「それで、オレはなんとか刑務所から抜け出せたってわけだ。本当、あのダッサイ囚人服着せられたときはもうおしまいだって思ったけどな。もう二度と行きたくないね、あんな場所……ああでも、一週間だけでも刑務所で暮らしたせいか、なんでもない景色がやたらきれいにみえるし、なにしてても楽しいんだ。いい経験だったかもって思うぜ。まあ、無事に出てこれたからこんなこと言えるんだけど」 記憶と寸分違わぬミスタの上機嫌な笑顔に戸惑いながら、ナマエはコーヒーを一口だけと口に運んだ。部屋に上がってすぐに淹れたコーヒーは、つらつらと続けられるミスタの長話の間にすっかり冷めてしまっていた。 刑期を務めているはずのミスタが突然目の前に現れたことに混乱し、まさか脱獄でもしてきたのかと警察に通報しかけたナマエを、ミスタは慌てて制止した。頼むから話を聞いてくれと言われて携帯電話を仕舞ったものの、真っ当な方法での出所ではないが脱獄はしていないなとど曖昧な説明をするミスタにやはり警察に通報した方がいいのではと不安ばかりが募る。そんな心情を察したのか、ミスタは外だと話しづらいから中に入れてくれと必死にせがみ、釈然としないながらもナマエは彼を自室に招き入れた。ミスタが本当に脱獄犯だったとしたら危険きわまりない行為だったが、その必死さに折れたのだ。 始めにミスタが言ったのは、あの気が遠くなるような長い刑期を全うしなくてもよくなったということだった。上訴も何もなしにそんな馬鹿なと仮にも法律家のナマエが疑心に満ちた目を向けると、ミスタは恩人であるブローノ・ブチャラティという青年のことを話した。 言葉の節々に彼への尊敬の念を滲ませながら、自分がいかにして助けられたのかということを熱心に話されても、ナマエはさっぱり腑に落ちなかった。一度下された判決を覆すどころか、あまつさえ殺人犯を無罪放免にするなんて十九の青年にできることではない。何か裏があるはずだ。そうではければ到底信じられない。そう詰め寄ると、始めは言葉を濁していたミスタだったが、しばらく無言で見つめ続けると根負けし、ぼそぼそと事の顛末を語り始めた。 「ギャング!?」 「しーッ!声がでかい!」 さっきまでの陽気な表情と打って変わって真剣になったミスタに、ナマエはぱっと口に手を当てた。コホンとわざとらしい咳払いをして、ミスタが話を続ける。ブチャラティという青年はここ一帯を締めているギャングの一員であるということ、彼の口添えによって各機関に圧力がかかり、ミスタは無罪放免になったということ、そしてその見返りに、ミスタがその組の一員となったこと…… どれもこれも思わず耳を疑うような話だったが、ミスタの表情は嘘や冗談を言っているようには見えなかった。全てが現実に起こったことなのだ。話を聞き終えて、ナマエの目からぼろりと涙がこぼれた。 「えっ、おい、なんで泣くんだよ!」 「……ごめん、ミスタ、本当にごめん」 オレのせいだ、と言ったところで自分の涙声が情けなくなりナマエは俯いた。ミスタが慌てふためいて、どうして謝るんだ、どうして泣くんだとナマエの肩をさする。 「だって、オレ、ミスタ……オレの、オレのせいなんだ。オレがもっとしっかりしてれば、お前の刑期は縮められたはずだし、そんなことしなくても、無罪にだって、きっとできた……そうしたら、おま、お前がギャングになることなんかなかっ、なかったんだ……」 次々と頬を伝う涙をごしごしと手の甲で拭いながら、ナマエはここ数ヶ月の間ずっと頭の中を回っていたことを全て吐き出した。自分は弁護士のあるべき姿を履き違えていた。判事に聞かせるべきは被告の言う真実ではなく、それらしい筋書きなのだ。自分がミスタの話を信じる信じないの話ではない。判事が信じられるような話をさまざまな角度から探して、最も勝率の高い筋書きで戦うべきだったのだ。 途中えずいたり声が震えて聞き苦しくなっていっても、ミスタはナマエが話している間何も言わずに聞いていた。そしてもう一度ごめんと謝ったとき、突然ナマエの両頬を手で挟んで軽く押しつぶすと、無理やり顔を上げさせた。 「ナマエ、オレは今幸せなんだ!」 いきなりのことといきなりの言葉に困惑していると、ミスタはよく聞いてくれよ、と前置きして話し始めた。 「オレはお前に謝られる心当たりが一切ない。そりゃ確かに刑務所にいたときは結構へこんでたけど、結局出てこれたわけだし、それに心から尊敬できる人に出会えたんだ。食うもんは全部うまいし、空はきれいだしで、人生を最高に楽しんでる……きっと取引の条件じゃなくても、自分からブチャラティのところへ行ったぜ。それでこれは、きっとオレの……なんだ、運命みたいなもんなんだよ。きっと何度人生やり直しても、オレはギャングになる」 だから泣く必要なんてないし謝られる謂れもないのだとミスタは言った。にかっと笑った顔は裁判のときと同じで後ろ暗いところが微塵もなく、ミスタが本心で言っていることを証明していた。分かったか?と問われて返事を言う代わりに一つ頷くと、ミスタはほっとしたように眉を下げた。 「はは、すげえ顔だぞナマエ」 うるせえ、と言い返したものの、ミスタの手が頬を挟んでいるせいでうまく発音できない。妙に舌足らずになったのを聞いてミスタはまた笑った。 「それにオレ、ナマエには本当に感謝してるんだ……あんたさっき自分のことを弁護士失格みたいに言ったけど、そんなことねえとオレは思う。……いや、オレは弁護士のことなんて全然わかんねえけどよ。でもオレは、あのときナマエが話を信じてくれて、本当にうれしかったんだぜ」 ミスタは照れたようにはにかんだ。 「オレにとって、あんたは最高の弁護士だったよ、ナマエ」 一度止まりかけた涙がまた溢れてナマエの頬を濡らした。泣くなって、と困ったように笑ってミスタが涙を拭う。頬から手が離されて口が自由に回るようになったナマエは強がって弁護士じゃなくて弁護人だと訂正したが、やはりひどい涙声だったためにミスタの笑いを止めることはできなかった。 久しぶりにリストランテを訪れると、店内には多くの客が楽しそうに食事をとっていた。以前はギャングの事務所の隣にあるリストランテなんてとんでもないと、人っ子一人近づかず閑散としていたのにすごい変わりようだ。それを店主に告げると、そのギャングのおかげで他所のチンピラが寄ってこないのだという。この治安の悪い街で一番安心して食事ができるリストランテとして、店は起動に乗り繁盛しているようだった。 待ち合わせ相手の顔が見えずに困っていると、店主は彼らは奥にいるんだと言ってナマエを厨房の裏に案内した。事務所とリストランテを繋げてしまったらしい。威勢のいい話し声がかすかに漏れ聞こえる扉を開けると、リストランテにあったのと同じ丸テーブルに四人の男が座っていた。 「おいやめろナランチャ戻せッ……あっ!来たなナマエ!」 何か言い争っていたようだが、ミスタはナマエに気づくとぱっと笑顔になった。こちらに背を向けて座っていたフーゴが首だけで振り返り、素っ気無くチャオ、と挨拶をする。その手にはフォークが握られていて、フーゴはふいっと顔を戻すとパスタを巻きつけ始めた。チャオ、と返したナマエにおう、と反応したアバッキオは何か飲んでいるだけのようだったが、彼の目の前には食べ終わった空の皿が何枚か重ねてあり、こっち座れよ、と手招きするミスタとその隣の少年は手にピッツァを持っていた。どこからどう見ても、昼食は終わりつつある。 「待ち合わせ時間は合ってたと思うんだけど……オレ、遅刻した?」 ナマエの記憶と手帳のメモが確かなら、今日は昼食に招かれていたはずだった。とっくに昼食を食べ始め、あるいは食べ終わっている彼らは揃って首を横に振った。 「これ、朝食なんですよ。今日忙しかったからみんな食べ損ねてて……ぼくはナマエが来てからにしようって言ったんですけど、ナランチャがどうしても我慢できないってごねるから」 ちなみにこれはぼくが頼んだパスタじゃなくてナランチャが頼んだのに唐辛子が辛くて食べられないとか言ってぼくに押し付けたパスタです、とフーゴは補足した。オレはおめーを待ってたぜ、とアバッキオ。てっきり食後のコーヒーかと思ったのだがどうやら食前のお茶だったらしい。そこにまた、ぼくだってそうですよ、なのにナランチャが……とフーゴが続けた。その横ではなにやらミスタが小柄な少年と揉めている。 「だからなんで一度に!二切れも取るんだ!一切れでいいだろうが一切れで!お前のせいで、残りが四切れになっちまっただろうがよォ〜〜」 「うるっせえなァーじゃあもう一枚頼めばいいじゃん。八枚に切ってくれるから、えーと、今四枚あって、足すと……あー……十六枚になる!四枚じゃないぞ!」 必死で考えに考えた末にぱっと顔を明るくして答えを出した少年に、フーゴが憮然として「四枚多いですよ」と突っ込んだ。「しかもそれだと四掛ける四だ」 「ああ、ナマエじゃないか」 この算数のできない少年は新しいメンバーなのだろうか。不思議に思いながらコートを脱いでハンガーにかけていると、奥からブチャラティが顔を出した。自分より年下のはずだが、いつ会っても不思議な安心感のある人だ。大人びていると言えばアバッキオが筆頭でもあるが、最近ミスタにも身長を抜かれてしまったし、ナマエが年長者であることを意識している人間はチームにはいないだろう。 「よく来てくれたな。なに、そう立っていることもない。席に座ってくれ」 「ありがとう……ところで、そこに座ってる子は?ナランチャってその子のこと?」 「そういえば、ナマエには紹介してませんでしたね」 フーゴがパスタを食べる手を止めて言う。なんでもずいぶん前からチームにいたらしいのだが、話し合いには不適ということでナマエが来る日にはブチャラティやフーゴの代わりに見回りに出ていたのだという。食い意地がはったいたずら坊主で、ついでにド低脳で算数ができない、と付け足された言葉にはなぜか怒気がこもっていたのでとりあえず受け流す。 ブチャラティの言葉に従って空いている席につくと、アバッキオからリストランテのメニューを渡された。テーブルやチェアと一緒にメニューも持ってきてしまっているらしい。決まったら言えよ、呼び鈴鳴らすからなと言われて注文専用の呼び鈴まで取り付けてしまっていることも知る。ぼくも頼みます、喉が渇いて仕方ないんです、隣に座ったフーゴが手元のメニューを覗き込む。 さて今日は確か、ブチャラティの管轄下にあるちょっといけないお店がしょっぴかれそうになっていることについて相談を受けに来たはずだったのだが、肝心のブチャラティはまた奥に引っ込んでどこかへ行ってしまったようだし、その次に頼れるアバッキオは我関せずといった様子で、ミスタに至っては件のナランチャ少年とまだああだこうだと言い合っている。 ナマエは仕方なくメニューに視線を落とした。隣からフーゴが、今日はいい海老を仕入れたそうなんで海老とトマトのパスタがおすすめです、と助言した。 「まあ、これならなんとかなると思うよ」 「そうか……今日はわざわざすまなかったな。また何かあったら頼むよ」 「任せといて」 食べ終わった後もだらだらと席に居座っていたナランチャ少年やミスタを追い出してしばらく、ようやく話が纏まってブチャラティとナマエはほっと一息ついた。コーヒー淹れました、とフーゴが空のコーヒーカップにおかわりを注ぐ。ひきたての豆の香りを褒めると、本当はぼくじゃなくてリストランテの人が淹れたんです、と口角を上げた。 パッショーネと警察の関係は密だ。組織自体がそうだし、内部にも多くの協力者がいる。けれど警察の人間では表立って行動できない事態もあるのだ。そういうとき、弁護士であるナマエがたびたび手を貸す。 引き込んだのはミスタだ。始めこそナマエを関わらせられないとマンションに来るたび不審者のように顔を覆っていたのだが、ギャングは弁護士を敵に回さないのだと伝えるとやっと普通の格好で来るようになった。警察すら懐柔しているパッショーネには関係ないことかもしれなかったが、刑務所に入られそうなギャングの頼みの綱の一つは弁護士なのだ。ギャングの下っ端の一人と仲良くしていても不思議なことはないし、だからといって他の組に襲われたりもしない。 それならばとミスタはナマエをブチャラティに紹介し、ブチャラティはナマエに仕事の相談をするようになった。ときには、実際に法廷で正式な弁護士としての働きをすることもある。 ミスタの恩人だから、相談の料金はもらわないことにしているのだが、ブチャラティはそれをよしとしてくれないようで、ときどき家に高そうなお菓子やワインが届いている。 パッショーネに協力しているつもりなど毛頭ない。結果的にはそうなったとしても、ナマエはミスタやブチャラティに協力していると自負していた。小奇麗な弁護士から冷たい視線を浴びせられることもあるが、弁護士なんてもともと聖人の類ではないのだ。道を外れているとは思わなかった。 「……ところで、最近はどうだ。なにか困ったことはないか?」 「いや、なにも」 問いかけに答えて熱いコーヒーに口をつける。ナマエに会うたび、ブチャラティはこうして困ったことがないかと聞いてくる。それはナマエがギャングに加担している一般人だということを配慮してのことだ。最近聞いたことだが、ミスタがしょっちゅうマンションの自室に遊びに来るのは自分の様子見と他のギャングへの牽制の意味もあるという。そんなのはおまけのおまけだしそうでなくてもオレは会いに来る、というのは本人の弁で、ナマエも義務でなど来てほしくないのだと伝えたところ、自らこうして聞いてくるようになったのだ。どうもチームのリーダーというのは気苦労が多いらしい。 「ナマエがいてくれて、ミスタは幸せだな」 「……それを言うなら、ブチャラティやチームのみんながいてくれて、だと思うけど」 ブチャラティは微笑んで何も言わなかった。 自分は幸せなのだと言ったミスタの言葉を、始めは信じられずにいた。いや、ミスタの言葉自体は信じていたが、一ヵ月後や一年後にも同じ言葉が聞けるかどうかが不安だったのだ。法律のことは知っていても、ギャングの内情や構成員の行く末など想像もつかないナマエには、先が暗く見えて仕方なかった。自分がもっとしっかりしていれば助けられたのではないかという疑念を拭い去れずにいた。 けれどこうしてミスタやブチャラティと過ごすようになって、今ではあの言葉を信じられるようになった。もうミスタの人生が悲惨だなんて言うことはできなくなったし、今更そんなことを言ったら本人が許してくれないだろう。ミスタはこれでよかったのだ。 「話終わったか? ナランチャがナマエ紹介しろってうるさくてよー」 「だって、オレだけ知らないなんておかしいだろ!」 しばらく席を外していたミスタとナランチャが現れた。一気に部屋がにぎやかになる。入れ替わりに、警察の観点から意見していたアバッキオが退室した。少しぴりぴりした様子を気にしていると、無理をしていたからタバコでも吸ってくるのだろう、心配しなくていいとブチャラティが言った。 「ミスタの弁護士だろ? オレ、ナランチャ!」 「ああ、うん……もういいやそれで。ナマエだよ、よろしく」 弁護士と弁護人の違いを、フーゴとアバッキオは理解してくれたものの、当のミスタは未だにナマエを“自分の弁護士”と言っているようだった。算数のできなさからするに、ナランチャにも説明するだけ無駄だろう。ちなみにブチャラティにも説明はしたのだが、やけにあっさりとした了解だったために本当に分かってくれたのかどうかは疑問だ。 「ミスタがいつも自慢してくるからずっと気になってたんだ!なのにいつもオレを見回りにまわしてさあ、ずるいよなァ」 「……自慢って?」 「おいナランチャ、余計なこと言うなよ!」 何か言おうとしたナランチャの口を、ミスタが慌てて塞ぐ。そういうことをされると余計気になると言うものだ。自分を遠ざけようとするミスタに纏わりついて、ナランチャの口にはりついた手を引き剥がそうと画策する。 「なあミスタ、自慢って何?何を自慢してんの?ちょっと手どけなよ、ほら、ナランチャが苦しそうじゃん」 「だあーッ!もう!ナマエちょっとあっち行ってろよ!」 「っふごごふご!もごご!」 三人の様子を、テーブルでコーヒーを飲みながらブチャラティが楽しそうに見守っている。フーゴは呆れたように肩をすくめて事務所の奥に引っ込み、入れ違いで帰ってきたアバッキオが部屋の情景を見て何してんだお前ら、と一言入れた。 |