「一時間目、さぼってしまうのかい?」

「……お前もだろ。もう始まってるぞ、授業」

 足元の雑草を静かに踏みつけながら、花京院が一歩一歩近づいてくる。さっき教室にいたとき、隣は空席だった。始業まではまだ余裕があったからそのうち来るものだと思っていたが、名前は花京院が来るその前に教室を出てきたのだ。すれ違いもしなかった。岡本は名前の背中を追ってきたのだとして、花京院はどうやってここまで辿り着いたのだろう。小さな疑念が湧き上がる。名前は目を伏せて校舎の壁に寄りかかった。

「ぼくは……君のことが心配で、つい。昨日は大変だったね。みんなひどいよな、何もあんなことしなくたっていいのに……」

「……ああ、うん……」

「名前、次にああいうことがあったらぼくに助けを求めていいんだよ。君はぼくに迷惑をかけるんじゃあないかって言ってたけど、ぼくはそんなこと気にしない。だってぼくら友達じゃあないか。大丈夫だよ。君にはぼくがついてる」

「……お前も、おれじゃあないって信じてくれてる、んだよな」

 当たり前だろ、と言いながら花京院も名前の隣に来て壁に背をもたれる。名前は俯いたまま雑草や砂利で荒れた地面をぼんやりと見つめた。そこに色の違う靴が二足並んでいる。無計画に外へ出てきてしまった名前は上履きのままだったが、花京院はちゃんと外履きのローファーを履いていた。

「『お前も』ってことは、他にも誰か君の味方がいるのかい?」

「…………わかんね」

「岡本くんのこと?」

 顔を上げると、覗き込むように首を傾げた花京院の顔が思いのほか近くて咄嗟に目を逸らす。振り向かせようとしているのか花京院は名前の横顔をじっと見ていたが、やがて名前が空を眺めるふりをしてやりすごそうとしているのを悟ると自らも空を見上げるように名前から顔を背けた。

「ごめん、さっき聞こえてしまったんだ。岡本くん、あんなひどいことを言うひとだったんだね」

「………………」

「ああいう人の言うことは気にしない方がいい。安易に決め付けて犯人扱いして、その上罵倒するなんて最低だ」

「……でもさ、なんかあいつ、様子がおかしかったんだよ」

 顔は空を見上げたまま、花京院は視線だけで名前を見やる。

「最初は分かってくれてるみたいだったのに、急に人が変わったみたいになって、それで……。……後でまた聞いてみるよ。部活もあるし、帰りも途中まで同じ方向だし」

 そこで避けられなければの話だが。そう続けようとしたところで、花京院が「ああ、そういえば」と言葉を被せてきて名前は口を噤んだ。驚いて横を見るも花京院は平然としていて、その声に滲み出た刺々しさなど自分でも気づいていないようだった。

「そうだったね。君、帰りはいつも岡本くんと一緒なんだ……」

 花京院はそっと壁から身を起こし、名前の顔の横に片手をつく。そのまま向かい合うように、覆いかぶさるように名前の目の前に立ちはだかった。一瞬ごとの動きが視認できるほど緩慢な動作だったのに、あっという間に捕らえられて身動きできなくなる。躊躇のない花京院に気圧されたのかもしれない。

「ねえ、どうしてそんなに仲がいいの?」

 異様な距離の近さに一瞬身震いする。どこからともなく吹いてくる風が額を撫ぜた。滲んだ汗が一瞬で冷えて寒気がした。

「岡本くんは君のことを犯人だと思っているんだよ? 『言い訳するな』なんてさ、友達の言うことじゃあないよね。どうしてそんなに繋ぎとめようとするのかな?」

「お、岡本は……だって、小学校のサッカークラブからずっと一緒で……」

「……僕だって。僕だって! 幼稚園のころ一緒だったじゃあないかッ!! 小学校なんかよりずっと前なのに、僕はずっと君のことを覚えていたのに、君はッ!!」

 淡々とした語り口から豹変して花京院が突然声を荒げる。名前は思わず身を竦めた。反射的にぎゅっと目を瞑る。花京院が怖かった。それから次第に息遣いが静まってきたのを感じて恐る恐る目を開いていくと、花京院は額に手を当ててうなだれていた。

「ああ、ごめん……怖がらせる気はなかったんだ、ごめん……少し落ち着くよ」

「…………おまえ」

「ん?」

「お前が……岡本になにかしたのか?」

 長く伸びた前髪の奥で、花京院の目がにやりと細まる。花京院典明。教室の隅で静かにしているのが好きな優等生。人を寄せ付けない雰囲気を醸しているが話してみればよさが分かる。それが同じクラスの花京院典明だ。こんなに不気味に笑う人間だっただろうかと、名前は今まで接してきた人物と目の前の人物とが噛み合わずに現実味のない映像の中を漂っているような錯覚に陥った。

「本当はね、誰にも使わないつもりだったんだ……なのに岡本がさ、しつこいからさ……仕方なかったんだ。どいてもらわないと困るんだよ。君の隣を空けてもらわないと……だって僕にとって君は唯一で一番の友達なのに、君にとっての僕がそうじゃあないなんて……僕ばっかり好きなんて、寂しいじゃあないか」

 びゅうっと強風が通り抜けて花京院の髪が乱れる。その顔は優しく微笑んでいたが、瞳の奥だけが無感情に静まり返っていてぞっとした。身を捩るが、シャツの襟が擦れ合うほどの距離に詰められていて逃げ場がない。

「お、おれ、花京院が一番だよ。一番だから……」

「……嘘はいけないよ、名前」

 微笑を崩さないまま、目の色だけで不興を示した花京院が名前の頬を撫でる。指先の温度も感触も、その優しい手のなにもかもが名前の警戒心を膨らませ恐怖を煽った。自然と涙の膜が張って視界がぼやける。

「泣かないでくれよ。どうして泣くんだ? ぼくが虐めてるみたいじゃあないか……ねえ名前、ぼくは君を虐めてるかい? 違うだろう? ぼくがそんなことをするはずがない……だって君は一番の友達なんだ……ねえ、疲れただろう。今日はもう帰りなよ。鞄なら持ってきてあげたからさ」

 ゆっくりと身を離していった花京院の手に、いつの間にか教室に置いてきたはずの鞄が握られていた。それだけでも十分奇怪だったが、その持ち手に絡んだ緑の紐を見て名前は目を見開いた。昨日の騒ぎのときに自分の身体を勝手に動かしたあの紐と全く同じものが、花京院の後ろから伸びてきて先端が鞄に絡みついている。夏服でむき出しになった花京院の腕を伝っていきしゅるりと背後へ消えていった紐を目で追っていると、名前の様子に気づいた花京院が「もしかして」と声を弾ませた。

「見えてるの?」

 名前は咄嗟に分からないふりで誤魔化す。な、なにが? とありきたりな言葉を受けた花京院は「ふうん」と気のない返事で名前に鞄を差し出した。

「まあ、いい。時間はいくらでもあるんだ。君が見えるようになるまで、ぼくもいろいろ試してみるよ。だから君も、明日からは嘘をつかないって、約束してくれ」
見透かされている。名前は分かったと何度も頷き、花京院が満足げに頷いたのを見て逃げるようにその場を後にした。また明日! という花京院の声も聞こえなかったふりをして、じりじりと身をすりつぶすような不安を抑えながら、ただ走った。







 緑の紐が花京院の仕業だとしたら。正体も原理も分からないが、もしそうだと仮定するなら。あのとき名前に袋を拾わせようと仕向けたのは花京院ということになる。そうでなくとも岡本に何かしたのは確かで、校舎裏での様子からしても花京院は危険人物なのだ。一刻も早く離れなくてはならないと頭の中で警鐘が鳴り響いている。
 けれど誰に助けを求められるだろうか?教室では腫れ物のような扱いをされ、自宅謹慎にはならなかったものの放課後は毎日職員室や保健室で詰問を受ける。保健医は優しく接してくれるが、それはあくまで問題のある生徒へ向ける態度であって名前が件の犯人だと前提している。ただでさえそんな扱いなのに花京院のことや緑の紐のことを訴えてどうなるだろう。誰に訴えられるだろう。名前には成す術がなかった。
 唯一の希望といえば岡本だったが、翌日改めて話しかけようとしたところ名前が近づいただけでがらりと雰囲気が変わり「近づくな下着泥棒!」と追い払われた。その上花京院が近づいてきて何を話そうとしたのか聞いてくるのだから諦めざるを得なかった。教室では極力人と目が合わないよう俯いてじっと椅子に座り、授業が終わるのとほとんど同時に教室を出て行く。部活動も辞めてしまった。事件の話は瞬く間に全校生徒へ広まったようで、誰にも引き止められることなく退部届けは受理された。そうして朝練も無くなった名前は、始業ギリギリの時間に滑り込みで登校するのが常となっていった。

 そんなある日、教室へ入ると花京院がいなかった。朝のホームルームで担任がその理由を明かす。花京院は交通事故に遭い、大怪我ではないものの一週間ほど病欠するということだった。目立たない人柄だからそもそも花京院が来ていないことに気づいていたのは名前やその周辺の席の生徒くらいだったが、交通事故というと滅多にあることではない。教室はわずかにどよめいていた。
 その中で、不謹慎とは思いつつも名前は少しほっとしていた。未だ女子への謝罪を拒んでいることで風当たりは強いし、男子からも敬遠されていて決して居心地はよくないが、それでも花京院がいないと思うとほんの少しだけ気が楽になった。
 それなのに。以前のような雑談をすることもなく黙々と食事をとるだけの時間となってしまった給食のとき。突如現れた緑色を見て名前は飲み込もうとしたものを喉に詰まらせそうになった。班の女子が寄越す汚らわしいと言わんばかりの視線をいなしながら何度か咳き込むと、もう一度窓の外に目を向ける。
 やはり、いた。透明なガラスに這いつくばるようにして、何本もの緑の紐がうねうね動いている。地面を起点にしてこの二階の教室まで伸びてきたのだろう、上へ上へと伸びていくと隣同士でくっつき合い、次第に人に似た輪郭をかたどっていく。得体の知れない物体は昆虫のような黄色い目で、じっと名前を見つめていた。

 昼休みになり、さっき緑の物体が根を下ろしていたであろう場所へ行ってみると、そこは理科室の裏庭だった。
 花京院は欠席だ。事故で療養しているというのだから学校になど来ているはずがない。それならあの緑の紐は、花京院のものではなかったのだろうか。正体を暴いたところで自分の汚名を晴らすわけでもなかったが、意味の分からない出来事が続きすぎていて、一つでも真相を知りたいと名前は熱望にも似た思いを抱えていた。
 きょろきょろと見回しながら理科室裏を散策していると、突然足をとられて転びかける。足元を確かめてみれば、足首にあの緑の紐が絡み付いていた。捕まえようと手を伸ばした名前の指の間を器用にすり抜け、紐は蛇のように地を這ってするするとどこかへ去っていく。名前はすぐさま後を追いかけた。
 扇風機の一つも置いていない理科室は換気のために窓が数センチ開けられている。紐はそこから理科室内部へと消えていった。中に紐の大元があるのかもしれない。躊躇せず窓を空けてそろりと薄暗い理科室へ忍び込んだ。人がいないというだけで、人体模型や天体のポスターなどそこかしこに置かれた教材がいやに不気味さをかもし出している。そうして室内を満遍なく見渡していると、教卓の影から誰かが出てきて名前は思わず数歩後ずさった。その人物は名前の反応を面白がるように口角を上げる。

「そんなに驚かなくても」

「だ、だってお前、事故で怪我したって……」

「ああ、こんなの。軽い捻挫程度だよ。それくらいになるよう加減したから平気さ。両親は大事にしたがったけど」

 花京院がズボンをずり上げると、足首から向こう脛にかけてきれいに巻かれた白い包帯が露になった。確かに交通事故にしては軽傷だが、安静にしていなければならないことには変わりないだろうに花京院は足首をぐりぐりと回してみせる。大丈夫だと示したかったのだろうが、逆に名前はその異様な行動でますます花京院が薄気味悪くなった。

「両親は共働きなんだ。二人とも昼間は家にいないから、ぼくが学校に来ていることは君しか知らない……名前、お昼休みは毎日ぼくに会いに来てくれよ。ここにいるから。二人で遊んだり、話したりしよう」

 そんなことをするわけがないだろう。そう言い放って首を振ってしまいたかったが、従わないと何をされるか分からない。名前は無言で小さく頷いた。花京院はそれを満足そうに見届けると、ズボンのポケットに手をやって中から四角い箱を取り出す。

「じゃあ、今日はとりあえずトランプでもしようか。二人でやるなら、なにがいいかな? ぼくは神経衰弱が好きだけど、時間がかかるから今は違うのがいいなァ……名前、ポーカーのルールは知ってる?」

「し、知ってる、と思う」

「ならポーカーにしよう。ほら、そこに座って。名前から取っていいよ」

 手際よく切ったカードの山を机の上に置き、花京院は向かい側の椅子へ名前を手招きする。言われるがままに腰を下ろして山からカードを五枚取ると、この時点でもうツーペアが出来上がっていた。早めに終わらせれば勝てるかもしれない。

「折角だから賭けをしようか」

「……賭け、って、なにを?……」

「うーん、そうだな、ぼくが勝ったら今日の放課後うちに遊びに来てよ」

「……おれが勝ったら?」

「それは名前が決めていいんだ。なんでもいいよ。どうする?」

 しんと静まり返った教室の中で、聞こえるのは時計の分針の音と花京院の場違いなほどに明るい話し声だけだ。名前はそれにただ相槌を打ちながら自分の番になるとカードを捨てて新しいのを一枚引く。ツーペアのうち一組にもう一枚同じ数字が加わった。フルハウスだ。

「まだ考え中? コールまでには考えておいてくれよ。そうだ、そういえば君、やっぱり見えてるよね。ぼくの緑のともだち」

 手札を取りこぼしそうになって、咄嗟に指に力を込めた。カードの絵柄をじっと見つめたまま、震える喉からなんとか声を絞り出す。

「……な、なんの話だよ……」

「いいよ、もう分かってるから。昼休みにこんなところへわざわざ来て、しかも窓から侵入してくるなんてこと偶然であるわけがない。君はぼくのを見てここまで来たんだ。……大丈夫だよ、君を嘘つきだって言いたいわけじゃあない。いつも見えてるわけじゃあないのも分かったからね。君は給食のときに気づいたみたいだけど、ぼくのともだちはね、朝からずっとあそこにいたんだ」

「…………お前の、友達? 幽霊なのか?」

「違う。ぼくは幽霊なんて見たことがない。これの名前は……分からないけど、人間でも幽霊でもないし、もちろんペットでもない。物心つく前からずっと一緒にいるんだ。ぼくも不思議に思ってるさ」

 コール、と花京院が手札を机に伏せる。

「賭けの内容は決まった?」

「……じゃあ、今度教科書忘れたら、見せて」

「そんなこと? いいよ。はい、ぼくはストレートだ」

 名前も手札を見せる。バラの札が三枚と同じ数字が二枚。ワンペアだった。

「あはは、ぼくの勝ちだね」

「……そう、だな……じゃあ、放課後、」

「ああ、それはいいよ。君、手を抜いただろう」

 花京院がすっと冷めた顔でそう言ってトランプをまとめ始める。「途中でいい役ができてたのにわざと捨てたんだ。それで賭けもどうでもいいようなことにしたんだろう?」

「み、見てたのか!? あの緑のやつで!」

「まさか。ぼくはズルをするのが嫌いなんだ。そんなことはしないよ。ただね、君、分かりやすいから」

 花京院は柔和に微笑んでそう言い放つ。そして口元や目元はその表情のまま、やはり瞳の中にだけ寒気がするほどの静けさを佇ませて名前の顔を覗きこんだ。

「本気でやってくれなくちゃ意味ないよ。明日はちゃんとやろうね。何にしようか?」

 ウノかなァ、チンチロリンかなァと遊びの案を呟く花京院を前に、名前はただ黙って浅い呼吸を繰り返す。花京院の言葉はとても友好的で、暴力性など欠片も見当たらない。それなのに背筋には悪寒が走り、頭は火照ってどこからかじわじわと不安が滲んできていた。

「本当はテレビゲームでもやりたいんだけど、学校じゃあね。残念だ」

 花京院は話し相手が相槌すら打たなくなったのに気づいてか遊びの案を挙げていくのを止め、明日の楽しみは明日にとっておこうと言ってトランプを箱に仕舞った。

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