母親か、父親か、それとも同期生か。誰かの顔を思い出してはそんなわけがないと頭を振り、フーゴは看守の後について廊下を進む。誰が来たにせよ、今の状態でまともな話ができるとは思えなかった。面会者が両親ならば幸運だ。どんな罵詈雑言を浴びせられても今のフーゴには響かない。もし警察や弁護士だったとしたら上の空では今後の人生に影を落とすことになりかねないが、それも今更憂うようなことじゃあない。
面会者が誰だろうと心を揺さぶられるようなことはないだろう。そう思っていたものの、面会室に入った途端フーゴは困惑と疑問に眉をひそめた。狭い面接室の中、平らなテーブルの向かいに知らない人物が腰を下している。男は看守を呼びつけると手早く何かを渡し、あろうことか部屋から追い払ってしまった。きっと賄賂だったのだろう。フーゴはしばらく立ち尽くしていたが「座らないのか?」と男に言われて警戒心を抱きながらも椅子を引いた。
「……あんた、誰です」
「ブローノ・ブチャラティだ。君はパンナコッタ・フーゴだろう」
「……警察?それとも弁護士?」
警察なら看守に賄賂を渡したりはしないし、弁護士なら賄賂を渡さずとも看守は席を外す。どちらも違うだろうと思いながらもフーゴが疑問を投げかけると、案の定、男は首を振った。しかしその後に続いた言葉は予想外だった。「パッショーネというギャングを知っているか?」
「……なに?ギャング?」
「ああ、あまり警戒しないでほしいんだが……イタリア全土に根を張っている組織だ。オレはそこの構成員で、ここネアポリスを拠点にしている」
「……ギャングが僕に何の用ですか」
「そう身構えるな……なにもとって食おうってんじゃあない。君の“ちょっとした噂”を聞いたんだ。頭がいいらしいな。それに奇行が目立つ……」
「独り言、とか?」
「ああ、そうだな。それとキレやすいと聞いた。ここにいるのもそのせいなんだろう?」
「……ええ、まあ」
それがなんだというのか。ギャングの男などが自分に会いに来た理由が分からず、フーゴは観察するように相手の服や手先へ視線を廻らせる。あからさまに不躾な視線を受けてもなお、ブチャラティは堂々として眉ひとつ動かさずに話を続けた。
「その性格が重要なんだ。君は明らかに常軌を逸しているのに、理性がある。飛びぬけた知性がある。今もオレに飛び掛ったりせずに大人しく椅子に座っている」
「……それが、何なんです。当たり前のことでしょう」
「ああ、そうかもな……しかしオレは、君に素質がある証拠じゃあないかと思う」
「……素質って、何の」
ブチャラティは「いずれ分かる」などと言葉を濁して前のめりになり、テーブルの上で軽く両手を組んだ。
「君さえ望めばオレが保釈を手伝う。うまくいけば懲役も避けられるだろう」
「……え、」
「その代わり」いきなり何を言うのだと困惑するフーゴにブチャラティは畳み掛ける。「オレのところに来てほしい。パッショーネの傘下に入るんだ」
「……意味が、分かりません。どういうことですか?なんで僕を?留置所に来た人間全員に言ってるんですか?」
「いや、全員じゃあない。こう言ってはなんだが、狙って勧誘するのは君が初めてだからな、あまり自信はない。だが素質がなかったとしても一向に構わないんだ。君が構成員になりたくないというならそれでもいい……最近、オレは一区画の取りまとめと任されることになってな。人手が欲しいんだ」
「……頭のいい人手が?」
「まあ、そんなところだ。君は育ちがいいようだから家族が気にするかもしれないが……」
「いや」フーゴは反射的にブチャラティの言葉を遮っていた。
「両親は、気にしません。……いや、気にするかもしれないけど、僕にはもう関係ない。今ここにいるのが両親じゃあなくてあんただってことが全てです。もう縁は切られたたも同然だ……」
「……そうか。今まで大変だったろう。よく堪えたな」
はっと息を呑む。フーゴはそこで初めてブチャラティの瞳を見た。色も光も全く違う。目の前にいるのは彼じゃあない。けれどその言葉が、確かにフーゴの琴線に触れた。じわりと視界が滲む。ブチャラティはテーブルに身を乗り出し、慰めるようにフーゴの肩をさする。触れられた瞬間びくりと身をすくませたものの、その手の優しさにフーゴの心は大きく波打った。紛れもない他人の手が自分に触れていることが嬉しいのか、それが彼のものじゃあなくて悲しいのか、どちらに傾いているのか分からない。ただこみ上げる感情を抑えきれずにいた。
「大丈夫だ。君には行く場所がある。オレのところに来ればいい」
「違うんです、違う、そうじゃあない……」
せきが切れたように涙が頬を伝い、取りとめのない言葉が溢れ出す。ブチャラティは優しく手を添えたまま、ずっと黙って話を聞いていた。時折相槌を打ちながら、ずっとフーゴの傍に寄り添っていた。
「…ー…ゴ…………フーゴ!」
はっと意識が浮上する。何度か瞬きをしてまどろみの名残を払っていると、数週間前に道端で拾ってきた少年が目の前で怪訝な顔をしていた。
「どうしたんだよォ〜……すごい顔してるぞ」
「ああ、ちょっと……昔のことを、思い出していました」
むかし、と言ってもたった一年前のことだけれど。それまでの十四年間とそれからの一年は密度が全く違う。一年しか経っていないことが信じられないくらいめまぐるしく一日一日を生きてきた。今の自分が“パンナコッタ・フーゴ”に浸透していくのにはまだ時間がかかりそうだが、少しずつ塗り替えることは出来ている。
「何の用ですか?」
「あ、そうだった!これ、刑務所のスゲーデブなやつに枯らすなって言われた花……ちゃんと水差しに入れといたのに枯れちまったんだ!どうしよう?」
「似たようなのを買ってくればいいんじゃあないですか」
「何言ってんだよォーッ!枯らすなって命令だったんだぞ!!」
「もう枯れたもんはどうしようもないでしょう。潔く諦めるか頑張って誤魔化すか好きな方にしたら」
突き放すような答えにナランチャは顔を真っ青にして手に持った花を見つめる。フーゴはその隙に部屋を離れて街へ出た。自分のときとは内容が違うようだが、ポルポの試験であることは確かだろう。巻き添えはごめんだった。
パープルへイズ。パンナコッタ・フーゴのスタンド。
半年前、ブチャラティの周りに協力者が増えて、フーゴが手伝わなくてもやっていけるようになったころ。彼の元を離れるという選択肢はとうに消え、パッショーネの正式な構成員になろうと決めたとき。フーゴはブチャラティに黙ってポルポの独房を訪れた。秘密裏に試験を受け、合格し、パープルヘイズを得たのだ。
ブチャラティには後で少し怒られたが、そのことについて悪いと思ったことはない。彼はフーゴが試験で死んでしまわないか心配して、構成員になれと強く言えなかったのだ。半年間一緒にいて情が沸いてしまったのだろう。代わりにフーゴもブチャラティに尊敬の念を抱き、こうして今も彼のチームでネアポリスの暗部を動かしている。
パープルヘイズ。とても知能の低いなにか。
それがフーゴの弱みだ。丸腰になった自分だ。恐怖だ。
もし大学に在籍していたころにこれを見せられたら、きっと受け入れられなかっただろう。こんなのは自分じゃあないと突き飛ばして、ますます自分を嫌っただろう。世界を呪ったかもしれない。でも今のフーゴは、それも自分の一部だと認識できている。到底好きにはなれそうにないが、自分の一面であってはならないとは思わない。排除せずとも冷静な自分でいられる。
知能の高いことだけが自分の全てではないのだ。自分の分身が原始人以下だとしても、自分が否定されはしない。そんなものでフーゴは揺るがないし、ブチャラティもナランチャも、フーゴを見捨てたりはしない。
本音を言えば、パープルヘイズを見ていると苛立つし、ブチャラティの役に立ちそうにない能力を持ってしまったことに失望を覚えたりもしたけれど。
「……一人でやれってことなんだろうな」
そのよどみを消化して、いい方向へ持っていくのにランポーネの助力はない。ブチャラティの元で働き始めたときも、ポルポの試験のときも、幾度と危険に晒されたときもランポーネは出てこなかった。
どうしようもなくなったときだけだよ、という彼の言葉通り、本当に追い詰められたときにしか会えないのだろう。もしかしたらフーゴを安心させるための嘘で、永遠に会えないのかもしれない。あるいはこれから追い詰められることなんてなくなって、死ぬまで会えないかもしれない。
どれが真相なのだろう。いつの間にか高台に来ていたフーゴは鉄柵に寄りかかって目の前の海を眺める。潮風を頬に受けながらそっと瞼を閉じた。
いつかまたどうしようもなくなったときは、ランポーネがいてくれる。
そう思うと、これからも生きていけると思った。ランポーネがいてくれれば大丈夫。ランポーネがいないのなら、まだ自力でなんとかできる。そうして彼を支えにして毎日を過ごすのは、甘えだろうか。まだ内側に篭っていると言われてしまうだろうか。
「……でも、ひどく安心するんだ」
だからもう少しだけ傍にいて。僕が一人でいられるようになるまで。
そろそろ戻ってもいいころだろうか。風にあたって冷えた両手をさすりながら、フーゴはもと来た道を戻っていく。帰ったときにナランチャがまだ枯れた花を持っておろおろしているようだったら、一緒に解決法を考えてやろうと決めて。
少しずつ外側に開いていく自分を、ランポーネはきっと、優しく見守っているだろう。
世界はもっと楽しくできてる。僕が思ってたよりずっと。
(おわり)
リク03::フーゴ/男主
夢主が現実には存在しないと知ってフーゴがかわいそうなことになっちゃう話
夢主が現実には存在しないと知ってフーゴがかわいそうなことになっちゃう話