※リク10::アナスイ/男主


 日曜の昼下がり、ドアを叩く無骨な音がアパートメントの一室に響き来訪者の存在を知らしめた。立て続けに三度ノックされ、ナマエは慌ててテレビの前から立ち上がりドアを開ける。目の前には髪の長い男が立っていた。

「…………あー、入ってくれ。荷物はどこにでも置いていい」

 男とも女とも取れる中性的な風体に一瞬戸惑いつつも、ナマエは男を招き入れる。端正な顔立ちも手伝って見ようによっては体つきのしっかりした女に見えないこともなかったが、今日この時間には男が来る予定で、他に来訪者がいないのだから目の前の人物は男なのだと結論付けた。ああ、と頷いた声の低さに自分の勘が当たったことを知る。
 ダイニングルームに入ると、男は点けっ放しのテレビを覗き込んで片眉を上げた。二十六インチの画面の中では三ヶ月前に世を騒がせた猟奇殺人犯の特集が流れている。

「……あーっと……一つ前の料理番組を見てたんだ。オージー訛りの酷いシェフがひたすら喋り倒すやつ……」

 ふうん、お前こういうのが好きなの。そんな心の声を聞いた気がしてナマエはすかさず言い繕う。出会って早々不信感を抱かれてはこれからの生活の先行きが不安だ。
 リモコンを手に取ってテレビを消そうとすると、男は「いいよ」と言ってそれを止めた。

「こいつまだ捕まってないんだってな」

「あー……みたいだね。マイアミだっけ?嫌だよな、近くて」

 司会者の女があからさまに嫌悪と恐怖を作った表情で犯行現場の付近をレポートしている。フルートを吹くのが趣味だったとか、大学では人気者だったとか、被害者の情報を交えながらいかに犯人が残虐で非道極まりないかを捲くし立てる。
 やはり初日に相応しい話題ではない。ナマエはテレビを消した。ブツンという音の後、画面が黒く落ちたのを視界の端で捉えながらリモコンをソファへ放り投げる。

「……えっと、コーヒーでも飲む?」

 テーブルに置いたままにしていたマグを手に取る。中のコーヒーはマグ越しにも分かるほど冷め切っていた。躊躇せずに流しへ捨てると、まだ温かいアルミのポットを男に向けて持ち上げる。

「その前に、オレの部屋はどこか教えてくれ」

 そう言って男は肩をすくめる。その肩には大きなスポーツバッグがかかったままだ。

「ああそうだ、ごめんごめん……」

 早速順番を飛ばしてしまったことを恥じてナマエは首の後ろを掻く。
 ポットをコーヒーメーカーに戻そうとするが、慌てているせいかなかなかうまく嵌らない。ついには力んだ弾みでポットを取り落とし、ゴン、と鈍い音を立てて自分の左足の上に着地させた。
 「痛ってえ!」飛び上がるようにして後ずさり、うずくまって足を押さえる。歯を食いしばりながら声にならない叫びを上げる。
 痛みに支配された頭の片隅で、ナマエはまたやってしまったと居た堪れない気持ちになった。今まで三人のルームメイトとそれぞれ過ごしていたが、初めて会う日はいつも落ち着かず失敗ばかりだった。今日こそはと昼前からイメージトレーニングに励んでいたものの努力が実る気配は一向にない。それもこれもあの特集番組のせいだと少々無理のある責任転嫁をして痛みと羞恥を堪えていると、男がナマエに歩み寄り落ちたポットを拾い上げた。

「ほら」

「……どうも……」

「いつもこうなのか?」

「いや、いつもは……あー……正直に言うよ。いつもこうだ……」

 途端に男が小さく噴出した。前のルームメイトにはどんくさいと鼻で笑われその前にはこいつは大丈夫なのかと不憫な視線を向けられたあがり症も、たまにはいい方向へ転がるようだ。

「もう知ってると思うけど、オレはナマエ。一応大学生だけど、あとは卒業するだけだから昼間は八ブロック先の楽器屋で働いてる」

「アナスイだ。ナルシソ・アナスイ。大学は中退した。今は求職中」

「そうか。よろしくアナスイ」

 軽く握手を交わして、ナマエは部屋の間取りについて説明を始めた。ダイニングを出た廊下の一番奥がアナスイの寝室で、その隣のバスルームと物置部屋を挟んでナマエの寝室がある。続けてトイレと風呂掃除は交代制、洗濯物は分ける、などの基本的なルールも言い含める。

「これで全部かな。また何かあったらそのときに言うよ。不満があったらルールを決めなおせばいいし……」

「分かった。他には?」

「他には……ああ、そうだ……友達連れてくるのはいい。ずっと居座られたら困るけどほどほどなら大丈夫だ。けど恋人はなし。これだけは頼むよ。前のやつがルーズでひどいことになった」

 具体的にどんなことになったのかは言いたくないし思い出したくもない、と言うとアナスイは苦笑した。

「心配しなくていい。振られたばっかりだから」

「…………あー……」

「『ごめん』も『元気出せ』も言わなくていい」

 軽い調子でそう言うと、アナスイは荷物を持って自室へ引っ込んだ。最後の最後にまた失敗してしまったことで自分を叱咤しながら、ナマエはポットを傾けマグにコーヒーを注いだ。







 アナスイが求職中というのは、嘘ではないが丸きり真実というわけでもなかった。振られたばかりだという前の彼女と同じ分野での就職が決まっていたのを、破局で何もかも嫌になって辞退してしまったらしい。しかも大学を中退したというのも、年上の彼女が昨年通っていたキャンパスへ行くのが嫌になったからだという。
 それを聞いたとき、ナマエは人は見かけによらないものだと心底驚いた。過去を知った後でもドライな雰囲気を持つ目の前のアナスイと自暴自棄になった男とが重ならずに現実味を感じられない。

「……何で見てる?」

「あー、ごめん。やっぱり意外だと思って」

「……オレの失恋のこと?」

 アナスイの言葉に「そう」と答え、自嘲気味の顔を見て「ごめん」と付け足した。人の傷をえぐるような真似をしていると分かっていながらも、時々ついこうして本人に零してしまう。
 ナマエは両手に持ったマグのうち片方をアナスイに渡した。淹れたての熱いコーヒーから湯気が立ち昇っている。

「いいよ。もう慣れた。時々ドジすぎるところも、気が利かないところも」

「はは……本当ごめん……」

 アナスイがこの部屋に来てあっという間に一ヶ月が過ぎた。前の住人の抜けた場所にアナスイの私物が入り込み、日常に馴染みつつある。
 ナマエはアナスイを気に入っていた。一度ピリピリとした誰も寄せ付けない雰囲気を纏っていたことがあったが、新生活のストレスでそうなるのはよくあることで慣れていたし、それを差し引いても人柄がいい。気が合うとか仲良くなれるということではなく、ルームシェアという共同生活をするのに丁度いい距離を保てるということだ。差し当たりなく接し、相手のプライベートに干渉せず、問題は話し合いで冷静に解決する。
 そしてまれにこうして休日の午後にコーヒーを飲んだ。ナマエは愛用している花柄のマグで、食器を持参してこなかったアナスイにはナマエが通っていた大学のロゴマークつきのマグを貸し出している。

「……いつも思ってたんだけど、それ女みたいだよな」

 ふーっと息を吹きかけてコーヒーの表面を冷ましていると、アナスイがナマエのマグを差して言った。「ああ、これ?」ナマエは声を軽くして気まずい気分を誤魔化しながら曖昧に笑う。

「実は……あー……オレも最近振られてて。最近って言っても、もう何ヶ月も前なんだけど……結構長く付き合ってたから引き摺っちゃってさ。これ、彼女のなんだ。ペアで買ってたのを、別れるときに一つ貰ってきた」

「……聞いてないぞ。なんだ、オレたち振られた者同士か」

 にやっと笑ったアナスイに、ナマエも無理やり笑い返す。そして聞かれるがまま彼女のことを話し、時には笑い飛ばし時には思い出に浸った。男が持つには可愛すぎるマグカップを優しく擦り、感傷的な自分に気づいて呆れたように苦笑する。

「あー、男はダメだね。全然切り替えられない。女なんて一週間後には違う男を見てるのに……ああ、でもアナスイはもう次に進んでるもんな。オレだけだよ、ずっと立ち止まりっぱなしで」

「そんなことねえよ。オレだって引き摺ってる。あいつが頼んでたややこしいコーヒーのオーダー、まだ暗唱できるんだぞ」

 思わず「言ってみろよ」と言うと、アナスイは本当にオーダーらしき長い言葉を空で言ってみせた。単語の一つ一つはナッツやモカなどの聞きなれたものだが、一息で続けて言われるとまるで呪文か何かのように聞こえる。
 面白がって自分も覚えてやろうと意気込んだが、ナマエが覚えられたのは初めの三、四単語だけだった。

「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアイス……」

「バニラアーモンド、だ。その後がキャラメルエキストラホイップ」

「……無理だろこれ!なんで覚えられるんだよ」

「買ってきてやろうか?」

「いい!いらない!」

 何度目かの失敗でとうとう笑いが止まらなくなったナマエはひいひいと肩を震わせながらテーブルに置いたマグに手を伸ばす。口をつけて飲もうとするとまた笑いがぶり返してきて結局飲めずにテーブルへ戻した。
 アナスイは頬杖をついてナマエの様子をにやにやと見ている。しかしふと寂しげな表情になると、コーヒーを一口飲んで物憂げにため息をついた。

「このトッピングだらけで馬鹿高いのを持って帰ったときの笑顔がさ、好きだったんだよ」

「…………そっか」

「格好悪いな、オレたち」

「本当にな」

 さっきまでの盛り上がりは跡形もなく消え去り、しんと部屋が静まり返る。
 ナマエはもう一度マグを持ち上げると、アナスイのマグへ向けて手を伸ばした。アナスイも察してマグを寄せる。

「独り身に乾杯」

「……乾杯」

 カチン、と高い音がして陶器が触れ合う。散々バニラやキャラメルなどの甘い単語を耳にしたせいか、口をつけたコーヒーがやけに苦く感じてナマエは忍び笑いをする。アナスイの方を見れば、彼もそう感じたようで左右に引き伸ばした唇から舌をべっと出してみせた。

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