「おはようパンナコッタ。今日もちゃんと支度できてるわね」

 本当、あなたは私たちの誇りよ。かわいい子。
 毎朝繰り返されるお馴染みの賛辞へ歯切れの悪い相槌を打ち、フーゴはテーブルについて朝食を取る。その日も母親の用意したバケットがバターやジャムを一通り塗られて皿に並んでいた。
 父親は出勤時刻が早いため滅多に顔を合わせない。夕食だってフーゴが勉強していれば母親がトレイに乗せて部屋まで持ってきてしまうから、丸一日顔を見ないことすらある。
 母親はその逆だ。時間の許す限りフーゴを視界の中に入れておこうとする。今も時計の針を確認して「バスの時間に間に合うようにね」と不必要な助言をし、テレビを見ているふりをしながら意識だけは一時たりともフーゴから離さない。

「いってらっしゃい、パンナコッタ」

「いってきます」

「愛してるわ」

「……うん、ありがとう」

 フーゴが最大限の譲歩をして言えるのがそれだった。僕も愛してるとは言えない。







 発明王いわく、天才の九十九パーセントは努力によって成り立っているらしい。それに拠るならフーゴは天才ではなかった。今までの人生でこれといった努力をした覚えはなく、できたからやっただけで、できないことがなかったから挫折をしなかったというだけ。
 しかし自分の知能指数の高さは両親に受けさせられた数々のIQテストによって裏付けられてしまったし、十三歳という年齢で大学へ入ることがどれほど特別で異例なことなのか口々に賞賛されると、次第に自覚せざるを得なくなっていった。
 自分は天才で、他の子供とは違うのだと。
 息子が誉めそやされるたび父親はふんぞり返って天才児を産んだことを鼻にかける。母親は内心では気をよくしながらも「あなた何も分かってないのね。天才の親ってすごく大変なのよ」と複雑そうな顔をしてみせる。
 そしてこう続けるのだ。「まあ、幸い私はあの子のことをちゃんと理解できるから、あの子に相応しい環境を作ってあげられるけれど」

 あなたは私たちの誇りよ。一体世界中でどれだけの親がわが子に向かってこう言い聞かせているのだろう。
 疑問に思うまでもない、ありふれた台詞だ。ただそこから省かれている言葉を考えれば、世界中の親子から多少数を絞り込めるかもしれなかった。
 あなた『が天才であること』は私たちの誇りよ。
 両親が言っているのはこういうことだった。たとえ明確な言葉にはされずとも、本人たちの自覚がなかろうとも。







「ようフーゴ」

「チャオ、フーゴ」

「ねえフーゴ聞いてよ、こいつ今日出すレポートやるの今朝まで忘れてたんだって。間抜けでしょー?」

「フーゴはもちろん終わってるだろ?見せてもらえば?」

「馬鹿、フーゴのなんか写したら一発でバレるだろ。こいつの頭じゃあ書けるはずのないことがびっしり書いてあることになるんだから」

 同期生たちがどっと笑う。フーゴはそれに乾いた愛想笑いを送るだけ。
 彼らは互いをファーストネームで呼び合っておきながら、フーゴのことだけラストネームで呼ぶ不思議な集団だ。嫌われているわけではない。むしろ何かにつけて親しくなろうとぎらぎらしている雰囲気すらある。しかしそれでも、ファーストネームでは呼ばれない。
 自分の名前が好きか嫌いかと言われればそれほど好きな方ではないし、どちらで呼ばれようが興味がないというのが率直な気持ちではある。しかしそこに纏わりつく打算が、またフーゴの肺にもやもやしたものを溜めていく。
 事あるごとにフーゴの名前を呼ぶ彼らは、所謂取り巻きだ。それも下手に出て部下や子分を自認するようなものではない。「噂の天才相手でも気後れせず対等に話が出来る自分」というのを誰かの目に映したがっている、人間関係をステイタスかなにかだと思っている類の人間たち。ファーストネームよりラストネームで呼ぶのはそのせいで、そっちの方が売れているのだ。天才の名前としては。

 暗黙の了解によってフーゴは一番快活な女生徒の隣に座る。世話好きで面倒見がいいのだと評判の彼女はいつもフーゴのことを気遣って「困ったことがあったら何でも言っていいのよ」と優しく声をかけてくる。
 それにフーゴは微笑んでお礼を言うが、内心ではこう罵っている。“『天才に頼られる自分』を周りに見せつけたいだけのくせに”

「……あ」

「フーゴ?どうかした?」

「……なんでもない。耳鳴りがしてるだけ」

 いらいらし始めたフーゴはこっそりとボールペンの頭を噛む。マイクを通して講義室全体に聞こえているはずの教授の声が、一番いい席に座っているはずのフーゴに届かない。音としては受け取れても、話の内容は全く頭に入って来なくなっていた。
 もう一つの声がうるさくて他に何も聞き取れない。けれど喚き散らせもしないもどかしさが苛立ちとなって、フーゴの思考を占拠している。自分にしか聞こえない声が喚いている。

「なんでそんなこと考えるの!」

「フーゴのばか!ばか!ばか!!」







「聞こえてくる言葉が暴力的になってきました」

 本来の患者が座るための小さな丸椅子を横に押しのけて、保護者用に備えられた普通の椅子に座ってみる。子供用のでは小さくて座りにくいが、普通の椅子でも高さがありすぎて踵が少し浮いてしまう。
 発展途上でどっちつかずな体を不便に思いながら、フーゴは新たな発見を医者に打ち明けた。

「へえ。なんて?」

「……『フーゴのばか』って。語彙はともかく完全に攻撃性が見られます。これでもまだ日和見するんですか?」

「うーん、君はどうしても自分を病気にしたいみたいだね」

「病気じゃあなかったらなんだって言うんですか」

「ストレスとか?」

「ストレスだって幻聴までいったら病気の域でしょう。それにそんなのはどうせ言い逃れだ。要するに僕の病状が分からないって、そういうことなんでしょう。はっきり言ったらいいじゃあないですか」

「お、よく分かったね」

「なに楽しそうな顔してるんですか。僕は全然楽しくないですよ」

 フーゴがいくら無愛想な言葉を投げかけてもランポーネはびくともしない。
 なんなんだろうこの人は。思わず眉間に皺がより、深いため息が漏れて出る。それでも昼間の出来事のように内心で悪口を言うようなことはなかった。苛立ちより呆れの方が遥かに大きいし、それにこちらがどんな様子だろうと勝手に上機嫌になっているランポーネは話していて気が楽な相手でもある。
 彼はフーゴが眉を寄せても不安がらないし、愛想笑いに気を良くしたりもしない。

「まあそれはともかく、原因なんてさしたる問題じゃあないんだよ。重要なのはむしろそいつが誰で何を言ってるのかってことで、それを見直すことが静寂を取り戻す糸口になると思うね」

「誰って……誰でもないんじゃあないですか。だって、幻聴ですよ。強いて言えば僕の脳が作った声なんだから、僕の声だ」

 誰もいない独りのときでも、耳を塞いでいても聞こえてくる声。それが現実のものでないと判断する力は十分にあった。自分の状態を客観視する知性も、それがどこから生じているのか見当をつけられるくらいの思考力もある。脳が完全に言うことを聞かなくなったわけではないのだろう。ただ、声が聞こえると錯覚している。

「そうだなあ……君の脳の声だってことには変わりないんだけど、架空のものを作り出すときってのはみんな何かを下敷きにしてるもんなんだよ。だから君の脳が誰をイメージしてその声を出してるのかっていうのをさ、考えてみようか。今から」

「……いいですけど」

 前のめりに肘をついたランポーネにつられて、フーゴも少しだけ椅子に座り直す。

「じゃあ、まずどういう声なのかはっきりさせよう。男の声?女の声?」

「……分からない。高いけど、女じゃあない」

「大人の声?子供の声?年はどれくらい?」

「子供の声。年は分からないけど、呂律がはっきりしていないから就学前くらいでしょうね。語彙も乏しいし」

「男の子供の声?」

「恐らくは」

「口調はどんな感じ?」

「……特に、これといった特徴はありません」

「うん。君にいろいろ口を出すのは“幼い男の子”ってわけだ。それもネアポリスに住んでる。訛ってるように感じないってことは、同じ訛りがあるってことだから」

 幼い男の子。口の中で小さくその言葉を繰り返すと、途端にそのイメージが沸いてきた。年は四歳くらいで髪色は薄く、眉が真っ直ぐであまり楽しそうな表情じゃあない。他に目立った特徴はなく、大きな目は常にこちらを見上げている。

「……どこかで、見たことがあるような気がする」

「いいね。解明に近づいてきた」

「でも、思い出せません。絶対どこかで見た子供なのに」

「まあいいでしょう、そんなに急がなくても。相手の輪郭が分かっただけで十分だ。それに今日はもう終わり。そろそろ帰る時間だろ」

 じゃあまた来週。ランポーネは右手でボールペンをカチカチ弄りながら軽く微笑む。
 ランポーネはあまりフーゴの名前を呼ばない。もとよりその方が会話としては自然なのだ。しかし普段無理矢理にでも名前をねじ込んでくる人間があまりに多いせいで、このふざけた医者との会話はどこか新鮮で特別なものに感じられた。
 ランポーネが天才児の診察を受け持ってることを誰かに自慢するだろうか?絶対にない。有り得ない。“絶対”という言葉ほど不誠実なものもないと分かっていたが、それでも心情的にはそう言い切れた。

「まだなにかある?バスに遅れるよ」

「……あんたは、僕を子供みたいに扱いますね」

「え?だってここ小児科だし……普通の精神科がいいの?あと一年は無理だよ」

「……それに、僕を見せびらかそうともしないし」

「見せびらかして楽しい特技でもあるんなら見せてくれてもいいけど。あ、ちなみに僕はペン回しできるよ。見る?」

「見ませんよ。もういいです、さようなら」

 ほら、やっぱり。“あなたと話していると疲れます”と言わんばかりの表情を浮かべつつ、実際にはわずかに胸のすくような気持ちでフーゴは診察室を出る。朝起きてから一つ飲み込み、大学へ行ってもう一つ飲み込み、一日が終わるころには肺いっぱいに溜まったなにかがほんの少しだけ減って、息をするのが楽になっている。
 それにランポーネと話しているときはあの声が聞こえてこないのだ。それが何より自分の心情を素直に表しているように思えた。


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