自分の性格を評価すると。どちらかといえば臆病だ。だからそれほど気は強くないし、優柔不断でまごついているうちにチャンスを逃すのなんてしょっちゅう。面倒ごとは極力避けたいとも思っている。それなのになぜあんなことをしたのだろうと、昨日の退勤から私はずっと考えっぱなしだった。ナースタイムを終えたあと医療棟を少し手伝って、昼過ぎにアパートへ着いてから、ずっと。
 そして行き着いた結論は、看護師としての矜持というか、自分の価値を守ろうとしたのだろうということだ。水族館に出勤するようになってから毎日囚人にからかわれるのを重苦しく思っていたし、昨日はナースタイムでおもちゃのような扱いを受けた。それで自分がなぜあんなところに行くのかが、ひいてはなぜ看護師になったのかが分からなくなってしまったのだろう。
 病院でこき使われても患者に文句を言われても私の立場は揺るがないけど、ああなっては看護師としての尊厳を引き剥がされたも同然だ。そんなときに怪我人を目にして、きっと、少しでも挽回したいと思ったのだ。思ってみればそれ以上にしっくりくる理由もなく、自分で気づいたせいか少しだけ荒んだ心が晴れたような心地がした。

 まだ朝日も昇らないうちにベッドから這い出て顔を洗い、トーストをコーヒーで流し込んでアパートを出る。ナースタイムは囚人が起床してすぐだから私も朝早く出勤しなければならない。病院でも夜勤があるから不規則な生活には慣れているけれど、慣れているのは我慢ができるというだけのことで、眠くならないわけじゃあない。タンブラーに入れてきたコーヒーを何度も口に運びながらハンドルを握り、海上に敷かれたハイウェイを走り抜ける。
 そのとき水平線のあたりはぼんやりと橙がかって、白んだ空に淡いグラデーションを作っている。ハイウェイの上にいると周りに視界を遮るものがないからその美しい景色はめいっぱいの広がりと迫力でもって私に迫ってきて、そのことだけが水族館へ出勤してよかったと思える点だ。逆に言うとそれ以外にいいところなんて何もないけれど。

 いくつもあるゲートの門番に通交証を見せ、やっとのことで更衣室に入り水色のナース服に着替える。そして薬が必要な囚人の名簿を見ながらカートに薬を揃え、何度か数を確認しながらウエストウッドが迎えに来るまでの暇を潰す。廊下をのしのし歩いてきた彼とおはようの挨拶を交わしたら、戦いの始まりだ。







 そうして気を引き締めて向かったユニットで私はやっぱり一刻も早く病院へ戻りたいという思いを固めてナースタイムを終えた。睨みつければニヤニヤ笑い無視をすれば大声を出し悲鳴を上げれば盛り上がる。一挙一動なにをやってもこんな調子だ。前任の派遣の看護師たちは一体どうやってこの窮地を乗り越えてきたのだろう。こんな毎日じゃあ胃に穴が開くのも時間の問題だ……きっと何人も辞めてしまったに違いない。そう思ってウエストウッドにそれとなく聞いてみたが、彼は気まずそうに言葉を濁して視線を外した。

「あー……いつもの看護師は、ほら、気が強いというか、男らしいというか……逞しい感じだったから……」

「待って、いつもはあんなに騒がないの?」

「いや……うーん……」

「……つまり、私は囚人にナメられてるってこと……」

 いやそんなことは、とウエストウッドが取り繕うが私は大きくため息をついてうなだれた。帰りたい。病院に。もしくはアパートに。今すぐ。

「ナマエ、落ち込むなよ。君はその……華奢な感じで、囚人をその気にさせるんだよ!か弱いというか!」

「どうせひ弱で頼りないわよ……」

「卑屈になるなよ!」

 ウエストウッドが困ったように声を張る。落ち込んだ私をどうにかフォローしようとしてくれているのだ。いい人だなあとぼんやり思いつつ、それでもこんなに苦労するのが自分の人となりに起因するのだと知って気落ちしないはずもない。私は二度目のため息をついた。
 と、そのとき。また緊急警報が鳴った。耳をつんざくような音に思わず体が硬直する。ウエストウッドがさっと表情を険しくして無線を取った。

「ああ……大丈夫だ。近くにいるからすぐに向かう。……ナマエ、」

「大丈夫よ。カードキーだけ借りてもいい?」

「ああ!二度もすまない。もしすぐ帰るようならカードは管制室に預けてくれ!」

 そう矢継ぎ早に告げてウエストウッドは走っていった。警報はまだ鳴り響いている。私は渡されたカードキーを片手にしっかりと握り締めながら、エレベーターに向かって歩き出した。よくよく回りを見てみれば奇しくも昨日警報が鳴ったときにいたのと同じ場所だ。となれば時間も多分同じくらいだろう。
 きっと偶然。そう、偶然。そう自分に言い聞かせながらもほんの少しだけ期待がくすぶる。警報が鳴って付き添いの看守がいなくなって、そうして昨日はあの囚人に出会ったのだ。今日はエレベータに乗れるけど、すぐに乗らないで少し時間を潰すことだってできる。
 ゆっくりともったいぶって廊下を歩いた私は、エレベーターにつくとカードリーダーにカードをつっかけて、そのまま手を止めた。真っ直ぐ振り下ろせばロックが解除されて、ボタンを押せばエレベーターが上がってくるだろう。もしかしたらこの階にもういて、すぐに扉が開くかもしれない。それなら今少しだけ階段の踊り場を覗き込んでみたって、大した時間のロスにはならない。
 カードキーを持った手を引っ込めて、私はカートを押しながら階段の方へ向かった。たった数メートル離れただけの場所だ。恐る恐る顔を出し、上と下と、階段の先に視線を走らせる。

「…………いない」

 ぽつりと呟いたあとで、何を期待していたんだろうと自分に疲れたような気持ちになった。別にいるなんて確証はなかったし、そもそも会って何をするでもないし。勝手に期待して勝手に落胆するなんて馬鹿みたいだ。
 帰ろう。本当は医療棟の手伝いに行った方がいいのだけれど、具合が悪いとか歯医者の予約があるとかなんとか言って帰ってしまおう。ナースタイム以外の仕事はもともと正規の職員のものだから、私がいなくても平気なはず。
 そうしてカートの向きを変えようと一歩後ずさると、軽く背中をぶつけた。何かが真後ろにそびえ立っている。驚いてぱっと振り向くと、その男は指を一本口元に立てて無言で静かにと指図した。

「誰を探しているんだ? 看守か?」

「……え、と、」

 ぱくぱく口を開閉したあとで出たのはそんな言葉にならない声で、私は自分の心臓が落ち着きなく脈打っているのが分かった。初めは驚きだった鼓動が静まってくると、次は緊張と不安でだんだんと脈拍が速くなっていく。きょろきょろ探しておいてなんだけど、まさか本当に会うとは、思わなかった。

「君は……またひとりだな。看守は警報で?」

「……そ、そう……なの。エレベーターが使えないから……」

 なんとなくあなたを探していたのだと明かすのが嫌で、咄嗟に仕方なくここへ来たのだと言い繕う。しかし囚人はそんな私を見透かしているかのように目を細めて「カードキーを持っているのに?」と聞いた。

「君がさっきエレベーターの前で立ち止まっているのを見ていたんだ。君はカードキーを持っている」

「………………」

「オレを探しに来たのか?」

「ち、違うわよ!」

「そうか。なんだ、会いに来たのかと思ったのに」

 さらっとそんなことを言われて、私は囚人の顔をまじまじと見つめた。照れてもふざけてもいない、とても涼やかな表情だ。反対に私はどきまぎと落ち着きがなくなって、口元が半笑いのまま固まってしまう。

「……からかってるの?」

「なにを?」

「私をよ!」

「いや?」

 男は訝しげに眉を寄せる。どうやら表情筋が動かないというわけではないようだ。となるとさっきの言葉は他意も下心もないただの相槌のようなものだったのだろう。

「……昨日は、偶然鉢合わせただけだったでしょ。今日もばったり会うだなんて思わないわ。そもそも、ここは囚人がいるようなところじゃあないし……会いになんて来るわけが……」

 一人で動揺したり裏を読もうとしたのが恥かしい。私はぼそぼそと釈明を並べ立てた。自分のやっていたことや考えていたこととまるで反対のことばかり言っていると、自然と声が上ずってくる。それを隠すように無理矢理声を張った。「だから、今日も偶然よ!たまたまなの!」

「“今日も”?いや、前は偶然だったが」

「え?」

「今日は違う」

 男がゆっくりと手を持ち上げる。そこには私の貼ったテープやガーゼはなかったけれど、膿が引いて昨日より少し痛々しさのとれた傷口があった。私はそっとその手を取る。昨日は感じなかった皮膚の硬さや温度にやわく胸を掻き乱されて、患部を見ようとしているのに、いつの間にか彼の節くれだった指の関節や指先に広がる大きな爪に視線を注いでしまう。
 はっとした拍子にうっかり手を握り締めてしまい男が顔をしかめた。私は慌てて謝ると、誤魔化すように「治りが早いのね」と言って手を離す。

「ああ。きっと昨日塗った薬のせいだと思う」

「あんなの……ただの抗生剤よ。あなたの皮膚が丈夫なんだわ」

「そうか。まあ、いいんだ。痛くなくなったから、もう一度礼を言おうかと思って、会いに来た」

 ありがとう、と男が微笑む。気恥ずかしさと嬉しさが同時に湧き上がってきて、私は顔に熱が上がってくるのを感じた。水族館に来てから自分の仕事に礼を言われることなんてあっただろうか。あるはずがない。囚人たちは私のことなんて新しいおもちゃ程度にしか思っていないし、傷なんて舐めれば治ると思ってるから丁寧な処置に感謝をすることもない。
 ありがとうなんて、何の変哲もない言葉だ。挨拶代わりに使う人だっている。けれど今の私にとっては、道端の花が炎天下で枯れそうになっているところに雨が降り注いだのと同じことだった。

「……あの、私こそ……ありがとう」

 自然と、言葉が口からこぼれた。彼の純粋な感謝に私の気持ちが呼び起こされたのかもしれない。私は彼のおかげで、仕事への自信と意義を失わずにすんだのだ。

「なにがだ?」

「どう言ったらいいか分からないけど……あなたの手当てができて、ちょっとだけ気が晴れたのよ。とにかく言わせて。ありがとう」

「……ああ。なにか悩みごとでもあったのか?」

「……あったっていうか、今もまだ、あるんだけど……」

 大丈夫よ気にしないでと言わなかったあたり、私も誰かに愚痴を聞いて欲しかったのかもしれない。けれどそれを男が気になって仕方ないという顔をしているせいにして、私はナースタイムでのことをかいつまんで話した。そのときに気づいたが、男は私の行くユニットでは見たことがない。他にいくつユニットがあるのかは忘れてしまったが、きっとどこか別の房で寝泊りしているのだろう。彼が私の担当ユニットにいたらこのヘルプ勤務も少しはいいものになっただろうにと、少し口惜しい気持ちになった。

「……そうか。大変だな」

「うん……あなたのいるところでは、どう?看護師がいじめられてる?」

「いや」

「やっぱり?……付き添いの看守も私だけしか被害に遭っていないようなことを言ってたの。護身術でも習った方がいいのかな……」

 でも、あと三日なのだ。私がここへ来なきゃいけないのはあと三回。今日の午後から習い始めたって習得する前にもとの病院へ戻ってしまう。それなら今まで通りやり過ごしても同じことだ。スクール代が浮く分、そっちの方がずっといい気がした。私はふうとため息をつく。

「そうだな。それに、護身術を身につけても大して変わらない気がする」

「どうして?」

「君がどうして囚人に好かれるか、教えようか?」

 男はそう言うやいなや、私の両手を壁に押さえつけてぐっと身体を近づけた。突然のことで油断していた私は成すすべもなく男に捕らわれる。身長も肩幅もある男の身体が目の前に立ちはだかって、圧迫感に身震いした。しばらく落ち着きを取り戻していた心臓がまた大きく躍動し始める。壁に押し付けられた背中からも、男に掴まれた両手首からも律動を感じる。心臓がいろんなところへ分散してしまったみたいに、体中が脈打っている。
 そして男の鼻先が、私の鼻筋に触れて、身体が麻痺したように動かなくなった。吐息が触れそうなほどに顔が近い。耐え切れずに私はぎゅっと瞼を瞑った。
 何が来るかと思ったかなんて恥かしくて口が裂けても言えないが、何かが来ると思ったのだ。距離と空気からして、間違いなく。けれど数秒経ってもその何かは振って来ず、代わりに笑いの滲んだ吐息が聞こえてきて私は目を開けた。

「冗談だ」

 拘束されていた手首が解放され、男の身体も離れていく。二三度軽く笑ったあと、男はまたすました顔に戻ってしまった。私はまだどきどきして仕方がないのに、だ。「な、なんなのよ!」行き場のない昂ぶりを投げつけるように私は声を張り上げる。その瞬間また男がぐっと近づいてきて、私の唇に指をそっと押し付けた。「静かに」途端に押し黙った私を見てか、男は首をわずかに振りながら、また小さな笑いを零す。

「こういうことだ……君は加虐心をそそるんだろうな。反応がうぶで、おもしろい」

 それに外の匂いがする、と男は付け足して私の耳元をすっと撫ぜた。うぶ。おもしろい。外の匂いがする……なにひとつ理解できないまま、私は男の鎖骨のあたりに視線をさまよわす。視線を上げることなんて到底できなかった。

「……そろそろ看守が戻ってくる。手当てをありがとう、ナマエ」

「なんで、私の名前……」

 すっと私の前から身を引き、階段を上がろうと踏み出した男は無言で自分の左胸を指し示す。つられて私も左胸に手をやって、そこに通交証を兼ねたネームカードがクリップで挟んであったのを思い出した。

「あ、あなたの名前は!?」

 男は一度振り向き、一瞬ためらったあと囁くような声で言った。「ウェザー・リポート」

「ウェザー・リポート……」

 刑務所の文字を印字した、黒い背中が階段を駆け上がっていくのを見届けたあとで私はぽつりと彼の名前を呟く。ウェザー・リポート。音にせず、口の中で何度か繰り返す。途端に彼の体温や体の厚みを思い出して恥かしくなり、両頬をぱちんと手で覆ったままその場にしゃがみこんだ。まずい。これはまずい。
 そう思っているのに、私は彼の声を、纏う空気を、頭から追い出せなくなっていた。


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