「やだ、やめて」

 何があったのかは分からないが、帰ってくるなり私に覆いかぶさったディエゴはさっきから熱心に私の首筋に顔を埋めて何も言わずただ肌を唇でなぞっていた。それだけならばよかったのだが抵抗せずにいたらだんだんと行為はエスカレートして、ディエゴは私の首筋を吸ったり舐め回したり、挙句の果てに歯を立てるようになった。とうとう堪えきれなくなった私が声を上げたのに、それにも構わず執拗に首をがぶがぶと噛み回す彼の顔は私からは見えない。

「やめてってば」

「いやだ」

 ディエゴの少しぱさついた金糸の下の頬に手をやって彼を引き剥がそうとしてみたが無駄だった。腕の下から背中に回した腕は私の身体をしっかりと捕まえて離さない。たくましいように見えて意外と細身な、でもやっぱりしっかりと筋肉のついた弾力のある腕に肋骨を締め付けられて息が苦しい。
 首をいじるのに飽きたのか、ディエゴの鼻先は鎖骨へと移動していた。薄い皮の下の骨の形を確かめるように、ディエゴはやっぱり鎖骨に歯を立てた。歯の間からぬるりと現れた舌がちろちろと肌を流れるのを感じて、ねえ、ともう一度口を開いてはみたがディエゴは何も言わない。私は諦めてディエゴの気が済むまで待つことにした。
 その後ディエゴは私の鎖骨と肩、そしてまた首を噛んだ。かぷかぷと甘噛みを繰り返す中で、ディエゴが私の背中に回した腕をそわそわと少し動かして、手のひらをぎゅっと握り締めた。彼はときどき言葉を捨てることがある。腕の訴えを聞き取った私はディエゴの首に腕を回した。本当は背中を抱きしめたかったけれどディエゴが私のお腹のあたりにはりついているから腕が届かなかった。襟足の毛をすいて後ろ頭をなでてみると少し気分が浮上したらしいディエゴが顔を上げた。久しぶりにディエゴと目が合った。

「ここにいろよ、ナマエ」

 どこにも行くなよ、というディエゴに、はて、と首をかしげる。私はこの、ディエゴの借りた立派な借家からどこかに出かけたことがあっただろうか。レースで近くまで来たときにふらりと立ち寄るだけの、ただのキープハウスの一つから。
 どちらかというとそれは私の台詞ではないのだろか、と思った。私はこの家で暮らし買い物も仕事もこの家の周囲一マイル、いやその半分かも、とにかくそれくらい狭い世界の中で暮らしているのに、ディエゴといったら月に一度か二度ここへ来るくらいでいつもは何十何百マイルも離れた場所でどこかの誰かの豪奢なお屋敷で過ごしているのだ。私がディエゴに縋り付くならまだしも、なぜ私はディエゴにしがみつかれているのだろう。
 答えの出ないまま口を開く気にもなれず、ゆっくりとディエゴにもたれかかる。首の後ろに回していた腕は行き場をなくしてゆるく交差したまま宙ぶらりんだ。ディエゴの骨ばった肩が二の腕に食い込んで少し痛い。多分、ディエゴも私の二の腕が少し重い。

「お前がどこかへ逃げていくんじゃないかと思うと」

 そこで一度切って、気が気でない、と続けたディエゴの声は少し掠れていた。あれだけ私の喉や首や鎖骨を舐めまわしていたのだから当たり前だ。喉はからからに渇いているんだろう、ディエゴがこくりと唾を飲み込んだ音が聞こえた。

「行かないわよ、どこにも」

 言ってみてもディエゴの身体は固くこわばったままだ。それにしても、ディエゴは私のことを人質や何かだと思っているのだろうか。目を離すと逃げてしまうと思っているのだろうか。月にたった一度の逢瀬を残りの三十日間ずっと待っているのに、一体どこへ行くと言うのだろう。
 いつ来るとも言わないのだこの男は。おかげで私はやたら競馬のスケジュールに詳しくなったし、ディエゴの参加するレースの三日四日前からそわそわと部屋を掃除してみたり髪を切ってみたり、とにかく落ち着きのない時間を過ごしているのに。しかもディエゴは結局来なかったり全然レースのない期間に突然来たりするのだから救えない。

「ここに居てくれ」

 あなたがちゃんと、来る日を教えてくれるならね。そう言おうとしてやめた。ディエゴが来る日を伝えようが伝えまいが、結局私は三十日間今か今かとディエゴを待つに違いないと思ったのだ。代わりにふと思い立って「嫌だって、言ったら?」と言おうとしたのだが「嫌だ」の「いや」あたりでディエゴに口を塞がれた。塞がれたというよりは噛み付かれた。少し乱暴にがぶがぶと口をつけてくるので唇や頬に歯が当たって痛い。
 やっぱりちゃんと、来る日を教えてほしいと言おう。電話でも手紙でも、なんでもいいから。きっとそれが来るだけで私は、もうディエゴが来ないかもしれないなんていう不安から開放されるのだ。
 まだ彼の肩にかかっていた腕を引き取って手のひらを耳の後ろにつけた。ディエゴの耳は少しひんやりとしていて、火照った首にずっと触っていた手に触れる低い温度が気持ちよかった。ディエゴの唇の合間に切れ切れになりながら、嘘だよ、と言った。次の言葉はごめんね、だ。その次に、愛してるとは言わないけれど、私が三十日間どう過ごしてるかばらしてしまおうと思った。私がどこかへ逃げるかもしれないだなんて、ディエゴの不安がばれてしまったのだ。フェアにいこう。でもきっとそれを聞いたらディエゴは安心してしまうかもしれないから、私の不安を吐露するのはもう少しキスをしてからにしよう。あと少しだけ、しがみつかれた喜びを感じていたい。


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