子供部屋で泣いてから一週間。フーゴは暇さえあれば部屋にあったものを持ち出してそれを呆然と眺め、読み、触り、昔の記憶を掘り起こそうとしていた。段ボールに詰められていたぼろぼろの絵本、図鑑、辞書、画集。字を覚えるのが早かったせいか絵や写真が中心の本はそれほどなく、文学全集や百科事典ばかりが揃っていた。家の中でもバスの中でもそれを腕に抱え、講義の合間にも興味のない文字列を懸命に視線でなぞってランポーネの影を探す。
 子供が再び現れた切欠はアルバムでその姿を見つけたことだった。ならばランポーネも、どこかから彼を見つけ出せばまた会えるのではないかと思ったのだ。子供の言うことが本当だとすれば、彼らは同じ幻覚という存在らしいから。
 ランポーネは年上の人物だ。フーゴの過去ではない。記憶が曖昧になった今では彼の背丈も瞳の色すらも思い出せないから、どこをどう探せばいいのかすらも分からないが、診察室の正体が子供部屋だったのは確かなのだ。それが唯一の手がかり。そこに可能性があると信じていた。
 虚構でも幻想でもいいから、もう一度話をしたい。彼の顔をこの目に映したい。
 また何の収穫もないまま百科事典の一冊に目を通し終わってしまい、本を閉じながら額に手を当ててうなだれる。どうしたの、と顔色を伺ってくる同期生は今は隣にいない。突然また本を抱えて深刻な表情をしているフーゴから何か察して遠巻きにしているのかもしれないし、あと騒ぎのあとで両親が同期生たちやその家族に何か言って回ったのかもしれないが、とにかくフーゴの両脇は空いている。今まで散々鬱陶しいと内心で蔑んできたし、実際いなくなってみると清々するくらいだ。幻聴がそれを突いてこなければ。

「フーゴ、手を上げて。今からでも間に合うよ。発言して。講義に参加して。じゃあないと……」

 講義が始まる前は友達の横に座れと喚き続けていたが、今はこうして講義に集中しろとせっついてくる。ランポーネのことはあれきり何も答えないくせにこうして注文だけはつけてくるのだ。じりじりと気力が削られる。
 今までは平気だった。初めのころこそ振り回されて疲弊していたが、ランポーネに会ってから少しだけ耐えられるようになった。愚痴を聞いてもらえたし、次の日からの指針も示してもらえた。負の感情の受け皿だったのだ、彼は。
 もう一ヶ月近く会えていない。代わりにあの無機質な診察室に通う日々だ。心を許していない医者が内心を覗き見ようとしてくるのに、必死で抵抗している。両親がそれに加担しているからそろそろ限界かもしれない。息苦しい。水面に顔が沈んだみたいに、息苦しい。

「ほら早く、フーゴ。講義が終わっちゃうよ。このままじゃあだめだよ。今からでもいいからちゃんとしようよ。ねえ、結局だめだったって分かってるでしょ?ランポーネの言う通りにしてなにがよくなったの?なんにもよくなってないよ。フーゴは今までみたいにしなきゃいけないんだよ。だから戻って、手を上げて。友達の隣に座って、マンマに愛してるって言って、それで……」

 深く息を吸い込んで、ゆっくりとため息をつく。その音が思いのほか大きく響いた。辺りがしんと静まり返っていることにぎくりとして顔を上げると、教授が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。

「私の講義はそんなに退屈かね、パンナコッタ・フーゴ君」

「……いいえ」

「そうか。話があるから後で研究室に来なさい」

 言い終わるのと同時に講義終わりのチャイムが鳴る。生徒たちは一斉に荷物をまとめ、講義室を出て行った。今までフーゴを待っていた取り巻きたちも、一人二人が視線をやったくらいで声を掛けてくることもなくドアの外に消える。面倒なことになった。フーゴはもう一度ため息をつく。







「最近はお友達と仲良くやっていないようだね」

 開口一番、教授はそう言って手元の書類から視線を上げた。フーゴはその意図が掴めず「仲良く?」と眉を寄せる。

「前は楽しそうにしていたじゃあないか。天才、天才と煽てられて」

 そこでようやく相手の思惑が分かって内心ため息をついた。今日はため息ばかりついている。目の前の大人はフーゴのことが気に入らないのだ。今までずっと気に食わなかったのを隠していたのか、ここ最近で心境の変化があったのかは分からないが。

「……僕を煽てるような人はいませんでしたよ」

「フーゴ、あやまろうよ。先生にあやまって、友達にもまた仲良くしてって言おうよ」

「ともかくね。私の講義がつまらないなら次から来てもらわなくて結構だ。君が真面目に聞いていないと他の生徒にも悪い影響が及ぶ」

「そうしたらぜんぶ元に戻れるよ」

「悪い影響……」

「つまり、迷惑なんだよ。君は自分の立場について考えたことがあるか?飛び級で入学した、いわゆる『天才』だ。私はそんなことはどうでもいいんだが、生徒たちはそうじゃあないんだ。気にしている。劣等感を持っている者もいるし対抗心を燃やす者もいる。その対象の君の態度が悪いと……空気が悪くなるんだ。分からないか?」

 分かりません、という言葉は唾と一緒に飲み込んだ。
 どうやら、自分は真面目に生きなければならないらしい。天才だから。
 天才が興味を持たないことに真面目に取り組むのが、自分が格下だと知らされているようで嫌だと感じる生徒がいる。意地になって不真面目なふりをする生徒がいる。教授の言い分は含みが多すぎて半分も理解できないが、見当をつければこんなところだろう。あるいは本当にフーゴが指標になっていて他の生徒のやる気を削いでしまっているか。

「そうですか。すみません」

 馬鹿馬鹿しい、と思った。こんなことに時間を割いている暇はないのだ。早く終わらせようと心にもない謝罪を口に出す。しかしそれが却って教授の神経を逆なでしたようだった。銀縁の眼鏡の奥で濁った瞳がぎらりとフーゴを睨みつける。視線は次にフーゴが抱え持った百科事典へ向かい、手招きされて本を渡すと教授はふんと鼻を鳴らす。

「それが、さっき読んでいた本か。私の講義よりこんなものが大事だと?どこにでも売っている百科事典が?」

「……そういうわけでは」

「いい。今更言い繕わなくても結構だ」

「フーゴ、ちゃんと言って!もっとちゃんと、先生の授業の方が大事ですって言って!」

 ほとんど投げるようにして返された本を両手で受け止める。その際に手首のあたりを角にぶつけたらしく、かすかな痛みが走った。幻聴と教授、どちらも同じくらいうるさかった。一刻も早くこの場を去ってしまいたい。そうしても幻聴の方が纏わりついたままなのは分かっているが、それにしたって今の状況はよくない。息苦しさの中に、わずかな苛立ちが混じって、心が掻き乱される。
 相手も同じくらい苛立っているのだろう、俯いて首筋を掻き始めたフーゴの顔を上げさせようと教授は大きく声を張った。「まあ、どうせ」

「君に本当の友達なんていないんだろうな。みんな媚を売っているだけだ。天才の友達という地位が欲しいだけ」

「フーゴ、謝って。もう一度謝って!ごめんなさいって言って、次からちゃんとしますって、真面目にしますって早く言って!」

「……いますよ。話し相手の、ひとりくらい」

「フーゴ!」

 ランポーネを友達というのは少し違う気がした。友達よりも近くて家族よりも遠い。同期生の前より素のままで向き合えて、両親の隣よりも安心できる。それをなんと呼ぶのかフーゴはまだ知らない。

「ほう。一人だけ?」

「…………ええ、まあ」

「ああ……そういえば、最近カウンセリングに通いだしたんだってな。私の知人がその病院に勤めているんだ。その話し相手っていうのは、まさか医者じゃあないだろうな?」

 違う。けれど違わない。教授が言っている医者ではないが、ランポーネは確かに医者だった。動揺が目に見えたのだろう、教授は苦々しい顔で嘲笑る。

「なんだ、図星か……いいか、医者っていうのは仕事で患者と接してるんだ。それは金で買った話し相手だよ。友達なんかじゃあない……その医者はお前のことを友達だとは思ってないだろうな。面倒な患者だと思っているかもしれない……その歳になってそんなことも分からないとは、やはり天才というのはどこか頭がおかし」

 教授の言葉はそこで途切れた。声だけならしばらく途切れ途切れに発していたが、意味のある言葉はそれが最後だった。フーゴが腕を振り下ろすたびに呻き声がもれる。二度三度と、重ねて顔を殴りつける。何も考えていなかった。無心でただひたすら同じ行動を繰り返していた。
 後ろから甲高い悲鳴が聞こえて振り返ると、見知らぬ女生徒が口を覆ってフーゴを見ていた。すぐさまどこかへ駆けていく。ぼんやりとそれを見送って教授に視線を戻すと、額や口元から出血していた。鼻も少し折れ曲がっているように見える。
 途端に脱力した手から百科事典が滑り落ちて、教授の胸に落ちた。黄ばんだページにも赤黒い染みがついている。
 女生徒が人を呼んできたのだろう、何人かがバタバタと廊下を走ってくる音がする。フーゴは部屋の隅に座り込んだ。膝を立てて、ゆるく組んだ腕の中に顔を埋める。何もかもぐちゃぐちゃだ。何もかも、うまくいかない。


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