頭の中で同じ時間を繰り返し思い返しては、彼の言動の裏を探ろうとあれこれ考えを巡らせている。なぜあんなことを?からかっただけよ。でも、からかってるのかと聞いたときには何を言っているのか分からないって顔をしていた。何の他意もなくああいうことをする人なんじゃ?でも、私の反応がおもしろいと言って笑っていた。ということは、私だからやったのだろうか。けれど私以外の人に彼がどう接しているかなんて知らないから、これは確かめようがない……。
 考えても仕方のないことだと、時間の無駄ですらあると分かっているのにどうにもやめられない。仕事帰りにウィンドウショッピングへ出かけても、友達と会ってコーヒーを一杯飲んでも、家に帰って軽い夕食を口に運んでいるときにさえ。ふとした拍子に蘇っては私の思考を奪っていく。慣れない環境と慣れない仕事のせいでつい刑務所のことを考えてしまうことはよくあったけれど、昨日は眠りにつく直前までそのことを考えていたせいか夢にまで刑務所の廊下が出てきてしまったのだ。末期だ。肝心の彼は出てこなかったけれど。それが納得いかないような、逆にほっとするような複雑な気持ちで私はベッドから起き上がった。
 洗面所で寝ぼけた自分の顔を見ると、刑務所にいるときはどんな顔をしているか気になってくる。反応がうぶでおもしろいって、きっと顔立ちや表情も関係あるんだろう。あからさまに厳格そうで動じなさそうな看護師だったら囚人もあれこれやろうとしないはずだ。鏡の前でしかめっ面の練習をしてみるけれど、うまくいかない。貫禄を出すのは諦めた方がよさそう。そして浴室に入ってシャワーのコックを捻ると、今度は“外の匂いがする”と言われたことを思い出した。シャンプーとボディソープのボトルをじっと見つめて眉を寄せる。他の誰かに匂いがきついと言われたことはないし、香水もつけていないのだ。外の匂いって、なんだろう。
 分からないながらもそう言われてしまうと妙に自分の体臭が気になってきて、いつもよりソープを多めに泡立てて体中を念入りにこする。そしてはっとした。また水族館のことに意識を捕らわれている。寝ても覚めても、とはまさにこのことだろう。もう私だめかもしれない。いやでも、今日を含めてあと三日の辛抱だ。三日で元の看護師が復帰して私はお役御免になる。朝から晩まであの海上の檻のことで心も体も振り回されることなんて、なくなる。
 それでいいのだ。四日後の朝、私は清清しい気持ちで元の職場へ戻るのだ。勢いに任せてそう結論づけて無心で身支度と食事を済ませ、私は家を出た。







 反応がおもしろいと言われたことを受けて、私は極力不機嫌そうな表情でいることにした。悲鳴を上げるとか、泣きそうに口角を下げるとか、そういうのがだめなのだと思ったのだ。もう何を言われても、何をされそうになっても弱さは見せない。常に棘のある態度を貫く。私はそんなことでもう動じないのだと囚人たちに見せ付けて、なめくさった態度を改めさせるのだ。
 というのが今日の意気込みだったのだけれど結果は芳しくなかった。思えば昨日までの間に睨みつけるとか怒った顔をするとかしても何の効果もないどころか囚人をますます盛り上げさせてしまったことを思い出すべきだった。つんけんした態度すら彼らにとってはとても面白いものらしい。
 もうそろそろ諦めた方がいいのかもしれないと思いつつ、ウエストウッドと廊下を歩いていく。彼は私が気疲れしていることを察してか、差し当たりのない世間話をそれとなく振ってくれる。そういえば話題の映画が公開されてるなとか、アクションとサスペンスどっちが好きかとか、休日は何をして過ごすとか……。私は軽い返事で会話を繋げながらも実のところ上の空で、頭の中は例の場所がどこだったか、あと何フィートでそこを通るかでいっぱいだった。あのライトの下だっただろうか?それともあの柱を過ぎたあたり?ささいな物を通り過ぎるたびに期待と失望が折り重なって、心臓はずっと落ち着かないリズムで脈打っている。
 そして何本目かの柱を通り過ぎたとき、警報が鳴った。来るんじゃあないかと思ってはいたものの、実際にそうなると今まで頭の中でイメージしていたように行動するなんてできっこない。変に思われないよう平然としているつもりだったのにウエストウッドが無線を取っている間中きょろきょろしてしまったし、カードキーを渡されるときは声が上ずってしまったし、極め点けにカートを押そうとしてキャスターを自分の足につっかけて危うく転びかけた。どれだけ動揺してるっていうんだろう!
 居た堪れなくなりながら私は早足で廊下を進む。エレベーターの前まで来ると監視カメラをちらっと見て、死角になりそうなところにカートを置いた。二、三度深呼吸をする。念のためもう一度しておこうと瞼を瞑った瞬間、手を引かれてバランスを崩した。勢いにつられて数歩よろけたあと、誰かの胸に受け止められる。すぐに目を開いて相手の顔を見上げた。

「びっ……くりさせないでよ!」

「悪いな」

「わ、わるいと思ってないでしょその顔……」

 ウェザー・リポートはくつくつ喉を鳴らして静かに笑う。そのとき彼の胸板もわずかに震えていて、その振動が身体をくっつけいている私のところまで直接響いてくる。毒のようだと思った。心臓は必要以上に強く速く脈打って今にも胸から飛び出しそうだし、反対に頭の中はじんと痺れて何も考えられなくなる。

「……今日も、偶然じゃあないの?」

「ああ。今日も君に会いに来た」

「前から思ってたけど、あの警報はなに?あなたの仕業なの?」

 声が震えないように気をつけながらそう言って、ゆっくりと身体を離していく。ウェザーの腕が解かれて完全に互いが離れても、まだ距離は近い。他の人とだったら居心地が悪くて一歩か二歩下がるくらいの近さだ。
 でも、相手がウェザーだったから、私はそれ以上離れなかった。この距離で十分だと思ったし、これより離れて彼に変な誤解を与えたくもなかった。
 息遣いが聞こえるほどの距離を保ったまま、ウェザーが問いに答える。

「ちょっとな……仲間に騒ぎを起こさせてる。昨日はそう仕向けさせたが、今日は同意の上でだ。協力してもらっている」

「……どういうこと?なにをしたの?」

「さあな。やり方は任せてある。この手の怪我はそいつにやられたんだ。ひと悶着あって……だが、もう解決した。手を組むことにしたんだ。それで彼が警報を鳴らすようなことをして、オレは君と会う時間を得る」

「……つまり……」

「つまり、君も共犯だってことだ」

「……その理屈は、おかしいんじゃ……」

「そうか? なら君は、オレがここにいることを看守に報告しないのか? ここは囚人が居ていい区域じゃあないぞ」

 そう言われてしまえば口を噤むほかない。確かに私は彼の共犯だ。昨日と一昨日のことをウエストウッドに言わなかったし、今聞いたことも決して口外しないだろう。

「そうね……共犯なのかも……何の罪に問われるのかしら。私、刑務所に行くのは嫌だな」

「もう来てる。ここが刑務所だ」

 そうだった、と笑うと彼もまた笑う。私はおもむろにウェザーの手を取って、傷の具合を確かめた。また一段と良くなっている。本当に治りが早いようだ。このままなら二日もすれば傷口が塞がって、一週間もしないうちに気にならなくなるだろう。

「もう痛くない?」

「ああ。触ってもなんともないし、水も沁みない」

「よかった。……ねえ、昨日、」

 私が言葉を止めたのと、ウェザーがシッと合図したのは同時だった。遠くの方からカツカツと誰かの足音が聞こえている。ウェザーは私の腕を引いて壁際に身を寄せ、息を潜めた。
 再び訪れた接触にまた息が詰まりそうになる。

「……ナマエ!いないのか?……」

 ウエストウッドだ。ウエストウッドが様子を見に来たらしい。エレベーターの傍でカートを見つけた彼は、私の名前を呼びながら近づいてくる。今は壁の陰に隠れているから見つからないけれど、もう少し近づかれればきっと分かってしまう。身体が強張っていくのが分かった。
 見つかったときのことを考えてすっと背筋が冷える。自分がどうなるかより、ウェザー・リポートが罰を受けるかもしれないということが不安で仕方なかった。対峙していただけならまだしも、抱きしめられているこの状況は見方によれば看護師が囚人に襲われているとも解釈できる。

「ウェザー……」

「静かに。大丈夫だ」

 声を殺して今からでも逃げてと言おうとした私の呼びかけに、ウェザーもまた掠れた声で私に囁く。

「少し濡れるが……我慢してくれ」

 彼の言葉と同時に、ひんやりとした感触が肌身に触れた。なんだろうと首筋や腕を拭ってみるけれど、なにもない。湿っているだけ。けれど辺りを見回すと、いつの間にか視界が悪くなっていた。白いもやのようなものが大気を漂っていて建物の輪郭が霞んでいる。瞬きをするごとにそれは濃さを増し、あっという間に辺りが見えなくなった。手でそっと空気を仰いで見ると、やはり少し冷たい。霧だ、と思った。海抜百ヤードもないこの水族館の屋内で突如現れた濃霧に、私たちは包まれているのだ。

「なんだこれは……ナマエ!どこだ!」

 ウエストウッドの声までもがかすんでいくように思える。彼は持っていた懐中電灯を点けたらしく、時折傍をぼんやりとした光の筋が走っていくのが見えた。

「声は聞こえるから、まだ静かに」

 ウェザーが私の耳に唇を近づけて、ほとんど音になっていないような小さな声で囁く。びくんと肩が跳ねたのをなかったことにして、私は無言で頷いた。

「ナマエ?」

 ウエストウッドが、あと数フィートのところまで迫っている。服が濡れてくるくらい濃い霧の中にいるから見えてはいないようだけれど、それも時間の問題だ。自然と肩が強張る。
 足音が鮮明に聞こえるほどの距離まで迫られたとき。ウェザーが片手に透明な石のような何かを握っていた。ごつごつしているけれど先端はまろみを帯びていて、表面は少し濡れている。私が気になっているのを察してか、ウェザーは一瞬だけそれを私の指に当てた。周りの空気に含まれた水滴よりいっそう冷たい温度が伝わって、それが氷だと知る。ウェザーはその氷を持った手を、ウエストウッドがいるであろう方向と少しずれたところへ思いっきり放り投げた。
 カン!と音がして、氷が床へぶつかり、続けてカンカンと何度も跳ね返って最後は転がる音に変わる。ウエストウッドは「そこに誰かいるのか!」と叫んで音のした方へ駆けていった。足跡が遠ざかっていく。
 二人とも何も話さない。ただじっと息を潜めて、敵が去るのを待っている。分かるのは互いの呼吸のリズムだけ。初めはばらばらだったのに時間が経つにつれ足並みが揃い始める。ぴったりと息が合うようになると今度は触れているところから鼓動が伝わって、体中に響く。どちらともなく手に触れ、指を絡ませた。柔らかに握るとウェザーも少し握り返す。

「……もう、行った?」

「……分からない。もう少し、様子を見よう」

「ええ……」

「……さっき、何を言いかけたんだ」

 ウェザーの方へ視線だけ走らせてみるけれど、見えたのは彼の白い帽子だけだった。顔が見えないほどの距離で、私たちは会話を続ける。

「くだらないことよ。別に、なんでもないの……」

「そう言われると気になる」

「ああ、うん、ごめん……昨日、言ったでしょ。私は“外の匂いがする”って。それがどういう意味なのか聞きたかったの」

「ああ」ウェザーは一瞬身じろぐと、私の首筋に鼻を寄せてすんと息を吸い込んだ。「そんなことか」

「ちょっと。嗅がないでよ」

「気にするなよ。……君、今日は匂いが強いな」

「…………気になったから、シャワーのときに……ちょっと、嗅がないでってば」

「ああ、そういう意味じゃあない……確かにここではいい匂いの石鹸はないし、シャワーも曜日が決まっているから臭い連中の方が多いだろうが、外の匂いは別のものだ」

 ウェザーが今度は私の耳元へ顔を近づける。「もう!」嗅がないでって言ってるのに。彼は面白半分でやっているんだろう、少しだけ喉を振るわせた。少しだけ身体を離して顔が見えるくらいの姿勢になると、私の体中をじろじろと見回す。

「君、今日もコーヒーを飲んだんじゃあないか? 香ばしい匂いが髪についてる。爪は丁寧にやすりをかけているし……あと、この髪留め。刑務所の売店にはこういう垢抜けたのは売っていない。靴もだ。きれいすぎる。それに君のその、ぽかんとした表情が一番、刑務所っぽくない。“私は外の人間です”って言いながら歩いてるようなものだ」
「……匂いって……最初だけじゃあないの。後は匂いじゃあないわ」

「ああ。要するに、娑婆の人間っぽいってことだ。君は」

 言われてみると確かに、水族館の中はどこもかしこも淀んでいて、同じような雰囲気を纏っている。薄暗くて無機質で、とても冷たい。生活感とは程遠い空気に満ちている。囚人たちの姿も外見を気にして派手にしているか、刑務所だからとろくな身だしなみもしていないかのどちらかで、普通の社会性を持った人間というのは今のところ見たことがない。私にとってはこっちの方が独特の匂いに思えるけれど、毎日ここで暮らしている彼らにとってみればまるで逆なのだろう。いつも来る看護師も囚人にとっては日常の一部。けれど突然現れた新入りの、しかも全くの部外者である私はそうじゃあなかった。

「……でも、他にも看護師はいるのに。ヘルプに来てるのは私だけじゃあない……」

「ああ、そうだな。けれど君が、一番いじりがいがあるんだろう。たぶんな」

「……本当に、囚人全員が外の匂いを敏感に感じ取ってるの?」

「少なくともオレはそうだ」

 ウェザーが私の腰に手を添え、やさしく引き寄せる。

「君は外の匂いがする。とても心地いい類の匂いが。きっと、普通の人間っていうのは、こんな感じだろう」

 私はそっとウェザーにもたれかかって、その鎖骨のあたりに顔を埋めた。ゆっくり息を吸い込むと、男の人の匂いに混じって刑務所の臭いがある。錆び付いた鉄の臭いだとか、埃っぽい臭いだとか、外の潮風の臭いだとか。けれど何より強いのが、懐かしさと寂しさの混じった匂いだった。

「あなたは、雨の匂いがする」

 初めはなんだろうと思ったけれど、無意識のうちにすっと言葉に出てきた。雨の匂いだ。ウェザー・リポートは、かすかに雨の匂いがする。

「雨は嫌いか?」

 ずっと霧の中にいるせいで、肌には水滴が纏わりついている。ウェザーの頬に手を添えて、指でそっと輪郭をなぞると触れた箇所の水滴が周りと繋がってつうっと顎の方へ滑り落ちた。ウェザーが顔を近づける。鼻筋が触れ合って、雫が唇の方へ落ちていく。

「……いいえ」

 濡れた唇同士が触れて、音を立てずに離れた。再び触れたときには恐る恐る確かめるように啄ばみ、次第に深く相手を求める。時々唇を離して、代わりに額をくっつけて見つめ合った。瞼を閉じればまた唇が触れ合う。小さな音や吐息の残滓が控えめに耳に届くけれど、すぐに次の口づけに上塗りされていく。
 白い霧はまだ晴れない。私はウェザーの首にそっと両手を回した。ウェザーの両腕は、私の体を抱えている。濃霧の中でいつまでもそうしていたいと思った。


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