ランポーネに会わなくちゃいけない。会って、話をしなければ。 講義室に忘れ物をしたと嘘をついてフーゴは家を飛び出した。母親がそれを信じたかどうかは分からないが今はどうでもいい。丁度バス停に止まっていたバスに飛び乗って大学の方へと向かう。バスの定期券は自宅と大学の間だけだ。それ以外の場所へ歩いて通っていたとは考えづらい。この区間のどこかに、ランポーネの勤める病院があるはずなのだ。 大学前でバスを降りて近くにいたタクシーの運転手から付近の病院の名前をあるだけ聞きだし、電話ボックスから一件一件ダイアルする。「プロント、ある精神科医を探しているんですが。ランポーネという名前の医者はいますか?」いない、と即答したのが二件、確認すると一旦保留にして結局いないと答えたのが一件、開業医じゃあないかと言ってきたのが一件。しかし開業医の方は名前が少し似ていただけで、電話してみると女の医者だった。受話器を置き、フーゴは宛てもなく街中を歩き続ける。 探しても探しても見つからない。誰に聞いてもそんな医者は知らないというし、精神科のある病院はさっき電話したところ以外にないという。自分でも何一つ思い出せないのだから、もうどうしようもなかった。 話さなければならないことがあるのに。話して、この混乱と動揺を和らげたいのに。それなのに、見つからない。まるで最初から何もなかったみたいだ。消えてしまった。 途方に暮れて家に帰ると、帰りが遅いと叱責を受けた。ばったり会った友達と講義のことで話し込んでしまったのだと苦しい言い訳でなんとか誤魔化して、逃げるように階段を上る。そして部屋のドアノブを握ったまま、中を覗き込んでぎくりとした。 子供がそこにいたのだ。もう現れないんじゃあないかと期待していた幻覚の子供が。本棚の前に立っている。 「……どっか行けよ。僕が会いたいのはお前じゃあない」 あれだけ苦労して、日常がこんなにも歪んでやっと消えてくれたと思ったのに。こんなにもあっさりと再発するなんて、落胆しすぎて不愉快にもなれない。癇癪を起こす気力すらなかった。 子供の方へちらりと目をやる。やはりアルバムの中にいたのを瓜二つ、そっくりそのままだ。間違いない。目の前の子供は十年前のフーゴだ。 「ランポーネはいないよ」 子供が通る声で言った。あまりの衝撃に頭を殴られたような錯覚に陥る。今、なんて?フーゴがまじまじとその顔を見ると、子供は相変わらずの不機嫌そうな表情で再び呟く。 「どこを探しても、ランポーネはいないよ」 「なんッ……なんでお前が……ランポーネのことを、なんでお前が知ってるんだよ……」 「知ってるよ。ぼくはフーゴがランポーネにいろいろ話してたのを知ってるし、ランポーネもフーゴがぼくにうるさいって怒ったのを知ってるよ」 頭がくらくらする。フーゴはよろけて壁にもたれかかった。これ以上聞いてはいけないと直感が警鐘を鳴らしている。けれど子供は容赦なく言葉を続け、フーゴの耳は否応なく音を拾う。 「だってぼくもランポーネも、フーゴの幻想だもの」 「………………は、」 「フーゴの頭の中にしかいない人間だもの」 「……やめろ」 「ぜんぶ君の幻覚なんだよ、パンナコッタ・フーゴ」 「やめろよ。やめろ……うるさい……うるさい!黙れ!黙れ!!」 「かわいそうなフーゴ」 「黙れよ!!」 近くにあったアルバムを思い切り投げつける。当たったと思った瞬間に子供はすっと消えていなくなった。残ったのは本棚に当たって無残に床へ落ちたアルバムと、それが起こした騒音の残響だけ。騒ぎを聞きつけた母親が階段を上がってくる音がする。フーゴは頭を抱えてうずくまった。 信じたくない。嘘だ。嘘をついている。あの子供はいつも自分を苛めてきたのだから、今度だってきっとそうだ。フーゴを傷つけるために嘘をついているのだ。 けれど分かっていた。嘘ならばどうしてランポーネの勤務先が見つからなかったのだろう。どうして誰もランポーネという医者を知らないのだろう。診察券がない理由は?両親に知られなかった理由は?答えが見つからないのだから、導かれる真実はこうだ。 自分に優しい人なんてはじめからいなかった。 イマジナリー・フレンド。空想の友達。講義の合間に図書館へ行き、改めて調べてみたらすぐにそれらしい項目が見つかった。心理的解離の一種。一応は正常な範囲と見なされ、幼児期の子供ならば一定の割合で起こる現象だとされており思春期で発現が認められた例もなくはない。専攻の分野ではないから断定はできないが、結局今かかっている医者からも精神疾患の類は何も指摘されていないのだからそう考えてしまってもいいだろう。 いや、違う。ダメだ。なにが「いいだろう」だ。何もいいことなんかない。ゆるゆると頭を振って手のひらで目を覆った。違うのだ。 「なにがちがうの?」 「……ランポーネは」 幻覚なんかじゃあない。彼は自分の空想なんかじゃあない。 開いていた本を閉じて元あった場所に戻し、別の本を持って席へ帰る。子供は退屈そうに向かいの席に座ってじっとしていた。 「ちがわないよ。言ったでしょ。ランポーネもぼくも、フーゴの幻覚だって」 「…………違う。そんなことない」 お前の言うことなんか信じるものか。フーゴはきゅっと口を引き結んで紙面に目を走らせる。速読は得意な方だった。文章を丸呑みしていくような速さで頭になだれ込ませ、単語を掻き分けて必要な情報だけを探し出す。 きっと忘れているだけだ。きっとランポーネが転勤でもしたのを忘れてしまっているのだ。あるいはランポーネの名前を覚え間違えている。記憶が錯乱しているのだ。昔の自分が幻覚として現れるなんてことがあるのだから、それくらいの症状があってもおかしくはない。そう決め付けて、今度は記憶に関する書籍を読み漁る。 「自分でも分かってるくせに」 いくつか候補は上がったが、どの病気にしても説明できない部分が残ってしまう。二つ以上の症状が組み合わさっているのかもしれない。それでこんな複雑な状況に陥っている。 「フーゴ、無理をするのはやめなよ。ろんりてきに考えるのは得意でしょ」 「……図書館で私語は慎めよ。“いい子”が好きなんだろ」 「ぼくの声はフーゴにしか聞こえないもん。ねえ、時間の無駄だよ。ともだちと話してた方がずっといいよ。だってランポーネは」 バン、とわざと音を立てて本を閉じた。同時に子供が視界から消える。父親に叩かれたあの日から子供は大きな音がトラウマになったらしく、こうして音を鳴らしてやるとすぐにいなくなる。 静かな図書館でフーゴの行為は予想以上に目立ってしまい、あちこちから刺すような視線が注がれた。折角子供がいなくなったというのにどうも集中できそうにない。フーゴは手元の本を全て戻して図書館を後にした。本当は何冊か借りていきたかったが、両親に見られて変に勘ぐられたら後が大変だ。 バスに揺られながら流れていく街並みをぼんやりと見つめる。子供がいないから他の乗客に変な目で見られることもない。静かな時間だ。けれど頭の中で声が響いてくる。幻聴とは少し違う、記憶の声だ。 “自分でも分かってるくせに” “ろんりてきに考えるのは得意でしょ” 自分自身の映し鏡だけあって、とてもよく見透かされている。悔しさに唇を強く噛み締めた。子供の言う通り本当は分かっているのだ。どんな病気にこじつけたって、どんな症状を掛け合わせたってランポーネの実在を信じるのは無理がある。ランポーネはいないと考える方がずっと楽だ。彼は幻想。どんなに嫌がっても思考はそこへ行き着いてしまう。 けれどそれでも認めたくなかった。 彼に会いたい。 そして話をして、言って欲しいのだ。自分はちゃんと実在していると。フーゴに優しいただ一人の人は、れっきとした他人なのだと。 自室に帰ってきたフーゴはふとあのアルバムに目をつけた。子供に投げつけて以来そのままにしていたが、そもそもそれがきっかけになって子供が再び姿を現したのかもしれない。それならばランポーネに再会できるなにかが潜んでいる可能性もある。拾い上げて折れ曲がった表紙を手で押し戻し、また最初のページから時系列を辿っていく。 やはり変な気分だ。写真の中にいる両親と自分はとても幸せそうで、明るい光の中で仲睦まじく暮らしているように見える。十年経ってこんな薄暗い家庭になるなんて誰も予想していなかったに違いない。 一冊目はそんな調子で目を通し終わり、三歳の誕生日から二冊目のアルバムに移る。そして幻覚の姿である四歳ころのページに辿り着いたとき、ひどく既視感があるのに気づいた。よくよく見てみればあの不機嫌そうな顔の後ろに見知った壁紙が写っている。その腕には見覚えのあるぬいぐるみが抱かれているし、上部にはどこかで見た鳩時計が見切れている。次の写真にも、その次の写真にも、どこかしらで知っているものが写っている。何枚もの写真の中の風景を頭の中で組み立ててみれば、そこにはランポーネの診察室があった。 あの部屋の情景までも自分の過去を下敷きにしていたのだ。フーゴはため息をついて天井を仰いだ。ランポーネが幻覚だという証拠ばかり見つけてしまう。 子供部屋はまだ残されている。家具の配置や小物類は変わっていても壁紙や間取りはそのままだろう。それだけあれば裏を取るのには十分だ。 仮説を決定付けたら、なにもかも終わってしまう。わずかに残されている逃げ道を自分で潰しに行くようなものだ。けれどフーゴは今の状況に耐え切れなかった。もし彼が本当に幻想なのだとしたら、診察室の元となった場所に行けばまた会えるかもしれない。ランポーネが幻想だと認めざるを得ない方向でも、ほんの僅かな希望がそこにあるのなら、縋りつくしかなかった。 フーゴはこっそりと部屋を降り、今は使われていない昔の子供部屋へ向かった。四歳ころまで一日の大半を過ごしていた部屋だ。五歳か六歳のときに増築して今の部屋に移り、それから十年間物置扱いされている。扉を開けて中を覗くと古い椅子や段ボールがひしめき合っていた。きっと父親のものだろう、年季の入ったデスクも置いてある。子供のサイズの小さなベッドも置いてあった。余計なものは多いが見覚えのあるものも多い。診察室に見立てていたのはここだった。どうりで病院が見つからないはずだ。自分の家の角部屋で静かにひとり遊びをしていたのだから。 埃で白くぼやけた壁紙の模様を指でなぞる。そこもかしこも埃だらけだ。ただ、父親のデスクの表面とその前にあるオフィスチェア、そして向かい合うように並べられた大きさの違う三つの椅子だけが埃を被っていない。 自分はきっと、いつもここに座っていたのだ。 試しに椅子に座ってみる。どれにするか迷ったが、子供用のも大人用のも座りづらかったのを思い出して真ん中の中途半端な大きさのものに腰掛けた。この椅子は途中で突然出てきたと思ったが、自分が無意識のうちに部屋の隅から引っ張り出してきたのだろうか。それとも視界から排除していたのを止めたのだろうか。考えても答えは出ない。 「……ねえ、あなたなら知ってるでしょう。どっちだったんですか」 しんと静まり返った部屋にフーゴの声だけが響く。 「この歳になってままごと遊びなんて、馬鹿みたいだ。飛び級して大学入って、それでお医者さんごっこなんて。いや、患者さんごっこかな。どっちにしろ、なんて子供なんだろう僕は」 目の前のオフィスチェアに手を伸ばして自分の方へ向かい合わせる。年老いているせいか、誰も座っていないのにキイキイ寂しい音が鳴った。 「……ねえ、ランポーネ、出てきてよ」 空の椅子を見つめていると、今にもランポーネが現れて、笑いかけてくれるような気がしてくる。 「出てきてよ………」 視界が滲んで前がよく見えない。俯いたら涙が何粒も落ちてズボンに染みを作った。鳩尾から嗚咽が湧き上がってきて思わず口元を覆う。分かっていると思っていても、やっぱり、希望を捨てられずにいたのだろう。もしかしたらと思っていた。 けれど今、希望は潰えた。本当にランポーネはいなかった。いなかったのだ。 |