母親が呼び鈴を鳴らす。誰かの足音が聞こえて、ガチャリと鍵を外す音がして、そしてドアが開いた。見知ったおばさんの顔が微笑んで「いらっしゃい」と出迎える。 体を硬くしたままのナマエを、母親が押し出した。「ほら、挨拶しなさいって」 「おばさん、のりくんは?」 「こんにちは、でしょ!」 「ナマエくんこんにちは。典明ならリビングにいるわ」 おばさんがクスクス笑って言う。ナマエは「おじゃましまーす!」とおざなりに言って玄関に上がりこんだ。母親がおばさんにぺこぺこしながら駅で買ってきたお土産のお菓子を渡している。 手紙が届いたのはつい昨日のことだった。ラジオ体操から帰って扇風機の前で涼んでいると、母親が「あんたに手紙」と言って封筒を渡してきたのだ。そして一日と数時間たった今、ナマエは差出人の家にいる。 手紙を読んで、居ても経ってもいられなくて、母親に無理を言って連れてきてもらったのだ。特急列車で二時間の旅路はなかなかに長かった。 廊下を歩くナマエに、後ろからおばさんが「リビングはそこを右よ」と助言する。その通りに、一箇所ドアが開いていて、広い部屋があったので、恐る恐る顔を出した。広いテーブルにぽつんと座る背中があって、どきりとする。心臓がばくばくした。 「の、りくん」 やっと一言搾り出すと、花京院がゆっくりと振り向いて、「久しぶり」と口を開く。互いに緊張していて、口元がにやけていた。居心地の悪い沈黙が続く。 「……来たよ!」 意を決してそう言うと、瞬間、花京院も笑って「うん!」と言った。何かがはじけた。もう大丈夫だ、と思った。前の二人に戻ったのだ。 子供部屋でひとしきり遊んでから、ふと、花京院が緊張した面持ちでナマエに向き合った。 「あのさ……図鑑の、ことなんだけど」 図鑑。動物図鑑だ。ナマエが花京院と遊ぶときに毎回持っていって、次第に持っていくのが面倒だからと、花京院の家に置くようになっていた、大きくて重い動物図鑑。転校する前、花京院が失くしたと言ってきた本。 「あれ、本当は……」 「失くしてないんだろ」 「えっ」 花京院が驚いて、目を潤ませる。ナマエは顔を伏せて、頭をかきむしってから、口を開いた。 「だって、あんな大きい本、失くしようがないだろ。のりくん、学校の忘れ物だって一回もないのに、あんなの失くすわけない。だから、……だから、おれ、のりくんがもう遊ぶの嫌になって、うそついたんだって思った」 「違うよ! 違う! 全然違う!」 強く強く否定されて、ナマエは安心して破顔した。それを見た花京院がいぶかしげに眉を寄せる。 「よかったー」 「待って、よくない、まだぼく喋ってない!」 「あはは、いいよもう」 「よくないってば!」 ナマエはずっと不安だったのだ。自分が花京院に嫌われて、それで、遊びたくなくなったのだと思っていた。図鑑を失くしたことを口実にして、だからもう来るなと、言外にそう言われたのだと思っていた。でも違った。違ったのだ。嬉しくて、笑うしかない。 にこにこして脱力したナマエの肩を花京院が憤慨した様子で揺さぶる。「聞いて!」 「ぼくは……君の図鑑、に、紅茶をこぼしてっ……」 言いながら、花京院の目から涙が落ちる。けれど口元は笑っていて、変な顔になっていた。花京院も安心したのだ。ナマエが怒っていないと知って。互いにすれ違っていた。変に勘ぐって、喧嘩して、それで。 「……仲直りしようよ。ほら、握手」 「うん……ちょっと、まって」 ずずっと花京院が鼻をすする。ナマエもなんだか泣けてきて、二人してべそをかいたまま、手を握った。力任せにぶんぶん振り回して、ふざけて笑う。 「……遊びに来てくれて、よかった」 「……それなら、もっと早く手紙くれればよかったのに」 「だって……『お前なんかもう知らない』って、また言われたら、どうしようって。怖くて」 「おれ、そんなこと言ったっけ」 「言ったよ! ぼくはそれで、ずっと……」 花京院がまた瞳を潤ませる。鼻水が光っていて、顔は悪くないやつなのに、なんとも間抜けだった。 「ごめんって! ごめんな。言い過ぎたよ。おれ、お前に嫌われたと思って、それならおれも嫌ってやる!ってなって、……」 なんて馬鹿だったんだろう。ナマエは思わず、花京院に飛びついた。「うわっ」と声が漏れるのを耳元に感じながら、そのまま二人で床に倒れこむ。カーペットが敷いてあるところでよかった。下敷きになった花京院が「重いよ」と不平を漏らす。でも、笑っている。腹がひくひく動いてくすぐったい。 「手紙、ありがと」 「……うん」 花京院の手紙が来なかったら、ずっと仲互いしたままだっただろう。もったいない。こんな些細なことで一年半も喧嘩していたなんて。 一年半もあれば、きっといろんなことができたはずだ。何十回も会って、何回もプールや公園に行って、それで、何十枚も絵を描くことができただろう。 「……今から、いっぱい遊ぼう。一年半も無駄にしたから」 「喧嘩したぶん、遊んでチャラにする?」 「そういうこと」 なにせまだ昼の一時だし、今年の夏休みに至ってはあと十五日もあるのだ。何回遊べるだろう。日にちが合えば泊りで遊んだっていい。夏休みが終わっても、冬休みがあるし、年末年始があるし、祝日があるし、春休みもゴールデンウィークもある。そしてまた夏休みが来るのだ。時間はいくらでもある。埋め合わせには困らなかった。 |