フーゴの休日は味気ない。というより、平日と大差なかった。大学の長机に向かうか自室のデスクに向かうか程度の違いだ。もう一つ言えば、自称友人たちの誘いをのらりくらりとかわしながら過ごすかそうでないかという違い。
 一人に応じたら全員に応じなければならなくなる。一度着いて行ったら毎回着いて行かなければならなくなる。最初の二ヶ月で人付き合いの煩わしさは十分に思い知ってしまった。今やフーゴは本を手放せなくなっている。ひどく難解な表題の分厚いハードカーバーは人払いのいい道具になった。加えてラテン語なら、大して読めるわけでもないくせに、同期生たちは訳知り顔で捌けていく。
 この週末もフーゴは図書館で埃を被っていた本を適当に借りてきて、ついでに父親に頼んで字の小さい専門書を何冊か購入し、これ見よがしに腕に抱えてキャンパスを闊歩した、おかげで天才に声をかけようとした同期生たちはまた断られると察して挨拶するだけで去っていき、“当たり障りなく断る”という社会活動をせずに済んだフーゴは一人の時間を手に入れた。もっとも、することと言えば興味のない紙面に目を落とすくらいだが。

 静かな休日を手に入れるためとはいえ、父親に本をねだったのは失敗だった。浅くため息をついて椅子にもたれかかり、行儀悪くデスクへ足を乗せる。
 毎週毎週それらしい本を借りに行っていれば今度は図書館へ一緒に行こうなどという話が舞い込んでくる。接近を狙っているのかただの興味本位なのか、館内で視線を感じることもままあった。それを回避するためだったのだが、結局うんざりすることには変わりなかったのだから相手が他人である分図書館の方がまだよかったかもしれない。
 欲しい本のリストを渡したときの父親の顔を今でもありありと思い出せる。フーゴはあの類の表情が嫌いだった。自尊心をくすぐられて頬が緩み、目は自然と細まって口元は今にも誇張された自慢話を周りに吹聴しかねない。

「パンナコッタ、昼食を持ってきたわよ」

 礼儀正しいノックの音が耳に飛び込んできて、フーゴは間一髪机から足を下した。ぼんやりしすぎていて、いつもなら気づくはずの足音が全く聞こえていなかった。自分を叱咤しながら「入って」と声をかける。

「あなた下に降りてこないからまた勉強してるんだと思って……ああ、やっぱりね。何の本?」

「ああ、えっと、表紙に書いてある通りだよ。スコラ哲学」

「……ふふ。あなた見かけは子供なのに、ポストモダンがどうとか形而上学がどうとか言うのよねえ。面白いわ」

 母親が上機嫌にくすくす笑う。フーゴは聞こえないよう静かに唾を飲み込んだ。上下する喉を見られてしまう気がして、誤魔化すように首筋を掻く。

「……子供らしい子供でいてほしいの?」

「いいえ!あなたがあなたらしくいてくれるのが一番よ。無理して子供ぶることなんかないの」

 あなたがあなたらしく―― 本当にそう思ってる?本当に?
 まさか。そんなわけがない。にわかに瞼を伏せてフーゴは内心の声を押さえつける。

「じゃあ、勉強がんばって。愛してるわ」

「うん」フーゴは小さく頷いてまた紙面に目を落とす。ドアが閉まった途端に本を投げ出し、しばらく手持ち無沙汰に天井を見上げたあとトレイを目の前に引き寄せた。
 教科書やノートを端の方に押しのけて、壁に向かって黙々と食べ物を口に運ぶ。脳にいいとか体にいいとか、何かと調べてきては嬉々として取り入れる母親の作るものはあまり味を重視していない。加えて最近はますます味覚が鈍っていた。上昇志向に満ち溢れた母親の愛の欠片がこれだと思うと、食欲もあまり沸かない。
 母親の言うところの“自分らしさ”というのが重苦しくて仕方なかった。彼女の言う自分とは一体何なのだろう。友人たちの言うところのフーゴとは。父親の言う自慢の息子とは。

 それは全て、本当に自分自身を指しているのだろうか。

「どうしてマンマに愛してるって言わないの」

 聞こえてくる声には反応しなかった。味気のない食事を胃の中に掻き込んで手早く皿を空にし、トレイの片隅にあった真っ黒なエスプレッソを飲み下す。今日も苦い。ひとまずトレイをラックの上に避難させると、また大して真剣に読むわけでもない本を拾い上げて適当なページを開いた。

「ねえ、聞いてるでしょ。なんで言わないの」

「………………」

「なんでありがとうって言わないの。料理持ってきてくれたのに!」

「……うるさいな……」

 ただでさえ暇な時間だ。無視を決め込むのにも限界がある。「やっぱりきいてるじゃあない!」憤慨した子供が一層高く声を張り上げた。頭の中でキンキン響いて、太い針を刺されているような痛みが走る。うるさい。

「お前、誰なんだよ」

「ねえ、なんで言わないの」

「関係ないだろ」

「マンマのこと好きじゃあないの」

「…………黙ってろよ」

 本の細かい字がぼやけてよく見えない。延々と等間隔で並んでいる黒い文字が全て繋がっているように見えてきて、フーゴは眉間を指で強く押した。それでも目のかすみは治まらない。少しくらくらする。

「あいしてるって言わないと、マンマに嫌われちゃうよ。言ってよ。言って。あいしてるってちゃんと言って。言って。言って」

「うるさいッ!!」

 一瞬だった。フーゴの腕がデスクの上のものを勢いよく払い落とした。ペーパーウェイトが音を立てて壁に跳ね返り、倒れたペン立てから筆記具が散乱する。一番騒々しく床に落ちたのはカードカバーの本だった。フローリングの硬い床に落下したときの鈍い音が、フーゴの心臓を掻き乱す。

「パンナコッタ?どうかした?」

「なんでもない!」

 廊下から聞こえてきた声には反射的にそう返したが、不審に思った母親がフーゴの部屋に来て、明らかな癇癪の跡を目にしてすさまじい形相を浮かべた。驚き、戸惑い、そしてわずかな失望の色。

「パンナコッタ、あなた一体どうしたの?」

 フーゴはそれにも答えられない。自分がどうしてしまったのか、自分が一番知りたかった。







「僕は原始人だ」

「そりゃまた、一気に飛躍したね」

 前に座った保護者用の椅子は体に合わなかった。今回は素直に患者用の椅子に腰掛けてみたが、やはりこれでは小さい。フーゴは椅子の下に足先を引っ込めるようにして不安定な座面に無理矢理腰を落ち着けた。
 一方で医者であるランポーネはというと、相変わらず患者を前にしてなおマイペースだ。堂々とチョコレートファッジをつまんでいる。

「感情がコントロールできないんです。物に当たるなんて、原始人そのものじゃあないですか」

「人によるんじゃあないの?」指についたチョコレートをぺろりと舐めて、ランポーネは背もたれに寄りかかる。「原始人もストレスの捌け口に歌ったり踊ったりしてたかもしれないし、物に当たる現代人なんてそれこそ数え切れないくらいいる」

「……分かってますよ。分かってます。けれど僕はいま、自分の低脳さに嫌気が差してるんだ……」

 苛立ちで膝が上下する。それを止められないのも癇に障った。フーゴは今、自分のなにもかもが気に入らない。

「IQ152が低脳だって?それはまった……」

「分かってます!それも分かってるんです。でもあなただって分かるでしょう、僕の言いたいこと」

「まあね。チョコ食べる?」

「要りません!」

 苛立ちで大分厳しくなった声色はっとして、フーゴは前に乗り出しかかった身を縮こめた。貧乏揺すりは止まったが、また激しい自己嫌悪に陥り表情が険しくなっていく。
 ゆっくりとため息を吐き出すと、思っていたよりも大きく音が聞こえた。部屋が静まり返っている。沈黙だ。なぜ何も言わないのだろう。
 不安になって恐る恐る顔を上げると、ランポーネはチョコレートを頬張って口の中で溶かしていただけだった。ほっと息をつくと同時に、情けないような腹が立つような感情がじわじわと沸いてくる。

「君はさあ、いい子いい子しすぎなんだよね。たまには羽目外してみれば?」

「羽目って、どんなふうに」

「こんなふうに」

 ランポーネは白衣の懐から白い箱を取り出した。大人の手にすっぽりと収まるくらいの丁度いい大きさの箱。人差し指で底を押さえると、銀色の開け口から中身が一本だけ頭を出す。

「……未成年の喫煙は発育に悪影響を及ぼします」

「堅いこと言うなよ」

「…………医者が、こんなことしていいんですか。免職になりますよ」

「いいのいいの。ほら、一本取りなよ」

 フーゴはランポーネの手元へじっと視線を注ぐ。こんなふうに法を破れと勧められたのは初めてだった。
 フーゴは“顔”のようなものだ。あるいは背広につけられたバッジのようなもの。家庭の出来のよさを周りに見せつけるものであり、大学のレベルの高さを宣伝する広告塔でもある。その顔が問題を起こすことなどないし、周囲がわざわざ巻き込みに来ることもない。品行方正な天才というのは、所属先にとって何よりの価値なのだ。
 それが今、初めて誘いを受けている。
 フーゴは目を逸らして首を横に降った。ランポーネはタバコを指で軽く弾いて注意を引こうとする。フーゴは再び首を振った。

「要らないの?」

「……要りません」

「どうして?」

「……だって、……タバコなんて、吸ったって何にもならないでしょう。もしストレスの捌け口にそれを薦めてるんだとしても、遠慮します。中毒になるのは御免だ」

「本当にそれが理由?本当に?」

 フーゴはランポーネの顔へ視線を戻す。相変わらず表情は読めない。この何を考えているのかよく分からない彼の顔は、それほど嫌いではなかった。隠しきれない思惑が透けて見えるような人間と顔を合わせるよりも、ずっと落ち着いていられる。
 それなのに今は、ランポーネがわざとフーゴの心を掻き乱そうとしているようにすら感じられた。

「一本吸ってみたところで中毒になんてならないよ。せいぜいむせて口の中が不味くなるくらいだ。君はさっき君の言うことを僕が分かってるはずだって言ったけど、君にしたってそうだろう。ストレス解消しろって言ってるんじゃあない、羽目を外せって言ってるんだ。“いけないことをしなよ”ってこと」

「……それ、別にタバコじゃあなくてもいいでしょう」

「まあね。でもさ、タバコでもいってことだよ。それって」

 差し出されたものに手が伸びないのなら、他の何にも手は出せない。選り好みの問題ではないのだ。一歩踏み外す気があるか、ないか。
 だんまりになったフーゴを見て、ランポーネは「今すぐじゃあなくていいけどね」と言い添えてタバコを一本取り出し口に咥えた。
 院内は禁煙のはずだ。そう言ってみると、くつくつと笑ってタバコの白い紙を軽い動作で剥がし出す。フーゴが呆気に取られているのを見て満足げに微笑みながら、中身の茶色い棒にばくりと食いついた。

「あと十本くらいあるけど、いる?シガレットチョコ」

「……要りません」

「あはは。頑なだなあ。本当は甘いもの好きなくせに」

 無理しなくていいんだよ。そうランポーネが何気なく放った一言でフーゴの頭が凍る。いや、凍っていたものが解けた瞬間だったのかもしれない。じわじわと温かい何かが頭の中を広がっていくような感覚に沈み込みながら、ようやくこの言葉が正しい使い方をされたと冷静に考えていた。かすかに笑いがこみ上げる。
 ランポーネはそんなフーゴの様子に気づいているのかいないのか、また気ままにチョコレートファッジを一つ頬張ると、ぐしゃぐしゃの包み紙をデスクの上に放った。
 一体いくつ食べたのだろう、フーゴのカルテは色とりどりの包み紙にまみれてすっかり見えなくなっていた。


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