「見えるときと見えないときの違いはなんだと思う?」 しばらく無言で盤面を眺めていた花京院は、そう言ってゆっくりと顔を上げた。同時に名前は緑の盤をじっと見下ろして花京院の視線に気づかないふりをする。「……さあ」適当なところに石を置いて、間に挟んだ二枚の白をひっくり返した。 「いや、少し言い方が悪かったかな……見えるときは、どうして見えるんだと思う?」 「……よく、わかんねー、けど」 見える見えないと花京院が言い出したらそれは緑の例の物体に関する話だ。昼休みの密会は四日目となり、その間幾度となくその話を出されている。名前はもう見えていないと嘘をつくのをやめた。見えたときに反射的に身体が反応してしまうのは抑えようがないし、見透かされていると分かっていて嘘を重ねる意味はない。花京院の温情がいつ尽きるか分からないのも怖かった。あの校舎裏で見た剣幕が再び向けられるときが来るのではないかと思うと、嘘などとてもつき続けられなかった。 自分の番になった花京院は視線を盤に戻すと、しばらく手の中で石を遊ばせながら考え込み、開いているマスにその石を放り込んだ。 「多分だけどね、君の心に関係してるんだ」 平らな爪が張り付いた指先で、花京院は一つ一つ黒い石を引っくり返していく。 「君の心を揺さぶったり」 パチン、と音が鳴る。 「闘争心に火を点けたり」 パチン、パチン、続けて何枚も。 「危ない、って思わせるといいみたいだね」 最後の一枚を引っくり返し終わると、花京院は静かにため息をついて「ぼくの勝ちだ」とつまらなそうに呟いた。置けるマスがないよと言われて盤面を確認すると、確かに花京院の白で挟める黒がなかった。それほどまでに白が多いのだ。マスはあと三つほど残っていたがどこに置いても大した数は取れず、名前の負けは目に見えていた。 「本気でやってほしいのに、君はそうしてくれない。困ったもんだよ」 「……おれは、本気でやってるよ。ただ弱いだけで……」 「じゃあ、何なら得意なんだい?」 「……腕相撲、とか」サッカー、という言葉は一も二もなく飲み込んだ。交友関係を連想させるような話題を出してはいけない。まだ激昂されるようなことにはなっていなかったが、花京院の纏う空気が一瞬にして鋭くなってしまうのはここ数日で経験している。 「腕相撲か!いいね。それなら室内でも出来るし、手抜きが分かりやすい。時間は―― ……まだ十分あるね。それをやろう。ああ、そうだ……」 机の下に屈みこんだ花京院は、その手に持った袋を机の上にどさりと置いた。見覚えのありすぎるその袋には名前の名前が書かれている。当たり前だ。それは名前のスパイクシューズで、部活を辞めたあとも下駄箱にずっと仕舞っておいたものだった。名前は思わず身を乗り出して袋をひったくろうとしたが、花京院がそれを許さずさっと取り上げてしまう。心臓がばくばくと早くなり始めた。 「ああ、よかった。やっぱりまだ大切なんだね。それがなに?なんて顔されたらどうしようかと思ったよ」 「な、なにするつもりだよ……返せよ……!」 「返すよ。君がぼくに勝ったらね」 袋がひとりでに宙へ浮き、誰かに抱え込まれているかのようにどこかへ消えていく。あの緑の何かの仕業だろう。追いかけようと腰を浮かしかけた名前の腕を花京院が強く掴んでその場に座り直させた。 「腕相撲しようって言っただろ。それでぼくに勝ったらあいつを呼び戻すよ。そして君に返す」 「……本当だな?本当に、返してくれるんだな?」 「もちろん。でもぼくが勝ったら燃やすよ。ここが理科室でちょうど良かったなあ。マッチもアルコールランプもあるんだから。燃えなかったら溶かしてもいいしね。準備室には危険な薬品がたくさん揃ってる。どっちがいいかな?燃やすのと、塩酸をかけるのと」 花京院は薄笑いを浮かべてつらつらと話し続ける。今まで気味の悪さと恐怖しか感じていなかったその表情に、名前は初めて怒りを覚えた。不安も恐怖もまだ根付いていることには変わりないが、それでも頭の奥でわずかな熱が生まれたのを感じる。息が荒立ってきた。 けれどここで取り乱したら花京院の思う壺だ。罵倒したくなるのを堪えてゆるゆると首を振り、机の上を叩いてしまいそうな両腕を握り締めてじっと感情を抑える。それを見て花京院がますます笑みを深めていくのが、この上なく不愉快だった。 「レフェリーがいないから、君の合図で始めよう。一、二の、三で開始だ。いいね?」 花京院が片腕を差し出す。名前もそこに手を合わせた。力いっぱい握り締めたくなるのを我慢して軽く添えるだけに留める。互いに何度か手を揺らして指や肘の位置を調節すると花京院がいいよと言って名前を促した。 「……いくぞ」 「うん」 「一、……二の…………」 三!合図と同時に花京院の腕に力が入る。フライングを疑われてはたまらないと思って動き出すのが一瞬遅れてしまったが、それでも名前は力を振り絞って花京院の腕を押し返した。力が均衡する。頭にキンとした痛みが走った。歯を食いしばり、息も浅くして、肩から指先まで余すところなく意識を集中させる。 じわじわと押してくる花京院の腕を、名前は渾身の力でもって机に叩きつけた。ガン、と音がしたと同時に花京院がうっと唸る。はっとして力を抜き、組んでいた腕を離すと名前の息は肩が上下するほど荒くなっていた。 「……負けた。負けたよ。君の勝ちだ!」 打ち付けた手首をさすったり回したりしながら、花京院が声を弾ませる。やっぱり運動部は力が強いなどと言いながら、あの緑の物体を呼び戻すとスパイクの袋を名前に手渡した。掠め取るように受け取った名前はすぐさま中を見て、靴の無事を確認すると長い長い安堵のため息をつきながら両手でしっかりと袋を抱きしめる。頭はすっかり血の気が引いて冷静さを取り戻していたが、心臓の脈打ちと息遣いだけがまだ激しさを残していて何も考えることができなかった。極限状態に近かったのだろう。頭が動き出すまでどれくらいかかったのかよく分からなかった。何分も無言だったかもしれないし、たった一瞬だったかもしれない。 思考を取り戻したのは休み終わりのチャイムが鳴ったときのことで、落ち着いてみると花京院を見てももう怒りを感じたりはせず、むしろまた不安と恐怖が身体の内側に広がっていった。勝負に負けて手首を打ち付けられたにも関わらずとても嬉しそうに微笑んでいる花京院が、理解できなかった。 夏休みまであと三日と迫ったときのことだ。花京院はその日初めて名前を理科室から連れ出した。聞けば体育館に行くと言う。授業をやっているときは入り口が施錠されているから、きっと体育館の裏にでも用があるのだろうと名前は思っていたが、花京院は堂々と入り口に近づくとポケットから鍵を取り出し穴に差し込んだ。 「……どうしたんだよ、それ」 「体育の先生から借りてきたんだ。大丈夫、あとでちゃんと返すよ」 「でも、こんなことして、誰かに……」 「見られないよ。この時間にここへ来る人はいない。先生だって職員室にいるしね」 手早く鍵を回し、手ごたえと音を確認したらまた半回転させて抜く。借りてきたというのは嘘だろう。花京院は事故で療養していることになっているし、馬鹿正直に頼んで鍵を貸してくれるはずがない。それでも名前は何も言わなかった。聞かずとも見当はついている。花京院の緑のともだちが、関係しているのだろう。 花京院は躊躇せずドアを開くと、戸惑っている名前の背を押して中に押し込んだ。電気のついていない体育館はとても薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光で埃が揺れ動いているのがとてもよく見える。理科室もそうだったが、体育館も人気がないというだけで全く見知らぬ場所のような錯覚を起こした。とても寂しく、そして不安を煽る感覚だ。 「ほら名前、こっちだよ」 花京院に腕を取られ、引っ張られるようにして奥へ進んでいく。壁際の準備室の鍵も持ってきたらしく、花京院は一歩進んで鍵を開けると難なく扉を開いた。 「……バスケでもするのかよ。一対一で?」 「ううん。今日は我慢大会でもしてもらおうかと思ってさ」 ドン、と肩を突き飛ばされて名前は準備室に倒れこんだ。立ち上がるより前に花京院が扉を閉める。慌ててこじ開けようと取っ手に掴みかかるがびくともしない。緑の紐や何かで押さえつけているのだろう。「おい!花京院!なんだよこれ!」拳で扉を叩きつける。外から花京院が話し始めた。 「体育館は一日に最低でも三クラスが使うんだけど、今日は一年が課外活動だし、二年はプール授業、三年は受験に向けた時間割の変更で午後はどこのクラスも使わないんだ。これは確かだよ。体育教師の予定表を見たからね。ぼくの言いたいことは分かる?つまりさ、君がどれほど叫んでも誰も気づかないんだから、無駄に体力を消耗するなってことだよ。喉が潰れてしまったらかわいそうだ。君の声が聞けないのは寂しいし…………じゃあ、ぼくは放課後に迎えにくるからね。またあとでね」 「おい!待てよ!花京院!!」 扉を叩いて叫び続けるが、ガシャンと体育館の扉が閉まる音や鍵をかけ直す音が聞こえてきて、本当に花京院は行ってしまったのだと分かった。「クソッ!」名前は苛立ちに任せてバスケットボールが入った籠を蹴り飛ばす。籠は壁に打ち付けられてガシャンと音を立てた。 ポケットの中をまさぐってもピッキングに使えるようなものは何もなく、また窓は届かないほどの高さにとても小さなものが一つあるだけで到底通り抜けられそうもない。花京院が締めた扉と通れない窓。必死で部屋の中を調べたものの、それ以外に外界へ出られそうなものは何もなかった。 だめだ。どうしようもない。そう悟って時間が経つのを待とうと体操マットの上に座り込んでしばらく。まず、埃っぽさと汗臭さ、そしてボールなどの備品の独特の嫌な臭いが神経に障った。いつもなら気にならないようなことが、不本意に閉じ込められているというだけでとてつもなく不快に感じる。次に襲ったのは息苦しさだ。体育準備室に冷房などついておらず、加えて通気口もないから部屋の中の空気はとてつもなく淀んでいる。そして最後に暑さ。蒸し焼きになりそうなほどの暑さが全身に纏わりつき、身体が火照って汗だくになる。 名前は頭がくらくらしてきてマットの上で横になった。次第に呼吸が浅くなっていくのを感じる。思考が鈍くなり、手足が痺れていく。自分が遠くなっていくような感覚を味わい、吐き気を催し、意識を失う寸前の重苦しい深淵を何度もさまよった。 それでも辛うじて失神に至らなかったのは、時々火照った腕や頬を撫ぜるようなそよ風に揺り起こされたからだ。どこから吹いてくるのかは分からなかった。確かめようとしても身体が動かなかったし、無理に動くよりじっとしたまま体力を温存していた方がいいように思えた。それしかできなかったとも言えるが、幸いにも風は吹き続け、途中弱くなったりはしたもののずっと名前の意識を繋げてくれていた。 花京院はなぜこんなことをするのだろう。疑問は浮かんだが、その答えを考える力はなくなっていた。 自分がなぜ苦しんでいるのかすら分からなくなってきたころ。肌に感じていたそよ風と全く違う空気の流れを感じた。キュッキュッと床を踏みしめる音がして、誰かが近づいてくる。首筋に突然冷たいものを当てられて息が止まりかけた。瞼を無理矢理押し上げると、かすんだ視界の中でもなんとかその正体が分かる。花京院だ。 「ただいま名前。よくがんばったね。ほら、起きて。水を持ってきたよ」 花京院に腕を引っ張られ、上体を起こされる。手渡されたペットボトルを受け取ろうとしたが、手に力が入らず取り落としてしまった。おっと、と花京院が拾い上げ、キャップを開ける。口元に当てられると、渇望した水の存在を感じて無意識に喉が大きく上下した。唇を開くと花京院がペットボトルを傾ける。水が口内に流れ込み、一気に身体の中が潤う。花京院にされるがまま、名前は夢中になって水を飲んだ。 「おいしい?保健室の冷蔵庫に入れて冷やしておいたんだ。冷たくて気持ちいいだろ?」 あまりに急ぎすぎたのか、口元から水が何筋か垂れ落ちる。それを花京院が甲斐甲斐しく指で拭おうとしたときに、名前は思わず喉を詰まらせてむせこんだ。花京院がペットボトルを離して背中をさする。しかし咳き込みは収まらず、名前は今まで飲んだ水を全て吐き出してしまった。昼間に食べたものの残滓も戻したようでツンとした臭いがあたりに広まる。あっという間の出来事で吐き気すらもなかった。突然冷たいものを大量に飲まされて、胃がついていけなかったのだ。 「ああ、だめだよ。ちゃんと飲まなきゃ脱水になる」 花京院がまたペットボトルを口元に押し付ける。名前は唇を閉じようとしたが間に合わず、またむせた。口に入った水をだらしなく垂れ流し、必死で呼吸しようと咳を続ける。 「……仕方ないなァ。濡れたタオルでも持ってくるから、少し待っててくれ」 花京院はそう言って名前の額をひと撫でし、準備室を出て行った。仕方ないって、なにが仕方ないんだ。お前がやったんだろう。お前のせいだろう。どうしてこんなことするんだ。ぐらつく頭にはそんなことばかり浮かび、時折胃が跳ねて否応なく空吐きを繰り返す。目尻に涙が溜まっているのに気づいてしまうと途端に泣きたくなってきて、名前は強く目を瞑った。 next |