「パンナコッタ、あなたは私たちの誇りよ」 これは朝の挨拶。母親は厚めのバケットにバターを塗りつけながら口元を引き上げる。フーゴの目の前にあるカッフェを淹れたのも母親ならフーゴが着ている服を選んだのも母親で、さすがに着替えは自分でしたものの身支度が済んだあとで入念なチェックを入れるのも母親だった。 最もフーゴは自分でバターが塗れないわけではないし服装にしたってチェックに引っかかるようなことは滅多にないのだが、それでも母親はなんでもかんでもやりたがった。彼女の弁はこうだ。 「だってあなた、小さいころから全然手のかからない子供だったのよ。寂しいじゃあない。少しは母親らしいことがしたいわ」 フーゴがバケットを一枚食べているうちに次の一枚を手に取り、今度は粘り気のあるリンゴジャムを塗る。フーゴが嫌いなやつだ。それが終わると壁の時計に目をやって、甲斐甲斐しくも息子の代わりに時間を確認してやるのだ。なんていい母親だろう。フーゴは内心で皮肉る。 「時間はまだ大丈夫だよ。ちゃんと自分で確認してるから」 「あら、そう?ううん、そうよね。あなたそこらの大人よりしっかりしてるもの」 「ねえ、今日はカフェオレにしたの?」 マグカップの中を覗き込めば、いつもよりまろやかな色が顔を覗かせる。常に完璧であろうとする母親が今日に限って息子の飲み物を間違えるなどあり得ない。フーゴの台詞は確認だった。単に間違えただけなのは分かっている。 母親は案の定「間違えたわ。あなたのはこっち」と言ってもう一つのカップを差し出した。中は黒々とした液体で満たされている。フーゴは引き取られていくカップに諦め悪く視線を注ぎつつ、あからさまにもの欲しそうな表情はできずに二枚目のバケットへ手を伸ばした。 息子のことはなんだって私が知っていると自負する母親の言うところによれば、自分は甘ったるい子供用のカッフェを飲む必要なんてないらしい。(「我慢しなくていいのよ。あなたは他の子より進んでるんだから」)母親の“理解”によってフーゴの食卓に余分なミルクや砂糖は並ばない。あるのは苦いコーヒーと、無駄に値段の高いバター、無添加で色の鈍いジャムが塗られたバケットだけ。 「いってきます」 「愛してるわパンナコッタ。今日もがんばってきてね」 ここまでが朝の挨拶。両頬へのキスを受けとめて、フーゴは喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んで家を出る。 おかげでまた朝から重苦しい空気を肺のあたりまで目一杯抱えながら過ごす羽目になった。鉛を含んだような体をどうにか座席に押し込めて、客のまばらなバスに揺られながら閑静な住宅街を通り過ぎていく。 水のような、煙のような。溺れていると錯覚しそうなほど息苦しい。時折ため息となって外へ吐き出されるものの、それで気分が軽くなったためしはない。それどころか、息をつくたび容態は悪くなる一方であるような気すらする。 本当に吐き出さなければならないのは空気ではないのだ。窓の外に流れていく景色を眺めながら、また一つ長いため息をつく。 がんばらなかったら、どうする? がんばらなかったら、僕を愛さない? 「マンマは『がんばって』って言ったんだよ」 「……またお前か」 思わず声が出て、斜め前の席に座った客が怪訝そうに振り返った。フーゴは咄嗟に窓の方へ顔を逸らし、何事もないようなふりをする。 「がんばらなきゃだめだよ」 「うるさいな」 「マンマに嫌われちゃうよ」 「じゃあ結局、僕の考えが合ってるってことじゃあないか」 声が少し高くなって、また前の客が振り返ったのだろう、頬のあたりに視線を感じた。フーゴは無表情で他人事を装うが、苦しい行動だという自覚はあった。今バスに乗っている子供はひとりだけで、誰が喋っているかなど一目瞭然だ。 けれど他にどうすることもできなかった。客の注意が他に逸れるのを懸命に祈りつつ、フーゴは窓際に肘をついて口元を隠し、ぼそぼそと見えない相手に応戦し続ける。 「あのおじさん、こっちを見て心配してる。だいじょうぶって言わないと」 「……どうして」 「フーゴは子供じゃあないもん。大丈夫って言わなきゃ」 車内に視線を戻すと、確かにさっきの客がまだちらちらとフーゴを盗み見ている。一瞬だけ目が会うと、客は慌てて前に向き直った。それでもまだ気になるのか、後ろ頭はどこか落ち着きがない。 「なんでもないですって言わなきゃ。子供じゃあないから自分で言えるでしょ。ひとに心配かけたらだめなんだよ」 声はなおもフーゴをせっつく。斜め前の客はきっと、独り言にしては会話じみた言葉を続ける自分を頭の病気か何かと思っているのだろう。心配されていると言われればそうかもしれない。あるいはただの好奇心か。 車体が上下に揺れてバスが停車した瞬間、フーゴはブリーフケースを引っ掴んで足早に降り口へ向かった。大学に一番近いバス停はあと二つか三つ先立ったが、これ以上車内にいたいとは思わなかった。 「子供みたいなことしないでよ」 「……うるさいな。黙ってろよ」 ちょうどすれ違った老婆が自分に言われたものと思って「まあ!」と目を見開いた。それも全て他人事のように無視をして、フーゴは歩幅を大きく目的地へ向かう。 「学校、がんばらなきゃだめだからね」 最後にそう言い残して、声は消えた。 「かったるいこと言うなあ、そいつ」 男の座っているオフィスチェアが音を立てて軋みながらゆっくりとフーゴの方へ回る。病院の名前が印字されたボールペンをデスクに軽く放り投げて、患者の前だというのにランポーネは大きく伸びをした。 「……僕が言いたいのは、その声の主張はともかくただうるさいし鬱陶しいってことなんだ。これって幻聴でしょう?治す手立てはないんですか」 うーん、と伸びの延長のような気の抜けた相槌がフーゴに返ってきた。 部屋の中は暖かみのあるパステルカラーで溢れている。動物のぬいぐるみが医者のデスクの上に二つと診察台の脇に四つ、壁にかかっている鳩時計は振り子に可愛らしいリスがぶら下がっていて、壁紙は有名なキャラクターもの。カレンダーだってそうだ。ここは子供の視線を逸らせて不安を取り除こうという意識ばかりが感じられる。 正直に言ってフーゴはこの部屋が好きじゃあなかった。 確かに規定で言えば生まれて十三年と十一ヶ月のフーゴは小児科の範囲だ。大人と同じ医者にかかるにはあと一年と一ヶ月待って十五歳にならなければならない。けれどたったの十三ヶ月で何が変わるというのだろう。精神的には既に円熟しきっている自覚があるし、何より下は乳児から上でもせいぜいが中学生程度の子供に混じって待合室の椅子に座っているのはとても居心地が悪い。 傍から見たらフーゴだって中学生そのものなのだろうが実際は違う。飛び級に飛び級を重ねてとうとうカレッジの門を跨ぎ、一回り上の青年たちと肩を並べて既に半年が経とうとしていた。 「僕の病名はなんですか?統合失調症?ナルコレプシー?」 「どうしてその二つだと?」 「……大学の図書館で、幻聴が症状にある病名を探したんです。他にも脳腫瘍とかPTSDとかあったけど、脳の方は毎年検査してるしあとは身に覚えがないんで」 「なるほどね」 ランポーネはまた椅子を鳴らしながら体の向きを変える。患者の話を聞いているのだとは思えないほど軽快な相槌で、どちらかというと世間話でもしているかのような語調だ。 目の前の男は特別な掛かりつけ医ではない。家族が困ったとき真っ先に相談する医者は他にいるし、そもそもフーゴがこうしてランポーネの元を訪れていることを両親は感知していないのだ。 毎週精神科にかかっていると言ったら母親は大いに騒ぎ立てるに違いない。いや、彼女ならこれも天才の親のさだめとして真剣に悩んでくれるかもしれないが、どちらにしろフーゴの望むところではなかった。日常生活に波風を立てたいわけではないのだ。ただ鬱陶しいのをどうにかしたいというだけで。 「でもさ、そこまで調べたなら分かってるんじゃあないの?そういう病気を患ってるにしては症状が少なすぎるって。幻覚の他にも何かある?」 「……自覚症状は幻覚だけです」 「そうだね。僕がこうして見てる限り他に目に付くところもないし」 「……じゃあ、なんなんですか、これ」 「さあね。アルコール依存症とか麻薬中毒って可能性もあるけど、君はやってないんでしょう?なんだろうね?あ、飴食べる?」 「……要りません」 「そう?」ランポーネは差し出しかけたキャンディの包装を剥がし、ぽいと口の中へ放り込んだ。舐めて味わうようなことはせず、ビスケットでも齧るように躊躇なく奥歯で噛み潰している。フーゴなら絶対やらない食べ方だ。そもそもフーゴはキャンディを食べもしないのだけれど。 どうしてこんな不真面目な男が医者になれたのだろう。真面目な両親の元に生まれ、規律正しい私立学校で育ったフーゴにとってランポーネは謎と疑心を生む存在でしかない。 それでも両親に知られず診察を受けられるのはランポーネのところ以外にないのだ。どれほど律儀で有能な医者に診てもらえたとしても同伴者がいては意味がない。秘密裏に事を進められるというだけで十分。 自分の悩みを他人に打ち明けたらそこで全て終わる。フーゴはそう思っていた。 |