコッタ!?」 ああ、面倒くさい。うるさい。うるさい。頭が割れそうだ。うるさい。 「どういうことなんだ」 こんな夜更けに家族がリビングに集まっている。父親なんて明日もいつも通り仕事があるだろうに早く眠らなくていいのだろうか。自分がこの緊迫した空気の渦中にあることは分かっていたが、むしろそれだからなのか、フーゴはどこか冷静に両親を眺めていた。父親はそんなフーゴの様子を見てますます顔を渋くし、母親は落ち着かないように貧乏ゆすりをしながら親指の爪を噛んでいる。 「いつからなの?今まで何度お酒を飲んだの?」 「……今週から。まだ今日で三回目だよ」 「“まだ”!」 母親が目を見開いてヒステリックにおうむ返しをした。うるさい。フーゴは叫びだしたいような衝動に駆られながらも、どうにか理性で押さえ込んでぐっと言葉を飲み込んだ。苛立ちと頭痛を慰めようと首筋を強く撫でる。 「あなた最近おかしいわよ。帰りも遅いし、お酒なんて……」 「フーゴ、あやまって。今すぐごめんなさいって言って」 「いいか、私たちはお前を遊ばせるために大学へ入れてやったんじゃあないんだ。分かってるのか?おい、どうなんだ」 「おかしいわ、おかしいわよ……フーゴ、何があったの?一体どうしたのよ、あなたそんなことする子じゃあなかったじゃない……」 「フーゴ、あやまって。マンマとパーパにあやまって。いいこになって。早くいいこになって。ずっといいこでいて。あやまって」 「うるさい」 いつもの呟きや、頭の中だけの声ではない。フーゴははっきりと口に出した。今まであれほど我慢してきた言葉だったのに、思ってもみないほど滑らかに、するりと、それは唇を通り過ぎた。 母親はぴしりと固まって動かなくなり、反対に父親は目を見開いて激昂する。「うるさいだと!?」バン、とテーブルが叩かれた。 「うるさいってなに……なんでそんなこと言うの。あやまって。早くあやまって」 「うるさいんだよいちいち……母さんは僕が“普通の子供とは違う”“無理して子供のふりをしなくていい”っていつも言ってるね」 「まって……何を言うの……やめて……」 「それなのにこの扱いはなんだ?子供じゃあないんだから頑張れ頑張れって言いながら、結局自分の庇護下から出す気はないんだ。こうやってずっと縛り付けて、ペットみたいに飼っておく気なんだ……」 「なにを……」 「父さんだってそうだ。今まで母さんの教育方針に何も口を出さなかった。それで都合がよかったから何も言わなかった。息子が優秀ならそれでいいんだろう?今すぐ教授にでも電話して聞けばいいさ、僕がどれだけ真面目に講義を受けてるかをね。求められてることをこなしてるのに何が気に入らないの?何をさせたいの?僕をどうしたいの?一生子供のままでいさせたいの?」 「やめて、やめて、やめてよ!だまって!やめて!」 「そんな、そんなこと……」 「僕は子供じゃあないんだろ?それなら放っておいてくれよ!うんざりなんだよ!!」 パン、と乾いた音が室内に響いた。頭が一瞬痺れて思考が停止する。鼓膜がキンと痛んだ。頬に手を当てると、感覚が機能を取り戻したようにじわじわと熱くなっていく。鼻息の荒い父親の無骨な手で、思い切り叩かれたようだった。続けて何かを怒鳴られているが、さっぱり頭に入ってこない。母親のすすり泣く声も父親の真っ赤な顔も全て素通りして、さっきまで子供のいた壁際をぼんやりと見つめる。 叩かれたのと一緒に、弾けて消えてしまったのだろうか。子供はどこにもいなかった。 それから何度か殴られたときも、ふらふらと寝室へ戻ったときも、翌朝ぼんやりと目を覚まして惰性で学校へ向かうバスに乗ったときも。次の日もその次の日も、子供は現れなかった。 |