ピーッとヤカンが湯気をふく音ではっと意識を取り戻した。これで何度目のことか分からない。昨日の出来事が断片的に蘇ってはいとも簡単に私の意識を飲み込んでいく。何度振り返って正気に戻ったと思ってもふとした瞬間に思い出してまた元に戻ってしまうのだ。ふうと短く息を吐いて、コーヒーフィルターに熱湯を注ぐ。むわっとした蒸気と共にコーヒーの匂いが辺りに広がった。
ウェザー・リポートとの時間はとても鮮やかで、落ち着かなくて、照れくさくて俯いてしまいそうなくらい、甘やかだった。思い出すたびに心臓がざわめいて胸が窮屈になるし、それだから、息苦しくなってため息が増える。正直どうかしていると思う。だってまだ出会ってたったの……
「……三日?」
今日、昨日、おととい……指折り数えて無言になる。出会ってたったそれだけしか経っていないのかと思うと同時に、もうそんなに経っていたのかとも思った。ここ数日だけ急に時間が早くなったみたいにあっという間だった。けれど初めて顔を会わせた一昨日のことが、遠く昔のことのようにも思える。不思議な心地だった。
ふうふう息をふいて表面を冷ましたコーヒーに、少しだけ唇を近づける。一口含むとコーヒーの匂いがまた一段と濃く鼻についた。ウェザー・リポートの言う、外の匂いのひとつ。私を刑務所の外の人間たらしめるもの。それは疎外感を覚える指摘だった。どうせお前は部外者だと言われているような気も、しなくはない。ウェザーはいい匂いだと言ってくれたけれど私は少しさみしいような気がしていた。これもまた、ウェザー・リポートに惹かれていることの余波なのだろう。彼の近くにいたいと思い始めている。物珍しい外の人間じゃあなく、自然に彼の隣へ寄り添えたら。
――
別れ際の言葉を思い出して、カップからそっと離した唇を強く噛み締める。そうしないとだらしなくにやけてしまいそうだったからだ。
出勤時の運転中も、ナース服に着替えているときも、薬の確認作業中もユニットへの道中も、ナースタイムの最中でさえ。自覚できるくらい見事な上の空だった。ナースタイムが終わり、帰り道の廊下を歩いているととうとうウエストウッドが口を開いた。
「ナマエ、大丈夫か?体調でも悪いんじゃあないのか?」
「え?……あっ、ごめん、大丈夫……ちょっと考え事を」
「もうずっとじゃあないか。なにか悩んでるなら言ってくれても……」
「えっ!違うのよ、全然そんなんじゃあないの。ただちょっとほら、ええと……」
あなたの勤務地で収監してる囚人に熱を上げています、だなんて言えるはずもなく。私がしどろもどろしていると、ウエストウッドは気を遣って「それならいいんだ」と話を切り上げてくれた。
「ごめんね、ありがとう」
「いや。……まあ、君はそれくらいの方がいいのかもしれないな。今日はそんなに絡まれてもいなかったし」
「……そうだっけ?」
「ああ。君がぼーっとしててつまらないから、ちょっかいかけてくる奴が少なかったろう」
言われてみて初めて気づく。そういえば今日はひどいことをされた記憶がなかった。頭と手元が分離したみたいに機械的に作業をしていたから自覚していなかったけれど、ウエストウッドの言うことには野次があったのも始めの数分で私が反応しないのを見るや次第に収まっていったのだという。なんだ、こうすればよかったのか。目から鱗が落ちたような、身体に張り付いていた重苦しい殻がぽろっと取れてしまったような心地になった。嫌がらせに嫌がらせじみた態度で対抗しても仕方がない。無視してしまえばよかったのだ。
「ふふ……なあんだ。今になってコツが分かっちゃったな」
「そうだなあ。明日で最後なのに」
「本当。私のことをいっつも『看護師さーん』って媚びた声で呼ぶあの囚人の顔もやっと覚えてきたのに」
「ああ、へネス・マウリッツか。わいせつ罪の」
毎日飽きないでよくやる、とぼたいたウエストウッドの顔を思わず注視する。気づいた彼が視線を寄越してきたのもそのままに見つめていると、彼は少し照れて苦笑いしながら「なんだ?」と言った。
「囚人の名前と罪状、全部覚えてるの?」
「全部じゃあない。分かるやつだけさ。ただ、オレたち看守はその……囚人のことで愚痴を言い合うこともあるからな。厄介なやつの顔と名前は大抵頭に入ってる」
「へえ……」
ウェザー・リポートのことでいっぱいいっぱいだった私の中に、ほんの少しだけ出来心が生まれた。ウエストウッドはもしかして、彼のことも知っているんじゃあないか?
私はウェザー・リポートのことをほとんど何も知らない。優しくて、少しいじわるで、不思議なことが起こせて雨の匂いを纏っていることくらいしか。
彼は一体、何をしてここに来たのだろう。
これからウェザーに会って直接聞いてしまえばいい話だったし、人づてに聞くなんて少しずるいとも思う。けれど私はこのとき脳がとろとろに溶けていて、自分の欲望に歯止めをかけるなんてできなかったのだ。誰よりも強く心を掻き乱し、頭を麻痺させる人のことを、ひとつでも多く知りたかった。
極力声を弾ませて私は言った。「じゃあ、私が問題を出すから、その囚人の罪状を当ててみて!」
「ええ?なんだよ急に……」
「クイズよ、クイズ。暇つぶしにいいでしょ。」
「当てるったって君、正解を知らないじゃあないか」
「いいのよ、別に。暇つぶしだもの」
「うーん、本当に今日はいつもと違うなあ……ほら、いいぞ。言ってみろ」
「ええと……左目に眼帯をしていて、糖尿病の薬を取りに来る黒人は?」
「ポール・ジョーだな。窃盗罪だ」
「心臓病の薬を取りに来る五十歳くらいの白人」
「ラルフ・ローレン。詐欺罪」
「十字架の大きなネックレスを下げてるヒスパニック系」
「ベン・シャーマン。あいつは確か……そうだ、家庭内暴力」
「……角が二つついた白いファーの帽子に、黒っぽい紺の服を着た人は?」
極力同じ声の調子を保ったつもりだったけど、少し緊張が滲んだかもしれない。音を立てずに唾を飲み込んでウエストウッドをちらりと見る。
「帽子……ウェザー・リポートか?あいつ、第三ユニットにいたか?」
「あれ、いなかった?私どこかで見たんだけど……ほら、帽子が個性的で記憶に残ったのよ」
どこで見たんだっけな、と何の気もないふうを装う。少しわざとらしかったかもしれない。けれどこれが私の精一杯だ。カマをかけるというんだろうか、慣れないことをして心臓が変にどぎまぎしている。
ウエストウッドが口を開くまでの数秒生きた心地がしなかったけれど、彼はまあいいかといった様子で口を開いた。
「あいつは殺人未遂だ。そういう重罪犯は第一か第二ユニットにまとまってると思ったが……医療棟にでも行ったのかな?まあとにかく、殺人未遂だよ」
声が出なかった。今まで少し興奮して顔が火照っていたくらいだったのに、急に血の気が頭からさっと引いてうすら寒くなる。現実味がなかった。殺人未遂。ウェザー・リポートが、誰かを、殺そうとした?
「未遂、って、ことは……相手は生きてる、の?」
「さあ……そこまでは知らないよ。まあ死んでたら殺人罪になっただろうから、生きてるんじゃあないか。でもどっちにしろあいつは覚えてないだろうなあ。記憶喪失なんだとよ。刑務所に入る前の記憶が全部ないんだ」
「……待って、なに?記憶喪失?」
「ああ。完全に頭がイカれちまったやつは精神病院の方に行くから、そういう中途半端なのは珍しいんだ。オレたちん中では有名だよ、あいつ」
「そう……なの……」
今まで私の体中を満たしていた浮かれた気分がみるみる萎んで、代わりに何かこわいものがするりと入り込んできた。不安とか焦りとか、そんな感じのものかもしれない。ウェザー・リポートが殺人未遂だなんて。人を殺そうとしたことがあるだなんて。信じられない。しかも記憶喪失で、その記憶がないだなんて……。頭の中がぐちゃぐちゃになってわけが分からなくなる。辛うじて情報は整理できても、そこから考えることができない。思考が凍りついてしまったみたいだった。ただ呆然と立ち尽くす。
さっきまであんなに能天気で幸せな気持ちだったのに。どこへ落としてきてしまったのだろう。足元を見てもそこには灰色の硬い床しかなく、振り返ってもただ今まで通りの廊下が続いているだけだった。
「ナマエ?どうした?」
「あ、うん、なんでもない……」
「そうか。……ああ、そうだ。今日も警報が鳴るんじゃあないかと思うから予め言っておくんだが、昨日エレベーターの近くに誰かいたんだ。オレの気のせいだったらいいんだが、もしかしたら囚人かもしれないから、君、今日は違う道で帰ってくれないか?」
「……え?」
「大丈夫、そんなに遠回りはしない。次の角を曲がってリネン室を通っていくんだ。そこを抜けたら廊下にエレベーターがあるから、それに乗って降りればいい。この時間は清掃係の囚人もまだ来ていないから安全だし、扉はオレのカードキーで開く。大丈夫そうか?」
「………………」
言葉に詰まった。私は何も言えないまま、カードキーを寄越そうとするウエストウッドの手元を食い入るように見つめる。受け取ろうとしてもなかなか手が動かなかった。首筋にじわりと汗が滲んでくるのが分かる。このままこうしていたって、どうにもならないことは分かっているのに……私は、動けなかった。
そして警報が鳴る。
「ああ、お疲れさん。今日は早いんだな」
「……、お先に」
管制室の窓口にウエストウッドのカードキーを返して、重い足取りで駐車場を歩く。車の運転席に座るとなんだかどっと疲れが降りてきて、シートベルトにかけた手を力なく膝の上に戻した。ぼうっとする。まだ朝なのに。一日が始まったばかりなのに、頭も心もくたくたに疲れていた。
ウェザー・リポート。優しい人。少しいじわるで、雨の匂いを纏った不思議な人。私は彼に何を期待していたのだろう。彼をなんだと思って、ここをどこだと思ったいたのだろう。彼は囚人でここは刑務所。刑務所は罪を犯した人間が来る場所なのに。お花畑で素敵な王子様にでも出会った気でいたのだろうか。自分が馬鹿だったんだってことはよく分かってる。それなのに少し、裏切られたような気分になってしまった。勝手にのぼせ上がったのは私の方なのに。彼は、ただ言わなかっただけなのに。会って数日の人に罪状を自己紹介する人なんていない。彼はおかしくない。なのに、なぜだかやるせなくて、たまらない。
それに。ウエストウッドに違うルートで帰れといわれて、素直に従ったこともじりじりと心を蝕んだ。適当な言い訳で押し切っていつもの道を通るか、分かったふりをしておいて彼がいなくなってからこっそりいつもの場所へ向かうかしてもよかったのだ。
危ないところへわざわざ行こうとするなんて不自然だ、ウエストウッドに勘付かれるかもしれない、とか。後からこっそり行くにしたって、監視カメラにばっちり映ってしまうだろうから管制室から誰かに連絡が行ってウェザーともども捕まってしまうかもしれない、とか。そんなの全部、言い訳だ。私が自分で自分の行動を決断したくないがための体のいい口実なのだ。
今ならまだ間に合うかもしれない。医療棟には体調が悪いと言って手伝いを断ってしまったし、一度帰ろうとしていたのを管制室の受付に見られたし、何よりウエストウッドなしであの廊下に入る方法なんて分からないけど。まだ、ウェザーはいるかもしれない。彼が待っているかもしれない。
それでも私は動けなかった。何をしようとしても“殺人未遂”と“記憶喪失”の二つが脳裏を過ぎって、何も考えられなくなる。いや、考えたくないだけなのかもしれない。誰かの車が駐車場に入ってきたのを見て反射的にキーを回す。そのままアクセルを踏んで、私は刑務所を後にした。
家に帰ってベッドに倒れこむと、まだ心を躍らせていた朝のことを思い出してじわりと目頭が熱くなった。頭が火照っている。一方で心はとても冷えている。情けない。なんて情けない。軽い気持ちで勝手に彼の内部へ立ち入ったことも、抱えきれずに逃げ出したことも、約束を破ったことも。全てが軽蔑を伴って、自分の浅はかさを責め立てていた。
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