※お題掌編/ララバイの別のやつ
雨が降り出しそうだった。ディエゴが屋敷へ帰ってくると、いつも玄関先で出迎えてくれるはずの妻の姿が見えなかった。メイドに聞いたところ、近くの公園まで散歩をしてくると行ったきり戻ってきていないという。なぜ一人で行かせたんだ、と傍にいたメイドをたしなめて、馬車を用意するように言った。
どうせ、ナマエが一人で行くと言って聞かなかったんだろう。しかし本人は平気なつもりでも、齢八十を越した身体はそうはいかない。
窓の外と時計とを、交互にちらちら見る。灰色の空は鬱蒼として、今にも泣き出しそうだ。屋敷の中でさえ肌寒いのに、外に出ているなんて、ありえない。
「馬車はまだか!」
ただ今!と使用人の焦った声を聞いて、弾かれたように玄関を飛び出た。急に出てきた自分の顔を見て、ひっと息をのみ手綱を落とした御者をきつくねめつける。
「もういい、お前は降りろ」
オレがやる。そう言って手綱を拾い、御者席に乗り込む。慌てた御者が、必死で引き止めてきたが無視した。
「うるさい!お前は中にでも乗っていろ!とっとと行くぞッ!」
びくつきながら素直に馬車へ転がり込んだ御者を横目に、手綱を馬に叩きつける。ヒィイ、とひと鳴きした馬が、蹄を地面に打ち鳴らした。
ナマエは、公園から少し離れたところにいた。シャッターの閉まったどこかの店先で、ひっそりと雨宿りをしていた。
こんなところで何してるんだ馬鹿、とか。あれほど一人で出かけるなと言っただろう、とか。言いたいことは山ほどあったはずなのに、ナマエの背中が見えた途端に全部飛んでしまった。
小さな背中を抱きしめる。力の加減をせず、思い切り。苦しいだろうが、そんなこと知ったこっちゃなかった。
「ディエゴ、痛いわ」
「…………」
「ディエゴ、ごめんなさい」
一人で出歩いたりして。そう言うナマエを責めることもせず、ただ黙って肩口に埋めた頭をふるふると横に振る。
しばらくそうしていたかったけれど、ナマエが雨に濡れてしまう。スーツのジャケットを脱いで、ナマエの頭から被せると、その手をとってゆっくり馬車へと歩き出した。
「ディエゴ」
「話なら、馬車の中で」
「迎えに来てくれて、ありがとう」
「…なんだ」
そんなこと、と言おうとして、何か胸に突っかかりを覚える。喉に何か詰まって、言葉が出てこないような感覚だった。
「気にするなよ」
夫として、当然のことだ。なんとかそう言いきって、ナマエと目が合う前に歩き出した。
雨に降られてはないものの、ずっと外にいたナマエの手はひどく冷たい。必死で馬を走らせた自分の手が火照るように熱かったから、なおさらそう感じた。
だんだんと、氷のような温度が自分に移ってくる。きっとナマエの方も、ディエゴの温度が移っていって、じわじわと温くなっていっているんだろう。そのままナマエの手が溶けてしまえばいいと思った。
馬車が見えてきた。馬を置いて走り出したディエゴを心配したんだろう、あたふたとしていた御者が二人の姿を認めてほっとしたように姿勢を正した。それを見たナマエがふっと笑った気がして、ディエゴも口元を緩める。
馬車に乗ったら、さんざん文句を言ってやろう。
そして屋敷に帰ったら、また抱きしめてやろうと思った。今度はやさしく、そしてもう少し、長く。
(end)