何事も初めの一歩が一番難しい。踏み出してしまえば簡単だ。あとは惰性でどうにでもなる。けれど踏み出すまでの葛藤、それがひたすらに厄介だ。
 前回の診察から三日過ぎても、フーゴはあのときのランポーネの手が忘れられずにいた。正確に言えば、手に持ったタバコの箱だ。実際はお菓子のダミーだったわけだがそれはさしたる問題ではない。あの瞬間、フーゴはシガレットチョコを本物のタバコだと思い込んでいて、それを勧められたということが重要なのだ。あのときは咄嗟に突っぱねたものの、それが本心かと言われれば簡単に頷くことはできない。
 あれは今まで積み上げてきた天才の矜持だ。見栄、体裁、世間体を気にする心。両親や周囲の大人たちによってフーゴへ降りかかったその重苦しい思惑の欠片が好奇心の邪魔をする。それが一歩踏み出せない理由だと、とっくに検討はついていた。







 片足を前に出し、重心を傾ける。一瞬の浮遊のあと床に足を着け、今度は反対の足を前に。肉体を歩かせるだけならこんなにも簡単なのに。考えるだけなら、優秀な頭脳は何にも躓くことなく答えを導き出せるのに。感情が絡むだけでこうも難しくなる。
 そろそろと階段を降りていくと、リビングには珍しく出勤前の父親の姿があった。

「ああ、おはようパンナコッタ。今ちょうどお父さんとあなたのことを話してたのよ」

「……僕のこと?」

「ええ。そろそろ試験の時期だって。あなたの成績表、大学でもまた全部Aなんでしょうけど、それでも楽しみにしてるわ」

「ああ、そうだ。期待しているからな。がんばれよ」

 父親はテーブルに置いた新聞を流し見ながらそう言うと、カッフェを飲み干して手早くスーツに腕を通した。玄関を出て行く音と入れ違いでフーゴが椅子に座り、母親の用意した朝食を食べ始める。
 珍しく顔を合わせたと思ったらこれだ。なぜそれほどに試験の結果が楽しみなのか、それを周囲に自慢できることが嬉しいのか、フーゴには分からない。こうして母親が自分のバケットやカッフェを用意している理由も、父親が自分の養育に大金をはたいている理由も、何一つ分からないのだ。金や手間を掛けているのだからそれくらいの成果は出して自分たちの自尊心を満たせ、ということなのだろうか。それなら納得できる。それなら割り切れる。そうとはっきり言ってくれればいい。
 それなのに両親はそれを“愛しているから”だと言う。
 窮屈だ。息苦しい気がする。喉が渇いているのかもしれない。そう思ってカッフェを一口飲んだが、苦いだけで何も潤わなかった。
 ここでまたランポーネの言葉がフーゴの脳裏に蘇る。“いけないことをしなよ”彼ははっきりとそう言った。“君はいい子いい子しすぎなんだよね”

「母さん」

「なに?」

「僕はいい子?」

「あらあらどうしたの?いい子に決まってるじゃあない!こんなに大きくなって、勉強もがんばっていて」

 母親がフーゴの頬を優しく撫でる。その甘ったるさが妙に重苦しくて、けれどこれ以上ないくらい軽かった。言葉は響くことなくフーゴの表面だけを滑り落ちていく。

「いってらっしゃいフーゴ。愛してるわよ」

「……うん、そうだね」

 それは知っている。母親が自分を愛しているということは、知っているのだ。分からないのは、その愛するという行為の中身だけ。







 正午の休憩時間のことだった。その日の講義は昼休みを跨いだ二時限続きで、初めの講義の終わりに教授が課題を出した。四、五人でグループを組んで次の時間までにまとめておくように、という面倒極まりないもの。プロフェッソール、僕天才なんで一人でやってもいいですか?そんな台詞を頭の中で霧散させているうちに周りが勝手にグループを決め、いつの間にかフーゴもいつもの取り巻きの中心集団と課題に取り組むことになっていた。当たり前のようにフーゴの周りに椅子が集まって、サークルを作っている。

「……もう、みんな真面目にやってよね。フーゴはどう?何かいいアイディアある?」

「ほら、みんな待ってるよ。はやくなにか言って」

「………………」

「フーゴ?」

「……ああ、ごめん。ちょっとぼうっとしてて」

「うそつき。イライラしてただけのくせに」

「お前、どうせまた遅くまで本でも読んでたんだろ?よくやるよなあ、オレにはさっぱりだ」

「お前の頭とフーゴのそれを同列に語られてもな」

「お前に言われたくないね!」

「もう!全然進まないじゃあないの!」

 不真面目な演技は、自分が本気で考えた意見を天才に一蹴されて自尊心を失わないため。そして何かとフーゴに話を持っていくのは、“天才の意見を引き出した”“天才を手伝った”という実績を狙うため。
 人の誘いを断り続けているせいで、フーゴは「内向的で人間関係の構築が苦手な天才」というステレオタイプに当てはめられている。歳が下なのも関係あるかもしれない。いずれにしても同期生に保護者ぶられるほど煩わしいこともない。ボールペンを指先で回しながら、心中で教授に悪態をつく。

「ねえ、かんがえてる場合じゃあないよ。フーゴのせいだよ。フーゴのせいですすまないんだって、わかるでしょ。なにか言わなきゃ」

「……うるさいな」

「え?なに?」

「いや、なんでもない。どうせ次の課題で使う叩き台になるだけだろ?そんなに気を遣わなくてもいいんじゃあないか」

「それもそうねェ……」

「……気をつけてよ。きこえてたらどうするの。うるさいなんて言わないで」

 聞こえていたら。幻聴に対する苦情が他人に聞こえてしまったら。確かにそれは少し困るかもしれない。ただでさえ「対人能力が低い」という認識をされているのに、加えて「気難しい」というレッテルも貼られてしまう。
 両親は特に気にしないだろう。「普通の人間に無理して混ざる必要なんてないわ。あなたは独特なんだもの」「知能が高い人間ほど社会の基準から遠くなるものだ」そんな励ましを容易に想像できる。しかしそれこそが鬱陶しい。聞きたくない。
 それだから、フーゴは頭に響いている子供の声を誰にも打ち明けられないのだ。天才だから、を枕詞にされたくない。プラスにしろマイナスにしろ、もうこれ以上“天才”の付加要素を増やしたくない。

「じゃあ、ここから話を広げていくってことでいいよな?」

「そうね。さっきも言ったけど、私は一つ目の政策については賛成よ。フーゴもそうでしょ?」

「ほら、聞かれてるよ」

「うん。懸念すべきところはあるけど、単純な損得勘定では一番マシだ」

「あーあ、頭のいいのが二人とも賛成派に回っちまったな」

「いいでしょ。フーゴはあげないわよ」

「フーゴ、話し合いをはじめて。フーゴがまんなかになるんだよ。中心になって、ちゃんとAをもらって」

 初めは一人きりにときにしか囁いてこなかった幻聴も、今や他人との会話の間に自然と割って入ってくる始末だ。場を弁えることすらできず、自分の指示が却ってフーゴを苛立たせていることも気づかない低脳な存在。自分の頭の中から発生しているだなんて信じたくもない。実際はわざと悪いタイミングで出現するようなからくりがあるのだろうけど。ランポーネの言葉で言えば、ストレスとか。
 吐息が音を立てないようひっそりとため息をついていると、隣の女生徒がわざとらしく咳払いをした。

「ちょっと、煙たいわよ。ここ禁煙なの知ってる?」

「いいじゃん、一本吸うだけだって」

「一本でも百本でもダメよ」

 突然何を思ったのか、向かいの男子生徒がタバコをふかしていた。空気に溶けかかったような細い紫煙が彼の周りで揺らいでいる。傍目に見ても肺までは吸い込んでいないのが分かった。ここ数日で手を出して、他人に見せびらかしたくなったのだろうか。
 フーゴは机に置かれたタバコの箱にじっと視線を注いだ。シガレットチョコとは全く違う。本物だ。

「もう……あなたのせいで私まで怒られるなんて嫌よ。今すぐ消すか外に出てやってちょうだい」

「お前も一本吸ってみる?」

「いらないわよ」

「……じゃあ、僕にください」

「え?」驚いたような視線が肌に刺さった。タバコを吸っている男とたしなめていた女生徒、それを笑いながら見守っていたあとの二人。全員の目がフーゴに向いている。

「……いいのかよ?」

「だめだよ。だめ。だめだよ……ねえ、だめだってば……」

 火のついたタバコを指に挟んだまま、男子生徒が目をしばたかせる。言わんとしていることは分かった。ここイタリアで、十六歳未満は喫煙ができない。タバコを与えることも違法だ。けれどそこじゃあない。優等生、天才、模範生、そのどれもを両肩に担ったフーゴが、そこから外れるようなことをしてもいいのかと問うている。

「いいんです」

 何の気負いもなく聞こえるように、フーゴは軽い口調で言った。しかし本当は、緊張で身が張り詰めていた。たかがタバコの一本。たかがそれだけのことが、かつてないほど胸を騒がせる。じわじわと鼓動が早くなるのを感じた。誰にも聞こえないように、静かに生唾を飲み込む。差し出された箱から一本取って咥え、渡されたライターのフリントを指で弾く。はじめはなかなか上手くいかず、何度かカチカチやってやっと火がついた。

「だめ!やめて!」

 フィルターを通して少し重くなった息を、吸う。
 慣れない感覚と気道に張り付くような煙に耐え切れず途中でむせこんだ。

「まずいな」

「初めはそういうもんだって。いやあ、まさかフーゴがなァ……」

 男子生徒を皮切りに、グループに穏やかな空気が戻ってきた。いや、緊張していたのはフーゴだけなのだから、周りの音が聞こえなくなるような数十秒を過ごしたのも、フーゴだけかもしれない。何も変わっていないのだとしたら、喜ばしいことだ。鬱屈とした大学生活で、恐らく初めての。

「幻滅しました?」

「まさか!」

「別に聖人君子だと思ってたわけじゃあないし」

「ねえ、私たち週末はいつもバールに行くのよ。フーゴもどう?まだ十四だったと思うけど、あなた背は高い方だし、大丈夫だと思うのよね」

 どうせ読書だろ、という男子生徒の冗談を遮って「いいですね」とフーゴは言った。もう一度タバコを吸い込んで、また後にひく苦さに眉を顰める。
 吸殻はどこへ捨てたらいいのだろう。火を消すのに丁度いいものがないかと辺りを見回して、全員判を押したように驚いている同期生たちに気づいた。

「フーゴ、お前何かあったの?」

「……別に」

 火の消し方が分からずに、じんわりと燃えていく先端部をただただ見つめる。
 いつも先回りして考える癖があったのに、今日はそうしなかった。考えなし。低脳。馬鹿。客観的に自分を罵る言葉が浮かんできたが、圧倒的な解放感の前では自責などあってないようなものだった。解き放たれすぎて、少し不安定なくらいだ。

「ただ、階段を降りたんだ」

 成熟に向かって一段ずつ上っているのではない。俗物になろうと駆け下りている。


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