七月中旬、午後のことだった。世界史の教師が教室を見回し、女子の空席が目立つのに眉を寄せる。ざっと見て五、六人の不在で、名前の班の女子も一人戻っていなかった。 女子が一人教卓へ向かっていき事情を話し出す。一番後ろの席の名前からはその会話は聞こえなかったが、前の方から伝言のように話が回ってきてその内容を知った。 「服がなくなったんだって」 「更衣室で探してるから遅れるらしい」 「保健の先生と一緒にいる」 直前の授業は体育だった。教室中は全員がプールから持ってきた塩素の匂いに満ちている。平時なら水泳の後の座学など授業が始まってすぐさま眠りこけているところだが、妙に嫌な予感がして、待っても待っても眠気は来なかった。かといって教師の話が頭に入るわけでもなく、ただひたすら胸のざわめきを抑えきれないままに椅子に座っていた。 結局女子たちが帰ってきたのは世界史が終わったあとだった。扉の付近で小さな人だかりが出来て、そのうちの一人が名前を呼ぶ。物がなくなったときに自分の関与を疑われるのは仕方のないことだ。そうは思ってもやはり不安と動揺は隠せず、咄嗟にした返事は声が裏返ってしまった。 「な、なに?」 「苗字、こいつらが……なんか、その、服がないらしいんだよ。なくなったって。お前……知らない、よな?」 「……知らないよ」 「そうか……」 「……ねえ、苗字くん、嘘ついてないわよね?」 え、と声が喉の奥で突っかかる。人だかりのうちの気の強い女子が鋭い目つきで名前を見据えていた。 「苗字くん、鞄と引き出し空けてくれる?」 「……いいけど」 「おい苗字、断ってもいいんだぜ」 「いいよ、別に……どうせ出てこねーし」 誰かが自分の見ていないところで紛失物を潜ませているのだろうが、ついさっきまで座っていた机の引き出しやその横にかけてある鞄に何もないのは分かっているし、名前が席を離れてから手を出すのは人目につきすぎる。名前は引き出しを木製の箱ごと取り出して教科書や文具しかないのを示したあと、鞄の中身を全てその上に積み重ねた。極めつけに空になった引き出しを女子に覗かせ、鞄の方は男子に渡して確かめさせる。 「ほら、だから苗字じゃあないって言っただろ」 「……ごめん、苗字くん」 「わ、私も……ごめん、苗字くんじゃあないかって言ったの、私だし……」 「……いいって、本当。服、見つかるといいな」 「ねえ、苗字くん、ロッカーも見せてもらえない?」 「え、」 「おい!」 いい加減にしろよ、と男子がたしなめるが女子は引き下がらない。 「ロッカーの方が引き出しや鞄より大きいし、体操服入れる袋もあるし……疑って本当に悪いと思うけど、でも、仕方ないじゃあないのよ。あなたが一番怪しいんだもの……」 「……だめだなこりゃ……苗字、こいつロッカー見せねーと納得しねえよ」 「………………」 「後でキッチリ怒ればいいからよ、お前の潔白証明してやれって。な?」 名前はごくんと生唾を飲み込んだ。引き出しと鞄は大丈夫だった。細工するには人目があったし、直前まで名前が座っていたから。でもロッカーは?廊下に備え付けられたロッカーは隙間なくきっちり並んでいて、自分の周りはどこが誰のかはっきり記憶していても少し離れたところだと他の生徒の扉を開けていても気づかれないだろうし、授業中や早朝、放課後の人気のない時間帯ならいくらでも細工できる。体育から戻ってきたときに水着の袋を突っ込んだきり、名前はロッカーの中を確認して、いない。 「…………そこまで、やる意味、あるのかよ。毎回証明しても次になんかなくなったらまたおれのところに来るんだろ……じゃあ、やっても無駄なんじゃあないのか……」 「それは……結局いつも苗字くんが紛失物を持ってるからよ。持ってないなら開けられるでしょう?」 「………………」 「……苗字?」 できないと言ったら犯人にされる。ロッカーを開けてもし万一のことがあれば、結局犯人にされる。逃げ道はない。名前は無言でロッカーまで歩いていくと、取っ手に触れて深呼吸をした。後ろで何人かが固唾を呑んで見守り、教室から野次馬が顔を出している。 大丈夫だ。大丈夫。細工する時間があったとしても世界史の授業中と今の休憩時間くらいなもので、授業中に廊下に誰かがいたら教師が気づくだろうし、この時間は廊下に出ている生徒も多い。ロッカーは男女で場所が分かれているから女子が名前のロッカーに近づいたら目立つし、男子が女子の服を持って出歩いていてもきっと目立つ。大丈夫だ。なにもされていない。名前は必死にそう言い聞かせて扉を開けた。錆びかけた蝶番がギイッと音を立てる。 中は散らかっていた。平積みされた教科書や問題集の山と、その奥にぞんざいにしまわれた書道セット、そしてさっき押し込めた水着の袋。見慣れたものしかない。一瞬ほっとしかけたものの、これで終わりではないと名前はまた唾を飲み込む。どうせ中のものを全て出さないと納得しないだろう。さすがに水着を出すのはどうかと思って付き添っている男子に手渡し、悪いけど中身を確認してくれと言いかけたところで、 ―― パサッ と、なにかが床に落ちた。水着の袋の後ろにあったのかもしれない。引っかかって一緒に出てきたのだ。不透明なビニル袋で、中身が何かは分からない。名前はぞっと頭から血の気が引いていくのを感じて鳥肌が立った。それは名前の私物ではなかった。全く見覚えのないものだった。 「おい苗字、落ちたぞ」 「……苗字くん?」 「苗字?どうした?拾うぞ?」 「ま、待て……だめだ!拾うな!!」 咄嗟に震えた声でそう叫んだが、拾わせずにどうするか考えていたわけでもない。どうにもできずただ立ち尽くしていた。わずかに後ずさり、ビニル袋を見つめる。頭が真っ白で、何も考えられなかった。ただこの袋の中身を見られてはならないと、そのことだけが本能のように警鐘を鳴らす。 触りたくない。けれど、拾わせてはならない。どうすればいい。どうすえば。鼓動はどんどん早くなって、呼吸は浅く、口の中は乾いていく。 ぴくり、と指が動いた。緊張のせいで痙攣でも起こしたのかと咄嗟に一方の腕で手首を掴むが、指の動きは収まらない。それどころかもう一方の腕が見えないなにかに押さえつけられて、名前の左腕は床に落ちたビニル袋へと向かっていた。自分の意思とは関係なく膝が崩れ落ち、左腕はどんどん袋へ近づいていく。 「………………ッ!」 衝撃のあまり声も出せないでいた。身体が言うことを聞かない。勝手に動く。触りたくない。触ったらおしまいだ。 そのとき、自分の腕に絡みついた何かを、緑色で不気味にきらきら輝いた紐のように何かを、名前は見た。周りの喧騒が遠くなり、瞬きさえも忘れてその得体のしれない何かに視線が吸い込まれる。気づけば体中に巻きついて肢体の自由を奪われていた。 袋に指先が触れ、もう終わりだと思ったその瞬間。突然老化に強風が吹きぬけて、名前は袋を掴み損ねた。さらわれた袋は宙へ舞い、あっと声を漏らす間もなく縛られていた口が開いて中身が舞い上がる。キャア、と悲鳴が上がった。中身がなんだったのか目の当たりにして一気に目の前が暗くなる。考えてみれば当たり前だったのかもしれない。服がなくなったという女子はそのわりに制服をきっちり着ているし、靴下も履いている。何がなくなったかなど、考えてみれば、すぐに分かる。 下着が。三枚もの下着が袋に入っていたのだ。三人の女子のうち悲鳴を上げた一人は顔を覆って泣き出し、一人は口を押さえて水道に走った。残りのもう一人が涙を堪えながら下着をかきあつめ、猛然と名前に歩み寄ると平手を打って「最低!」と叫ぶ。 「な、なんで……なんでだよッ、おれ、おれはッ」 「なんでじゃあねえんだよこのバカッ!」 「待って、待ってくれよ本当におれじゃあッ」 ガン、と鈍い音がして背中に衝撃が走った。さっきまで女子との仲立ちに入ってくれていた男子に胸倉をつかまれて、ロッカーに押さえつけられたのだ。そのままずるずると床にへたりこみ、呆然と言葉を失う。 「なんの騒ぎだお前ら!」 「先生!苗字がッ!」 それからのことはあまり覚えていなかった。周りの誰かから騒動の概略を聞いた担任に背を押されてその場を去り、職員室では知らない、わからないの一点張り。途中からは口を開く気力もなくなり無言を貫き通した。網膜にはあのとき見た緑の紐が張り付いて、鼓膜には女子の悲鳴や男子の叱責がこびりついている。 「ご両親に電話するからな。今日はもう早退しろ」 担任からそう言われたときにやっと意識が覚醒して、嫌だ、と思った。それを皮切りに凍っていた感情がふっと制御を失って、名前は少しの間だけ涙を流した。 学校に駆けつけた母親は何度も担任に頭を下げ、無言で車に乗ってハンドルを握る。母親なりに何か思うところがあって話を振るに振れなかったのかもしれない。シートに座った途端どっと疲れが出てきた名前も黙って外の景色を眺めていた。途中の信号待ちのときに、母親は一度だけ声を掛けた。 「あんたがやったの?」 「…………違うよ」 「……そう……」 今日はもう休みなさい。そう言われた通り、名前は家についてすぐ自室に上がって布団にもぐりこんだ。けれど目を瞑るとあの緑色が戻ってくる。女子の悲鳴が、教室のざわめきが戻ってくる。その日はろくに眠れないまま、暗い部屋の中で夜を明かした。 行きたくないなら行かなくてもいいと母親は言ったが、自分のいないところで自分の話をされているのだと思うとやり切れず、名前は憔悴したまま学校へ足を運んだ。ふらついている名前を見て母親が勝手に電話したためサッカー部の朝練は欠席だ。いつもより早い時間に教室へ向かうと、慣れない時間に来たせいか、それとも自分の意識の問題なのか、学校の空気がどこかよそよそしいような気がしていやに不安を煽られた。 階段を上がると廊下に出ていたクラスメイトが名前に気づいたが、見なかったふりをして各々の会話に戻っていった。教室に足を踏み入れると一瞬でにぎわいが止まり、全員が代わる代わるに名前を盗み見る。針のむしろとはこういうことを言うのだろう。視線が刺さるように痛かった。 後から来た生徒もみんな名前を一瞥していく。時が経つのが苛立つくらいに遅く、耐え切れなかった名前は自暴自棄になって教室を飛び出した。あと十分ほどで始業だったが、どこかへ行ってしまおうと思った。誰もいないところに行きたかった。 けれど結局学校の敷地を出ないのは、意気地がないのか冷静なのか。校舎裏にちょうどいい木陰とコンクリートのブロックを見つけて腰を下ろす。そよ風の涼しさが心地よく、寝不足も相まってすぐにうとうとしてきた。 「名前!」 突然呼ばれて飛び上がると、少し離れた場所から岡本が駆け寄ってきていた。見たところ一人きりで、別に味方と決まったわけでもなかろうに、なぜだかひどく安心して名前は目に浮かんできた涙を乱暴に拭う。 「……岡本ォ……」 「な、なんだよ。泣くなよ……」 「おれさ、おれ……本当にやってないんだって……」 「分かってる!おかしいだろ、あんなの。お前は水泳の授業出てたし、それに着替えるときも移動のときもおれや他のやつと一緒にいたんだから女子更衣室に行く時間なんて、」 岡本はそこまで喋ると突然「うぐ!」とひしゃげた声を出し、何度か喉を上下させるとさっと表情を変えた。 「岡本?」 「……お前がやったんだ。お前が!やったんだッ!言い訳なんてするなッ!!」 見たこともないような剣幕でそう叫び、岡本は踵を返していく。途中で名前を呼ぶと振り返ったが、その目は空ろで焦点が合っておらず、名前は怖くなって目を逸らした。不自然なほど力強く歩を進める岡本の足元が遠くなっていき、静寂が戻ってくる。始業のチャイムが鳴った。 「名前くん」 放送が終わると同時に後ろから声がかかる。いつの間に現れたのだろう、木陰の暗がりから出てきたその人は花京院典明で、微笑むようにうっすらと目を細めていた。 next |