※承太郎がデキ婚
カイロへの道中で気が抜けなかったのは確かだが、一分一秒張り詰めていたというわけでもなかった。気休め程度だったにしろそこには確かに笑いあう時間や時計を気にせず遊びに興じるひと時があったのだ。今思えば保護者の立場であるジョセフやアブドゥルが気を遣ってそう仕向けてくれていたのかもしれないが、とにかくナマエが覚えていることといったら半分は敵との応戦で、もう半分がそういう時間のことだった。
実際は敵の動向を窺っていた時間の方が長かったに違いない。次に睡眠と移動の時間が多くを占めて、楽しかった時間なんてほんの僅か。全体から見れば一瞬も一瞬だ。なのにその一瞬がいつでも最初に思い出されて、なぜだかいつまでも色濃く脳裏に残っているのだ。
ジョセフが持っていたトランプで暇を潰しているうちに白熱し、お互いの威信を賭けた真剣勝負に発展したこと。怪しい露天商が売り込んでくる見慣れぬ品を、ポルナレフがこき下ろしているのを後ろで眺めていたこと。食事をしようとそれらしい店に入ったら怪しい商売をやっているところだったとか、通貨が覚えられずに釣銭を誤魔化されそうになっただとか、そういう旅先ならではの苦労もある。
あるとき泊まったホテルがおんぼろで、部屋のシャワーが壊れていた。寒いのに水しか出なかったのだ。仕方がないので相部屋だった花京院と共に承太郎たちの部屋へ行き、お湯を借りるついでにあれこれ愚痴交じりの話をした。
そのうちポルナレフが外から帰ってきて、屋台で買ってきたという謎の串料理を押し付けられ恐る恐る口をつける。あれが何の肉だったのかは今でも分からずじまいだ。次第に話が盛り上がり、日付の変わるころまでどんちゃん騒ぎをしていると流石に隣室のジョセフとアブドゥルが気づいて部屋に突入してくる。「明日に備えて休むべきだろう」とアブドゥルに諭され申し訳なく思っていると、隣で神妙な顔をしたジョセフが「うむ。ところでわしも混ぜてくれはせんか」といたずらっぽい笑顔になり、呆気に取られる周囲をよそに「そうこなくちゃな!」と歓迎したポルナレフと堂々酒盛りを始めるのである。
突然裏切られたアブドゥルはジョースターさん!とジョセフを叱責するが、あの子供のような爺さんはまあまあたまにはいいじゃあないかと全く取り合いもせずに笑い、はなから周りの人間などお構いなしの承太郎に加えてナマエや花京院もなんだか後ろ盾が増えたような気分になり、アブドゥルもこっちに来ませんか、そうだよ来いよと手招きする。
初めは意地を張って私は寝ます! と言っていたアブドゥルも押せば押すほど眉が下がり、すぐ部屋に戻りますからね! と言いつつも最後にはなし崩しになって朝までくだらないゲームや雑談に興じる。風のない、静かな夜のことだった。
そんなこともあったかもなと承太郎が缶を煽る。あっただろとナマエも再び缶を手に取った。しかしなんとなく飲む気になれず、手に持ったまま意味もなくゆらゆらと缶を回す。中の酒が揺れている重みを感じながら、飲みきれそうにはないなと思った。承太郎と違ってもともと酒には強くない。
「覚えてねえ」
「……エジプトに入る前だよ。アブドゥルも花京院も、まだ、怪我してなかったとき……」
「あったか? こんなこと」
「あったって。おれは覚えてる。ジョセフの爺さんとポルナレフが冷蔵庫の酒を全部飲んじまって、チェックアウトするとき会計がすごいことになってたんだ」
「覚えてねえな……それに、どんだけ飲んでも支払いはジジイのカードだろ」
「そうだったけど……お前はどうせ、タバコ吸いに外出てたんだろ。そういえばいなかった気がする」
そうかもなと頷く承太郎の手元には、空の灰皿が暇そうに佇んでいる。一時間前に適当に部屋を掃除して、そのとき小銭入れにしていたのをこれでいいかと中身を空けてテーブルに移しておいたのだが、余計な気遣いだったようだ。二ヶ月前から禁煙しているのだと言ってナマエを驚かせた目の前の男からは、確かにタバコの匂いがしなかった。
半年ぶりか、もっと久しぶりの再会かもしれない。それなのに場所はナマエのアパートで、飲んでいるのは安い缶ビールだった。急なことでろくな準備ができなかったというのはただの言い訳だ。狭いアパートの一室は二時間もあれば隅々まで掃除できるし、歩いて三分かからないところに酒屋がある。外に食べに行ってもよかった。
それなのにこうして静かに飲み交わすのを選んだのは、相手が承太郎だったからだろう。向こうもきっと同じようなことを感じている。不満があるとすぐさま口に出し、気づいたらタバコを吸いにどこかへ消えているあのマイペースな承太郎が何も言わずにただ座っているのだから、そうに違いなかった。
「……式は、向こうで挙げるのか」
深く息を吸って勢いをつけたつもりが、逆に声が裏返ってしまって情けなかった。誤魔化すように頬杖をつき唇を結ぶ。承太郎はゆっくりとビールを一口飲んでから「ああ」と頷いた。
「そんな大したもんじゃあねえがな。誓いの儀式だけだ。親と兄弟しか呼ばねえ」
「……一生に一度のことだろ? 嫁さんかわいそうじゃあないか」
「……向こうの意向だ。おれは何も言ってねえ」
ふうんと相槌を打つと、承太郎は一言付け足した。「すぐに子供も生まれる。そっちに専念したいんだろう」
無意識のうちに灰皿へと視線が吸い込まれる。承太郎の前に空の灰皿がある光景など想像したこともなかった。けれど今、確かにそれがナマエの目に映っている。
生まれてくる子供のために、新たな命を宿した相手の身体のために絶ったのだと承太郎は言った。もともと惰性で続けていただけだったから止めるのは難しくなかったとも言っていたが、それは嘘だ。初めこそ好奇心と惰性からなるただの習慣だったかもしれないが、あの旅から帰った後は完全に依存の域に入っていたことをナマエは知っている。
「……お前は、すごいよな」
「何がだ」
「タバコ」
「……辛いのは初めの二週間だけだった」
「そうじゃあなくて……だって、予定してたわけじゃあないんだろ。急に知らされたのに受け入れて、覚悟できたんだろ。すぐに。いつもすごいと思ってた。お前は、いつも、前に進める」
承太郎は缶を置いた。ナマエは大きく深呼吸をしながら天井を仰ぐ。
「おい、ナマエ」
「ごめん。ごめん……分かってる。ごめん。変な言い方した」
結婚の報告に来た承太郎を素直に祝ってやるはずだった。笑顔で迎えて、からかいながら相手のことを聞いて、明るく温かい空気で送り出すつもりだった。こんなはずじゃあなかったのだ。
承太郎は何も言わない。その優しさがますますナマエを責めた。承太郎は全部分かっている。置いていかれたような気分で勝手に沈んでいることも、承太郎に気を遣わせて悪いと思っていることも、やりたかったことが上手く行かなかったことも、全て。図体も態度もでかいくせをして、こういうところだけ機敏で繊細な男なのだ。出会ってまだ三年と少しだったが、あの冬の日々は彼という人間を理解するに十分な密度だった。
もう一度ナマエが「ごめん」と謝ると、承太郎は「うるせえ」と返して帽子のつばを触った。
「……おれは、友達付き合いってのをほとんどしてこなかった。特に旅に出る前なんかは、誰ともつるまなかったし、隣をうろちょろされるのは鬱陶しいとすら思ってたからな。今も少しはそうだ。一人でいる方が楽なときが多い」
「……お前、そうだよな。人の話聞かねえし、勝手にどっか行くし、一人で決めるし……それで上手くいくからまたむかつくんだ」
話しているうちにおかしくなってきて、ナマエは笑い混じりに鼻をすする。承太郎は何もかも一番だった。一番要領が良く、力が強く、頭の回転も速い。花京院やナマエだって決して出来の悪い人間ではなかったが、承太郎と比べられると完全に形無しだった。
「お前ってそういうやつだよ承太郎。バカみてえにすごい。そりゃあ、友達いねえよな」
「知るか。ちょっと黙ってろ」
承太郎がむっとして言い返す。そして珍しくナマエの顔を覗きこむと、じっと目を合わせた。
「なあ、おい。おれの結婚を祝ってくれるダチってのは、お前くらいしかいないんだぜ、ナマエ」
「………………」
「青春って言うんだったか、昔の日のことは。おれにとってはあれがそうだった。お前と、花京院と、一緒にいたときがそうだった」
「……おれもだよ。おれだってそうだった。おれだって友達いないし、あんなに……あんなに、……楽しかったとは違うな……けど、あんな時間、他になかった。これからも一生ない」
変だよな、死に物狂いだったのに。引きつった口から乾いた笑いが零れる。子供のころはもっときらきらした時期をそう呼ぶのだと思っていた。もっと楽しさと明るさに溢れていて、希望に満ちて、何の暗がりもなく光ある未来へ続いていくような時期を青春と言うのだと、愚直なまでに真っ直ぐ信じていた。あんな汗と埃まみれの日々をこんなに眩しく感じるなんて思ってもみなかった。あんな日々をこんなに大切に思うなんて、考えてもみなかった。
「花京院も、そうだったかな……そうだろうな。あいつ、友達いなかったしな……」
承太郎と花京院とナマエ。三人ともが同じだった。
「……あのときさ、承太郎。さっき言った、おれと花京院が風呂借りに行った夜。お前は飲んでたけど、おれと花京院は飲まなかったんだ。一口舐めたけどビールは苦いし、他は強い酒ばっかだったし、変に酔って次の日に響いても困ると思ったから。炭酸やジュース飲んでたんだ。それでさ、おれと花京院、約束したんだよ。二十歳越えたら酒飲みに行こうって」
「……ああ」
「『承太郎も行くよな』っておれが言った。そしたらお前は」
「『今飲めばいいだろ』つったな」
「……お前っ、覚えて」
「ああ。さっきは嘘をついた」
しれっとそう言い放ち、承太郎は缶ビールを飲み干した。最後の一滴が落ちてくるのを待っているその姿を呆然と見つめながら、ナマエはごくりと唾を飲み込む。
「……忘れたふりをしているだけだ。お前にも、自分にも」
「……そうか……」
「それで、なんだ。話の続きは」
自分で話の腰を折っておきながら、平気でそう言うのだ、この男は。むっとしながらもナマエは妙な安心感を覚えていた。目の前にいるのは間違いなく承太郎だ。人の話を聞かないし、勝手にどこかへ消えるし、何でも一人で決めてしまう。あのときから少しも変わらない。
「…………花京院、転校生だっただろ。前の学校と授業の進みが違って少し困ってるって言ってたから、おれがノート貸してやるって言った。そしたらあいつ、おれの字は汚いから読めるかどうか心配だとか抜かしやがって、…………でも、ありがとうって。それに家に遊びに来いとも言ってた。自分にも友達がいるってことを両親に見せてやるんだって……結構いろいろ言い合ってたんだ。どこに行きたいとか、なにをしたいとか」
「………………」
「帰ってからの話なんか、するんじゃあなかった。ノート貸さないまま高校卒業したし、酒飲みに行かないまま二十歳を過ぎた。あいつの家に遊びにも行ってない。何も出来てない。何かあるたびに、何か思い出すたびに、あいつと出来なかったことを考えて、どうにもならなくなる」
本当は今でもあの日の続きをしているはずだったのだ。花京院と承太郎と、三人で青春ごっこをしたかったのに。それには役が揃わない。
「……おれが忘れたふりなんかしてるのは……そうでもしないと進めねえと思ったからだ。終わったことにしないといつまでも続くからだ。だから無理矢理忘れたふりなんかするが、本当は覚えてる。お前と同じくらいな」
「……そっか」
「動けないのも忘れたふりで無理矢理進むのも、同じようなもんだ。惨めなのは」
「……惨めなんかじゃあないだろ。それはおれだ。お前は立派だよ」
「どうだかな。おれからしたら、お前のがよっぽど……」
承太郎はそこで言葉を切って、ふうと息をついた。やれやれだぜとお決まりの台詞を掠れた声で呟いて、帽子のつばを引き下げる。
両手で顔を覆って隠していたのに気づかれてしまったようだった。鼻頭がつんとして、どんどん顔が熱くなる。ついに一筋だけ涙が頬を零れ落ちた。
こんなはずじゃあなかった。門出の祝いに涙なんて必要ない。こんな湿っぽい時間にするつもりじゃあなかったのだ。
けれど他にどう成り得たのだろう。自分と承太郎、二人が会ったらその間にいない誰かを必ず思い出す。もう揃うことのない三人でいた時間を思い出す。叶うことのない願いを思い出す。承太郎とはそういう付き合いしかできないだろう。忘れることなどできないし、乗り越え方も分からない。
それでもお互い、大切な他人は目の前のただ一人しかいないのだ。相手を自分の人生から追い出すことなど、できはしないのだ。
「……結婚、おめでとう、承太郎」
ひどい涙声だった。承太郎は「ああ」と言って、ただ向かいに座っている。
いびつな青春の名残はこれからも自分たちの季節を歪めていくのだろう。確信にも似た予感がナマエの中に生まれていた。傷だらけで不恰好で、胸が張り裂けそうになるほどの切なさを孕んだ季節が巡ってくるのだろう。それでも思い出を放り投げられずに、大事に大事に抱えて生きていくのだろう。そうすることしかできないのだろう。
昔話は終わったあとにしかできない。その日春の終わりを知った。
過ぎし春の日