※音石原作後
※もうなんでも読める人向け
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檻の中の生活というのは実はそんじょそこいらの日本人のそれよりよっぽど規則正しく健康的である。入所前は筋金入りの夜型で早寝早起きなど母胎に置いて生まれてきたような音石ですら出所するころには朝の六時に目が覚め夜も九時ごろになると瞼が落ちるという理想的な体内時計を手に入れていた。食事もスナックやファストフードなんかの身体に悪いものは出てこないわけで、味はまあ不味いという者も多いが食べられないということはないし、何より栄養面から見れば文句の付け所のない献立が毎日出てくるのだ。囚人というと社会の屑の中の屑という印象で音石自身も入所する前は気が滅入っていたが、実際入ってみるとみな質素な出で立ちで肌つやがよい。石鹸は支給されたものしかないためほのかに汗臭く爽やかだったとは言いづらいが、想像していたよりよほど小奇麗な場所だったのだ。
そして一番小奇麗だなと思ったのが、同じ房の男だった。
男は苗字と言い、何をして捕まったのかはよく聞かなかったが(確か会計士をしていて書類の改ざんとかなんとか言っていた気がする)とにもかくにもホームレスやパチンコばかりやっていたような入居者と比べて随分と物腰も柔らかく、同じ石鹸を使い同じ飯を食べているはずなのになぜだかいい匂いがする。
もしや自分はこの人に恋でもしてしまったのではないか、すわ同性愛者生活の幕開けかと入居当日はいやに気を揉んだが翌日刑務作業で隣になったハゲ頭が「お前苗字さんのとこ入ったんだって? いいなァ、あの人はいい人だぜ。いい匂いするしなァ〜〜」と言っていたので誰から見ても苗字という男は柔和でしかもいい匂いがするのだという結論に至った。
苗字という男は人当たりがよく目立った悪さをすることもなく、どうして刑務所に入ったのかよく分からない人間の最たる存在だった。
同室のよしみということなのか単に若造の音石を気遣ってか、苗字はよく音石に話しかけ「出所して行くところがなかったらうちに来ればいい」などと甘ったるいことを言った。もしや苗字は自分に恋でもしているのかと、今度こそ同性愛生活のしかもケツを狙われるサバイバルの始まりかと身構えたもののやはりハゲ頭が言うことには「苗字さんはここ三年ばかしいるだけだが、若いやつが来るたびそう言ってんだよォ。オレもあと二十年若かったらなァ〜〜くゥゥ〜〜ッ」と言っていたので本当に前途ある若者のことを心配しているだけのようだった。
苗字は会計士だと言っていたような気がしたが、クビにはならなかったのだろうか。雇い主の立場だったのだろうか。その辺りが気になって詳しく話を聞かせてほしいと頼むと、苗字は音石がその気だと思ったのかにこにこと人好きのいい笑みを浮かべて職場のことについて事細かに話した。なんでも苗字はもとの職場ではそれなりの地位にいたらしく、いわば中間管理職で出所したあともその仕事を続けていいと上司に言われていると。会計士などという仕事をしているものの自分の部下には資格や知識は必要なく、足を使って働くような仕事ばかりなので、どうせなら社会復帰の一端を担ってみるのもいいかと思いここ数年こうして若者を勧誘しているのだと。
ちなみに給与のことを聞いてみたら当然ながらそのへんのコンビニやカラオケのバイトなんかよりは断然時給が高くしかも不定期にボーナスまで出るという。人手の欲しい苗字の会社と金は欲しいが前科者になってしまって仕事が見つかりづらい受刑者では相互に利益があるのだ。音石にはミュージシャンになるという夢があったのだが、夢ばかり見て食っていけるわけでもない。あのなんとかかんとかとかいう財団の監視がある以上レッド・ホット・チリ・ペッパーでまた窃盗を働くこともできないし、もともと没交渉だったのが逮捕騒ぎで両親には勘当されてしまったから仕送りも期待できない。出所して一年くらい金を稼ぎに行くのもいいだろう。そんなことを思ってから三年経ち、音石明は今日この日長らく世話になった檻から出て行くはこびとなった。
出てくるときに困るだろうからと言って音石より先に出所した苗字が贈ってくれた適当な衣服に身をつつみ、なけなしの所持品を入れたスポーツバッグを肩にかけてのろのろと建物を出て行く。すると目の前の道路に黒いセダンが停まっており、隣に立ったスーツの男が音石に向けて手を振っていた。
「久しぶり。ああ、なんか少しシャキっとしたなあ」
開口一番にそう言われて音石は内心どっちが! と思った。
一年と少しぶりの再会だったのだが気づかぬうちに五年ほど経ってしまったかのような錯覚を覚えた。苗字の外見が変貌しすぎているのだ。音石が見ていた苗字という男はあの質素な囚人服を纏って髪の毛を下していたのに対し、目の前にいる男はというとかっちりしたスーツを着こんで伸ばした髪を後ろに撫で付けている。
「なかなか出てこないから心配したよ」
「はあ、素行が悪いってんで仮釈放の許可下りなくて……」
「だろうなあ。まあ立ち話もなんだ、取り合えず乗って」
苗字は後部座席を指差し、自分は助手席に乗り込んだ。不思議に思って運転席を覗き込むと、なんと運転手が居たのだ。タクシーではない、普通の車なのに白手袋までしっかり装着している。後から考えてみれば車がやたらとテッカテカした黒色の時点で何かしら気づけというものなのだが、苗字という男はその考えを払拭するほど普通で、人のよさそうな人間だったのだ。
「連絡くれて嬉しいよ。変な話だけど、オレはお前のこと結構気に入ってたんだ」
「は、はあ……」
「オレのところで働く気になったってことでいいんだよな?」
「あ、はい……」
「そっか。また話せるな」
苗字はふわりとした柔らかな笑みで後部座席の音石を振り返る。あまりの変貌振りに刑務所時代の苗字は幻かあるいは今目の前にいるのは全くの別人ではないかなどと考え初めていたのが、その表情で全て吹っ飛んだ。ああ、苗字だ。音石はあの健康的ではあるものの窮屈な刑務所生活でわずかな憩いとなった苗字との時間を思い出した。苗字は音石の話によく頷き、誰しもが鼻で笑った夢の話を最後まで聞き届けてくれた人だった。
「オレ、やっぱりギターは弾きたいんで、夜はライブハウスの方で働こうかと思ってて。だから苗字さんのところでお世話になるのは日中になりそうなんですが……」
「ああ、大丈夫大丈夫。そういう店もあるから、そこに行けばいいよ」
苗字は運転手に「後藤のところにあったよな?」と聞き、それに運転手が「はい、兄貴」と答えたのに満足げな表情をした。
「……運転手さんは、苗字さんの弟さんなんですか? 苗字さん、一人っ子って言ってませんでしたっけェ……?」
「ん? 一人っ子だよ。だから音石、お前と話してると本当の弟が出来たみたいで楽しかったよ」
「は、はあ……それはなによりで……」
何かが腑に落ちない。しかしそうして音石がもやもやしている間にも車は高速に乗り、途中パーキングで苗字が飲み物を買ってきてくれたあとはノンストップへ苗字の職場へと向かった。職場というか、上司のところというか、事務所というか。街中で見かけたことは何度かあるし、そういう人間がいることも知っている。任侠ドラマは好きな方だ。しかしこうして実際にその敷居を跨ぐことになるとは露ほどにも思っていなかった。音石は正直額に冷や汗を滲ませていた。ヤバイ。これは、ヤバイ。
「兄貴、おかえりなっせェ!!」
ずらりと並んだ舎弟たちが列を作って腰を落とし深く頭を下げている。音石は挙動不審になりながらも苗字の後に続いた。一刻も早く逃げ出したいと思いつつ、逃げ道がないことも分かりきっている。音石は自分の出生から出身高校まで苗字に打ち明けた後だ。その上今は出所したばかりで身よりも匿ってもらえる場所もないのである。
「苗字さん、あの、念の為に聞いておくんですけど苗字さんのお仕事って……」
「ん? 会計士だよ。組のね」
その最後の三文字を三年前に聞いておきたかった。にこにこと相変わらず人畜無害な笑みを浮かべる苗字が天然で言い忘れていたのか、それとも全て計算ずくで敢えて言わなかったのかすら判断がつかない。しかし今や音石は目の前の男が虎か何かに見えていた。
「音石、また会えて本当に嬉しいよ」
苗字が音石の肩を抱く。あ、いい匂いがする……とぼんやりそんなことを思った。なんとかかんとか財団が助けてくれたらいいのに。そんな願いもむなしく、初夏の爽やかな風のもと音石明はうっかりとんでもないところに就職してしまったのである。