ナースタイム、というのがある。朝の六時、一日の初めに持病のある囚人や体調のすぐれない囚人が看護師に薬をもらう時間だ。水族館には医療棟が併設されているけれど男女合わせて千八百人余りにも上る囚人たちの健康面を全てカバーするなんて到底無理な話で、派遣の看護師が毎朝ユニットまで出向いて薬を手渡したり些細な怪我に絆創膏を貼ってあげたりする。そんなことは刑務所に縁のない人間が知るようなことじゃあないし、事実私も一週間前は知らなかった。水族館に医療棟があるということすらもその日に知ったのだ。そしてその医療棟に勤務する看護師や医者が感染症で半数以上ダウンしてしまったという恐ろしい事実までも。

 白衣の天使とは言うものの今どき純白のスカートを制服にしている病院なんて滅多にないわけで、私の病院も当たり前のように制服はズボンだった。水色の上下にスニーカーみたいなナースシューズ。色気ゼロだ。それなのに、どうしてこうも下賎な視線を向けられ大声でからかわれなければならないのか。

「看護師さァァ〜〜〜〜ン!いてえ、いてえよォ、腹がいてえんだよォ〜〜〜!こっち来てくれよォ〜〜〜!ギャハハハハッ!」

「静かにしろッ!」

 隣を歩く看守のウエストウッドが房の檻を警棒でガンと叩いた。囚人は下品に高笑いを続けながら部屋の隅に退散する。それでも周りの囚人は相変わらずこちらを見てニタニタ笑ったり野次を飛ばしたり。私がミニスカートで脚を存分に出して囚人を挑発しているというのなら分かる。真っ赤なルージュを引いてブロンドのウェーブがかった髪をかきあげて、ヒールをカツカツ言わせながら廊下を闊歩しているというのなら、この扱いも甘んじて受け入れられるのだ。けれど私のこの味気ない仕事着と申し訳程度の身だしなみでどうしてそこまでやいのやいの言われなければならないのだろう。水族館へ急遽ヘルプに飛ばされて三日目、そろそろ限界だった。職務を投げ出して家に帰り布団に包まってそのまま寝てしまいたいと何度思ったことか。特にこの、ユニットの広場へ行き帰りする道のりで囚人の房の前を通らなければならないのが何より苦痛だった。

「すまないな、本当は男の仕事なのに」

「ううん……仕方ないわ。もともとどこの病院でも人手不足だもの。男の看護師なんて隣の郡まで行かないと捕まらないでしょうよ」

 だからといって私に白羽の矢が立たなくてもいいじゃあないかとは思うけれど。それは言わずに医療品を乗せたカートを位置につけて薬の用意を始めると、ウエストウッドはビーッとホイッスルを吹いて囚人の注意をひきつけた。

「ナースタイムだ!薬をもらう囚人は檻の前に立てッ!」

 この男も本来は違う棟の管轄だと言うのに、医療棟近くの看守がこれまた感染症で入院中なのでこちらに回されたという。私にちょっかいをかけたいがために用もないのに出てこようとする囚人を見極めて叱り付けるその形相を見て、もとはもっと怖いところの担当だったのだろうと勝手に思っているのはちょっとした秘密だ。







「あの馬鹿どもが!」

 ウエストウッドがいきり立って無線を入れている。私はその隣でカートを押しながら、すっかり意気消沈していた。怪我をしたと訴えてきた囚人が本当に手首から出血していたので、処置をしようとしたところ掴みかかられて押し倒されたのだ。一瞬上着の下に手も入れられた。すぐにウエストウッドが間に入って囚人を押さえつけてくれたから何事もなかったといえば何事もなかったのだけれど、そのときの囚人のしてやったりという顔や、周りの囚人の盛り上がりの喧騒の中でぽかんとしている自分がなんとも惨めでたまらなかった。泣き出してしまうかと思ったくらいだ。そうしたら囚人はもっと盛り上がって、口笛を吹いたりいいぞと囃し立てたりしただろう。最悪の職場環境だ。
 早くもとの病院に戻りたい。ため息をひとつ零そうと息を吸い込んだとき、突然耳が割れそうなほどの音が鳴り響いた。壁に設置されたランプが赤く光っている。緊急警報だ。ウエストウッドは囚人の問題を報告していた無線を繋げたまま、何が起きたのかと管制室に聞きただす。

「分かった。オレも向かう。ナマエ!すまないが一人で帰ってくれ。道は分かるよな?」

「えっ!?う、うん」

「よかった!悪いな!じゃあ!」

 そう言うやいなや、ウエストウッドは無線をウエストポーチに仕舞いながら駆けて行ってしまった。私は無機質な廊下に一人ぽつんと取り残される。確かにもう囚人に鉢合わせるような帯域は抜けたし、ほとんど迷いようのない道だし、大丈夫ではあるけれど。それでも慣れない場所で独りぼっちになってしまったというのがとても心細かった。そのうち警報も鳴り止み、辺りは静寂に包まれる。
 私はカートを押してまた歩き始めた。角を一つ曲がり、エレベーターのボタンを押す。たった一階分だけれどカートを持って階段を降りるのは結構な力仕事だ。できればエレベーターを使いたい。光らないボタンを見て押しそびれたかともう一度指を押し付ける。光らない。カチカチ連続で押す。これでもかと押す。ボタンは光らない。
 そしてボタンの上に設置されたカードロックを見て、とても大事なことを思い出した。水族館のエレベーターは囚人が使えないよう普段はロックされているのだ。使えるのは看守が持つカードキーを差し込んでからボタンを押したときだけ。

「ウエストウッドのばかー……」

 エレベーターの扉を背にずるずると座り込む。誰かが気づいてくれないかなと監視カメラに向かって手を振ってみるが、音沙汰なし。きっと緊急警報の件で手一杯なのだろう。今日は厄日だ。
 もう諦めて階段を降りよう。患者の車椅子を持って運ぶこともあるし、大丈夫だ。明日二の腕が筋肉痛になるくらいで済む。……でもちょっと階段の段数を確認してこようかな……。私は意を決しながらも弱腰で数メートル先にある階段の踊り場へ歩いていった。下を覗き込むと、やはり、そこそこの段数だ。
 どうしよう、やっぱり監視カメラの前で変な踊りでも踊って誰かが気づいてくれるのを待った方がいいんじゃあないだろうか。でもカートだ。男女ともに屈強な看守しかいないこの水族館で、たかが医療品を積んだだけのカートが運べないから立ち往生していましたなんて、ひ弱だなんだと軽蔑されないだろうか。
そうして階段を前にうんうん唸っていると、突然、腕をぐいっと引かれて体勢を崩した。 咄嗟に声を上げようとしたものの口に手を当てられて「静かに」と囁かれる。相手は壁際に私を追い詰めると、きょろきょろと周りを見回して「一人か?」と聞いた。

「……看護師か?看守はどこだ?」

「ンー、ンー!」

「……静かにな。叫んだらだめだ」

 私の言葉にならない唸り声の訴えを聞き届けた男は、そろそろと手を離す。けれど腕はしっかりと掴んだままで、やたらと近い顔もそのままだった。

「……そうよ、私は看護師。看守は今、ええと……」

 どこかへ行っちゃった。投げやりにそう言おうとしたものの、男の風体をじろじろ見て私は無理矢理言葉を濁した。男は制服を着ていない。つまり看守じゃあない。そして看守じゃあないってことは、つまり、囚人だ。頬が引きつった。囚人と接するときはいつも看守のウエストウッドが傍にいてくれるはずで、それだから何の訓練も受けていない私みたいなのがこの危険地帯しかないような施設のそれもさらに男囚監なんかへ手伝いに来させられたのだ。一対一で対峙したらどうにもならない。最悪殺される。

「……わ、えっと、そこ!そこの角を曲がったところにいるわ。わた、私が声を出せばすぐに!こっちに来るわよ!」

「……今来ないのはどうしてだ?君はどうしてここにいる?」

「そ、それは……ええと……さっきの緊急警報で……」

「……いないんだな。看守はいない」

 はい、終わり。終わった。神様どうかこの哀れな子羊を無事に家に帰してください。一瞬でこの身の危険を悟った私はそう祈ってぎゅっと目を瞑った。身を縮こめて次の事態に備える。殴られるか服を引き剥がされるか金目のものを寄越せと脅されるか。男の罪状も何も分からなかったけれど、水族館の囚人というだけでありとあらゆる可能性が頭を駆け巡った。

「……そうか。ならいい。このことは黙っておいてくれ」

 え、と目を開ける。男は私の腕を放し、代わりに肩を優しく叩くとそのまま階段を上がって去って行こうとした。予想外の展開についていけず何度も目を瞬く。そしてその黒い後姿をぼんやり見ていて、ふと気づいた。男は怪我をしている。片手に巻きつけた布に、血のようなものが滲んでいたのだ。

「ちょ、ちょっと待って!」

「……何だ」

「怪我……してるじゃあないの。見せて……」

「おい、何を……」

 私は恐る恐る男に近づき、その手をそっと取る。ずさんに巻きつけられた布を解いてみるとそこにはやはり傷があり、消毒もろくにしていないのかところどころ膿んでいた。

「……痛くないの?医者には見せ……てないでしょうね。どうして見せなかったの?」

 黙り込んだまま答えようとしない男に痺れを切らして、私は「そこで待ってて!」と言い放つと急いでエレベーターの前に戻り、カートを押して階段に戻った。手早くピンセットを出してコットンを一つ摘み上げると、消毒液を浸してもう片方の手にタオルを用意する。

「応急処置だけするから、手をここに出して」

「……いや……」

「出して」

 男はまたきょろきょろと辺りを見回すと、誰もいないことを確認してからゆっくりと手のひらを差し出した。それをタオルの上に受け止めて、傷口の周りを満遍なくコットンで拭っていく。幸い砂やゴミが入り込んでいることはなかったが、傷口は相当に汚い。このまま何もしなかったらきっと跡が残るだろう。カートの中を漁って軟膏を取り出し、薄く塗ってガーゼを被せる。とてつもなく沁みたはずの消毒のときは微動だにしなかったのに、男は軟膏を塗られるとき少し身じろいで眉を寄せた。
 何箇所かテープで止めて、ガーゼを固定させる。ついでに包帯も巻いておこうかと一瞬目を離したら、男はその隙にさっと手を引っ込めてしまった。

「もう十分だ」

「あっ、まだ……」

「見つかるとまずいんだ。……ありがとう」

 そう言うと、足早に階段を上がっていく。私は衝動的にその後姿を追いかけたくなったけれど、同時に廊下から誰かの足音と「おーい!」という呼び声が聞こえてきて仕方なくその場に留まった。

「ナマエ!そこにいたのか!悪かった、さっき気づいたんだ。君はカードキーを持っていなかったな」

 ウエストウッドがもう一度悪かったと謝りながら、私の隣にあったカートを代わりに手にとってエレベーターまで押していく。緊急警報の用事はもう済んだらしい。素行の悪い囚人には困ったもんだと彼がカードキーをリーダーに通している隣で、私は男が去っていった階段を横目でじっと眺めていた。


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