※捏造多すぎてもはやパラレル
※何が飛び出しても大丈夫な人向け
※夢主が聴覚障害者
きらきつねねこ
二学期が始まってニヶ月経った。校庭の桜の葉は散り、代わりにモミジやイチョウが鮮やかに染まっている。もうすっかり、秋だった。
四年生になってからはいろんなことが変わった。まず、クラス替えでそれまで三年間一緒に過ごしたクラスメイトが散り散りになったし、クラブ活動に入れるようになった。三年生まではなかったことだ。そしてなにより、四年生からはクラスで学級委員長と副委員長の席を設けることになっていた。
吉良は副委員長だった。リーダーシップはないので、学級委員長や実質的なまとめ役のムードメーカーではなかったが、しかしその真面目さと成績の良さから推薦を受けたのだ。特に断る理由もなかったので、笑顔で引き受けた。人当たりの良さも評価されていたらしい。担任もクラスメイトも、みんな声を揃えて「適任だ」と言った。
「吉良が適任だと思うんだよ」
そのときと同じように、担任の教師が言った。改めて、渡されたプリントに視線を落とす。
「手話の、ボランティアですか」
「ボランティアと言っても、まあ、クラブ活動みたいなもんだ。気楽にやってくれればいい」
面倒だな。態度には出さず、心中でこっそり思う。
「吉良はクラブもやってないしな。それに、覚えるのが早いから」
安直な考えに、少しばかり落胆する。覚えるのが早いんじゃない、がんばって早く覚えてるんだ。
「どうだ?やってくれるか?」
「僕でよければ」
けれどやはり、吉良は笑顔で引き受けた。担任が満足げに、そうかそうか、と頷く。
「来週の放課後から、活動あるからな」
「分かりました」
渡されたプリントをそのままもらって、吉良は教室へ帰った。
この小学校がろう学校と提携しているのは、薄っすらと知っていたが、自分には縁のないこととばかり思っていた。帰りの会が終わり、学校は放課後の賑やかさで溢れている。
ぼんやりプリントを見ていると、横からクラスメイトが覗きこんできた。
「手話?吉良、手話なんてできんの?」
「できないよ」
答えて、それとなくプリントをノートで隠す。そのまま教科書と一緒に、ランドセルへ仕舞った。
「できないのに、手話会のプリント読んでんのかよ」
「これから覚えるんだ。先生に勧められたからね」
勧められたから、仕方なく。そんな語調で言った。大変だな、と言ってきたクラスメイトに愛想笑いで返す。時計を見ると、あと十分で手話会が始まる時間だった。急いで荷物をまとめて、教室を出る。廊下は走らない。けれど少し早足で、吉良は会場へ向かった。
手話会は、毎週木曜の放課後に活動がある。活動時間は三十分、場所は視聴覚室。クラスメイトにはこれから覚えると言ったが、もう日常の挨拶と自分の名前くらいは覚えていた。図書館で本を借りて、夜な夜な練習したのだ。できすぎる分にはできないふりをすれば済む話だが、自分だけ全く手話ができなかったら困る。
「失礼します」
教室に入ると、既に大方人数はそろっていた。生徒は十数人程度で、教師は二人。片方は見たことがある顔なので、うちの学校の教師だろう。そしてもう片方は、恐らくろう学校の教師なのだと悟った。
前者に促され、吉良は空いている席に着いた。その後何人かが来て、全員揃ったらしいところで、手話会が始まった。
吉良の心配は杞憂に終わった。うちの学校のメンバーは誰一人として手話を知っている者がおらず、活動は五十音で自分の名前を覚えるところから始まったのだ。ろう学校の生徒と二人一組になり、ペアになった生徒に手話を教えてもらうらしい。
吉良の相手は、女の子だった。真っ白い紙とペンが配られる。これで筆談しろ、ということなんだろう。
女の子が先にペンをとった。
―― 私は苗字名前です。よろしくおねがいします。
もう一本のペンをとって、吉良も書く。
―― 僕は吉良吉影です。よろしく。
この自己紹介の言葉は、手話でもできたが、予定通りできないふりをした。書き終わって顔を上げると、ペアの女の子、苗字さんは首をかしげていた。
―― なんて読むの?
―― きらよしかげ
さっき書いた漢字の上に、ふりがなをふった。
―― ありがとう。よろしくね。
顔を上げて、頷く。苗字さんも一度頷いた。
自分の名前の手話を覚えるのは簡単だった。だって、元から覚えて来たんだから。それでも知らないふりをして、教習を受ける。
自分の書いたふりがなを指で指しながら、苗字さんが右手で文字を作った。
『き』
声はないが、指された文字と口の形でどの文字かは分かる。苗字さんの右手と同じように、自分の右手で『き』の字を作った。「き」と声に出すことも忘れない。
『ら』
「ら」
次の文字。らは少し難しい。人差し指と中指を交差させるのだ。もし自分が不器用だったら、手間取ったかもしれない。元に、苗字さんは少し不器用なのか、それとも指が短いのか、『ら』を作るのに少し時間がかかった。
―― 吉良君、上手だね
一通り名前の文字を教わり終わったところで、苗字さんが紙に書いた。そんなことないよ、難しいね、と心にもないことを書いておく。
―― もう一度やってみて
リクエストに応えて、“きらよしかげ”をゆっくりと、一文字ずつ形どった。いつの間にか後ろで見ていたろう学校の先生が、あなた上手ね、と声をかけてきた。同じようなことを、手話で苗字さんにも伝えている。自分の生徒が優秀で嬉しいのか、苗字さんの頬が少し赤くなった。小さな爪の色と同じ桜色。季節外れだと思った。
『こんにちは』
「こんにちは」
二度目の活動内容は、挨拶だった。“おはようございます”から“こんにちは”、“おやすみなさい”までを、一通り手話で覚える。相変わらず、こちらの学校のメンバーは手話を予習している様子はない。器用な者はすいすいと、しかし不器用な者は四苦八苦しながら手話を教わっている。
それが分かったら、吉良も予習せずに来るはずだったのだが、しかしなぜか今回もあらかじめ手話を覚えてきていた。次の活動は挨拶をやります、と教師が予告したのがいけない。今度こそもしかしたら自分だけ、と思い、手話の本を借りて練習してきてしまったのだ。おかげでまた知っていることを、苗字さんからじっくり教わるはめになった。
『こんばんは』
「こんばんは」
“こんばんは”は“こんにちは”とほとんど同じだ。ただ昼を表す部分を夜に変えるだけ。苗字さんの手本のあと、すぐに同じことをやってみせた。
―― 吉良君、上手だね
相変わらず、筆談用の紙とペンは各ぺアに用意されている。前回の活動のときと同じことを、苗字さんは書いた。
―― 苗字さんの教え方が上手いからね
お世辞だ。しかし苗字さんは、嬉しそうにまた頬を染めた。小さな爪のついた指が、並んで笑った口元を隠す。相変わらずの桜色だった。
活動も五回目に差し掛かるころには、もはや手話の予習は習慣になりつつあった。いちいち図書館で手話の本を借りるのも面倒だったので、本屋に行って手話の本を一冊買ってきた。ブックカバーをかけて、外からはそれと分からないようこっそり読んだ。そんなに手話にのめりこんでいると思われるのは、気が引けたのだ。
季節は秋を通り過ぎようとしている。校庭のモミジやイチョウはすっかり葉が落ち、茶色くなって地面に積もっていた。
今日は少し難しいことをやるから、といつもより二十分長くなっているのだが、やはり予習をしてきた吉良はすぐに覚えてしまった。やることがなくなって暇をしていては、悪目立ちしてしまう。ペース配分を誤ったと、反省した。
残り時間の時間、何をすればいいのか教師にでも聞こうかと思案していると、とんとん、と肩を叩かれ、目前に手を差し出された。苗字さんの右手だ。表しているのは、『き』の文字。
「き?」
それがどうしたのか、と愛想笑いのまま首を傾げてみると、苗字さんが首を横に振った。
―― ねこ
苗字さんが書いた。ご丁寧に、隣には猫らしき絵までつけている。改めて苗字さんの手を見ると、やはり『き』のポーズをしている。人差し指を小指を真上に立てて、中指と薬指を、親指につけるポーズ。
『ねこ』
口をぱくぱくさせるのと同時に、苗字さんの柔らかな右手の中指を薬指、そして親指もぱくぱく動く。なるほど、これを猫だと言いたいのだと、吉良はやっと気づいた。
―― それはキツネだよ
―― ねこだよ
―― それ、『き』でしょ。キツネのキだから『き』なんだよ。
そう書いてみると、苗字さんはなるほど、というように目を瞬かせた。自分の右手を見て、き、と音のない呟きを漏らす。
―― 吉良君の『き』はキツネの『き』
自分で確認するように、苗字さんは書いた。猫だと言ったことが恥ずかしいのか、頬はまた桜色になっていた。もう季節は変わろうとしているのに、いつもこの色だけが同じだ。
そうだね、と口に出して頷く。苗字さんも一度頷いた。
一月。冬休みも終わり、三学期が始まった。冬休みと共に止まっていた手話会の活動も、また始まる。
冬休みは暇で仕方なかった。家にいれば勉強をするしかないが、かといってどこかへ出かける予定もない。勉強の合間に手話の予習をしすぎたせいで、秋に買った本の内容は、ほとんど覚えてしまっていた。
もし、教わっていないはずの言葉をやってみせたら、苗字さんはどんな顔をするだろうか。そんなことを考えながら、視聴覚室へ向かう。三学期一度目の手話会だった。
「今日からは、岡本さんとよろしくね」
『よろしくおねがいします』
「えっ、ああ……」
よろしく、と口で言ってしまってから、慌てて手話でやり直した。
苗字さんは、冬休みの間に県外へ越してしまったのだという。
「吉良君には、すごく感謝していたよ」
人づてに伝えられても、何の感慨もなかった。
岡本さんは、教えるのが上手かった。指が長く器用で、吉良の『ら』も軽々やってみせた。吉良は、予習をやめた。
それから五年生になり、吉良は手話会を抜けた。もともと、人数が足りないからと担任に無理やり入れられたようなものだ。幸い新四年生がたくさん入ったようだったので、吉良がいなくても十分だった。
小学校を卒業し、中学に入り、そして高校へ入った。何度か『手話』の二文字を見かけ、そのたび苗字さんのことを少し思い出した。教わった手話よりも、苗字さんの桜色の頬の方をよく覚えていた。
大学を出て、地元で就職すると、いよいよ手話と接する機会はなくなった。同僚に手話を知っているような者はいないし、両親は亡くなりその上の親族もいないから、耳が遠い者もいない。手話のことなど、ほとんど忘れかけていた。
しかし手に関することには、興味を持っていた。手そのものに発情するのだと気づいたのは、中学の図書館。なんとなく眺めていた分厚い美術書に載っていたモナリザが、全てを攫っていった。
道路わきのフェンスの向こう側、小学校の桜が満開に咲いていた。入学式でもやっているのか、辺りの駐車場や路肩に自動車が所狭しと並んでいる。強い日差しを受けた桜が少しまぶしい。
仕事の終わり、宛てもなく歩いて着いたのがここだった。そよ風に乗って、桜の花びらが地面へ舞い落ちる。学校のチャイムが鳴る。どこの学校でも同じようなこの音色は、知らない場所のはずなのにひどく懐かしい。
そろそろ歩き出そうかというころ、こちらへ向かってくる人影があった。フェンスを挟んで向こう側、校庭の隅の桜の元へ来た一人の女。手には小さな花束を持っている。気になって近づいてみると、花は菊だった。折角の花見日和に、なんとも場違いな花だ。
女はそれを桜の根元に置くと、しゃがんだまま数秒手を合わせた。桜の木の下に、死体でもあるというのか。今度こそ立ち去ろうとして、女と目が合った。気のせいかと思いきや、どうやら本当にこちらが見えているらしいと知る。女が妙な手振りをして、思わず手が動いた。が、そこから何をしていいか分からず、力の抜けた手がゆるく空を掻く。
何をしているんだ、と自分に呆れたところで、ふと思いついた形を作った。彼女の方へ差し出すようにして示す。
『ねこ』
声は聞こえなかったが、苗字さんは確かにそう言った。きつねだ、と返す自分の声が少し笑っていた。