薄暗い店内で、磨き上げられたグラスや酒瓶の数々が照明を浴びて細々と輝いている。都会の夜景と少し似ているかもしれない。まださほど遅い時間帯ではなかったが、それでも今までならとっくに自宅へ帰ってつまらない本のページを捲っているころなのだ。珍しく自分の心が高ぶっているのに、フーゴは気づいていた。 それにもともと、今日は機嫌がよかったのだ。昨日の夕方、フーゴはいつも通り週に一度の診察へ行き、ランポーネにこれまでの経緯を話した。 「ふうん、それはいいね。すごくいい」 口元に朗らかな笑みを湛えながら、ランポーネはそう言った。まだタバコに手を伸ばしたときの緊張を拭いきれず、言葉の節々が硬くなっていたのにきっと気づいていただろう。けれどそれを何でもないように受け流し、全て肯定したのだ。相変わらず話の途中で堂々とビスケットやらジェリービーンズやら食べ始めるし、医者と患者というよりは友人同士の会話のような受け答えをするときの方が多い。医者やカウンセラーとしては決して良い聞き手ではないだろう。 けれどきっと、フーゴはランポーネじゃあなかったら話さなかった。 主治医だから。自分は患者で、相手は医者だから。診察のために必要な話だから。尋ねられればいくらでも理由を説明できる。けれど全ては建前に過ぎず、本当は、彼なら肯定してくれるだろうと踏んでいたからだ。受け入れてくれると期待していたから。確信と言ってしまってもいい。例えその態度が治療のための方便だとしても構わなかった。 ランポーネなら聞いてくれる。その事実がフーゴの息苦しさを軽減してくれるのだ。 それになぜだか、ランポーネの態度が仮初のものだとは思えなかった。本音で語りかけ、本心から出た態度で接してくれていると、そう思っている。そう思いたい。 「フーゴ、もう一杯どう?」 「のまないよ」 「……もらうよ」 しばらく席を離れていた同期生が隣へ戻ってきて、グラスを軽く掲げる。はじめは強制的に全員同じテーブルについていたが、男連中がナンパに勢を出し始め、次第にばらけていったのだ。フーゴだけがずっと同じ席に腰を下している。 泥酔して帰るわけにはいかないので、あまり注がれないようにグラスの中は常に酒をいくらか残したままだ。それをぐいと飲み干して空にする。ここ数日で、思っていたよりも自分の肝臓が弱くないことを知った。 「――と――、どっちがいい?」 「ねえ、もうやめようよ。もう帰ろう。やめてよ。フーゴ、やめて。ねえ、やめて」 「ごめん、もう一回言ってくれないか?よく聞こえなかった」 幻聴には返事をしていない。そのせいか、以前よりも声が大きく聞こえるようになっていた。大抵は文脈によって補完できる程度の聞き逃しだが、あまりに続くようならランポーネをせっついて薬の一つでも出してもらった方がいいのかもしれない。幸い周囲が賑やかなお陰で同期生は一切いぶかしむこともなく言葉を繰り返す。「ビールとアマレット、どっちがいい?」 「お酒なんてのまないで」 「……その、ビールじゃあない方」 「なんで聞いてくれないの。なんで言うとおりにしてくれないの……」 なんでって、なんでだろう。 別に幻聴の言う通りにしてもいいのだ。むしろ今までずっとそうやって生きてきた節すらある。物心ついたころから、両親にずっと褒められてきた。従順だった。興味のない勉強も、つまらない行事もやりたくなかった試験も、両親が褒めてくれるから全てやってきた。当然のことだ。幼い子供は承認欲求が強い。庇護者である両親をできるだけ繋ぎ止めておこうとするのは、ごく自然で本能的な行動だと言える。 けれどもう、盲目的なまでの純真さはなくなりつつあった。 バールマンがアマレットの入ったグラスを二つ持ってくる。受け取って口をつけると、アーモンドに似た匂いが鼻をくすぐった。少し苦い。 「本当に、意外と誰も気にしないもんなんですね」 「言ったでしょ?あなた背が高いし、落ち着いてるから誰も気づきやしないわ。顔はまだちょっとあどけないけど」 「落ち着きがなかったら追い出されてた?」 「かもね」 「じゃあ、あそこにいる子供は店主の息子か何か?」 先ほど飲んだ酒がようやく回ってきたのかもしれない。頭がふわっとして、口が少し軽くなってきた。 「子供って、どこに?」 「あそこだよ。ほら、あのダーツボードのかかった柱の隣にいる……」 夜のバールに入るには、随分と早すぎる体躯だ。エレメンターレもまだの未就学児だろう。暗くてよく分からないが、フーゴがあちらを見ているように、向こうもフーゴのことを見ている気がした。 「やだ、もう酔ってるの?誰もいないわよ」 「え、」 そんなことはない。いる。確かにいる。フーゴは同期生の顔と子供の方とを交互に見る。吊られて同期生も子供の方を見るが、何も見えないと言うように肩をすくめた。しかしフーゴには見えている。確かにいるのだ。それも既視感がある。どこで見た?どこだ?酒に沈みかけた思考を冴え渡らせ、記憶を総動員する。そしてすぐに思い出した。ランポーネと話しているときに見たのだ。 正確に言えば、想像した。彼の誘導に手伝われて思い描いた、幻聴の姿に瓜二つだった。いや、まるでそのものだ。フーゴが想像した通り、四歳くらいで髪色は薄く、表情は見えにくいが、笑ってはいない。恐らく辛気臭い表情をしている。 幻覚なのだろう。幻聴が幻覚になった。いや、まだ声は聞こえているのだから、幻視が増えた。 しかしフーゴはそれほど動揺しなかった。気のせいだった、と同期生に伝え、そこから続けられる話を聞き流しながら子供の方をじっと見つめる。気にはなるが、取り乱すほどじゃあない。十分に理性を保てる。心配していたよりもずっと落ち着いていられた。 心なしか、子供の表情が歪んでいくように見えた。今にも泣き出しそうな顔だ。フーゴは一思いにグラスを煽る。視線を戻したとき、子供は既に消えていた。 毎回フーゴが座りづらそうにしているのに気づいたのか、それとも病院の備品が入れ替えになったのか。いつもの子供椅子と保護者用の椅子はどこにもなく、診察室にはフーゴが座りやすい高さの椅子が置いてあった。座面は硬いが座り心地はそれほど悪くない。 「落ち着かない?」 何度か腰をずらして据わりのいい場所を探していると、ランポーネがそう口火を切った。今日はウエハースを口に頬張っている。一瞬椅子のことを指しているのかと思ったが「昨日もバールに行ってきたんだろ?」と言われて私生活のことを言われているのだと分かった。椅子はやはり単に新しくしただけなのだろう。 「まさか二日酔い?ちゃんとエスプレッソ飲んだ?」 「いえ。そんな飲み方はしてません」 「そう」 「……僕、落ち着いていないように見えますか?」 「うん、まあ少しね」 新しいウエハースの袋を開けながら、ランポーネが表情を緩める。自覚のないことを指摘された恥かしさとその受容するような反応とが相まってどうしようもなく照れくさい。フーゴは誤魔化すように首筋を掻いた。 「今までずっと同じやり方で生きてきたんだ。急に変えたら、落ち着かなくて当然」 「……分かってます。僕は社会経験に乏しいから、変化に適応するのが苦手だし、遅い」 「そう?自分でやったことだろ?苦手な人間は踏み出すどころか考えることも拒否するさ」 「……どうも」 「いや。事実を述べただけ」 客観的な事実を述べるだけ。フーゴが得意なことだ。それを自分に返されるのは心地よくもあるし、自分自身のことだけは主観的になっていると知らされて気恥ずかしくもある。 何の気兼ねもなく、こうして淡白なやりとりを出来る相手がもっといればいいのに。例えば家族が、友人が、ランポーネのような人柄であったらいいのに。 「それで、今週はどうだった?何か変わったことは?」 「……実は、まだ幻聴が消えないんです。それどころか」 「幻視も見えてきた?」 ランポーネがフーゴの言葉を先回りする。不意をつかれたフーゴはこくりと乾いた喉を上下させた。「どうして」 「だってそんな感じの顔をしてるから」 一体どんな顔だというのだろう。残念ながら診察室に鏡の類はなく、自分の顔を確かめることはできなかった。 「そんな顔しないでよ」 「……あいにく僕は自分がどんな顔なのか分からないので」 「説明しようか?」 「結構です。診察に戻ってくれませんか」 ここは病院で、フーゴは患者、そしてランポーネは医者。話すべきはフーゴの症状のことで、それ以外のことじゃあない。本音を言えば、二人の間で言葉を転がしているだけのような意味のない会話をもっと続けていたいのだ。けれど頭が硬いのはなかなか直らない。幻覚が治ったら、次は素直になれない性格を治してもらった方がいいだろう。そうしてずっとランポーネの患者でいる。 ランポーネは「そうだね」と頷くとまたウエハースの袋を開けた。一つの小袋に二枚入っているから、五枚目のウエハースだ。 「幻視が見えてきたんだったね。どんな子供だった?」 「この前、あなたに言われて想像した通りの子供でした」 「ふうん、そう。やっぱり知ってる子供なんだろうね、それだけイメージがはっきりしてるってことは」 「……思い出せません」 「急がなくてもいいさ。まだ時間はあるんだし」 「でも、幻聴が治らないと困ります。なるべく早く消えてほしい。最悪消えなくても、これ以上悪化してほしくない」 「なに、自分の症状が悪化したと思ってるんだ。まあ、確かに事実だけど……でも、追究の手がかりが増えたともとれる。僕は後者だよ。君がその子を思い出すまで、気長にやっていこうと思う。君は早く治らないと困ると言うけれど、具体的に何が困るの?講義に集中できない?通行人に不審な目で見られる?友達に失礼なことを言いそうになる?フーゴ、本当にそれが君にとって困ること?」 何の面白みもない講義。ただの他人。そして好きでもなんでもない友人。言われてしまえば頷かざるを得ない。失って困るものなどなかった。 強いて言うなら両親を失望させることだけだが、タバコと酒に手を出し秘密裏に遊びに出ているというだけで信頼はとうに裏切っている。今更だった。 「それにもう、苛まれてはいないんだろう?」 そうだ、確かにそうだ。フーゴは目の前が開けたような感覚を覚えた。一見快方に向かっているようには見えなくても、日々の生活は快適に近づきつつある。幻聴にいちいち目くじらを立てなくなったし、受け流せるし、特には完全な無視もできる。相変わらず言われたことについて反射的に思考を巡らせてしまうことはあるが、何時間にも渡ってぐるぐると考え込んでいたころに比べたら随分と良くなった。今までより少しだけ、日常が送りやすい。 そうです、と小さく頷く。ランポーネは「そうでしょう」と言って六枚目のウエハースに手を伸ばした。 |