ガシャンと大きな音を立てて閉められた檻を横目で確認する。まさか二人きりにする気じゃないだろうなと警備員の方に目を向けるも、さっさと済ませろと言わんばかりの睨み返しにナマエはすごすごと簡易ベッドに腰掛けた少年に向き合った。

 少年、グイード・ミスタは殺人容疑でこの狭苦しい留置所に拘束されていた。少し癖のある短髪をいたる方向に跳ねさせて、チャオ、と微笑んだ彼に悲壮感は全く感じられない。立ったままのナマエを見上げる顔はいやに上機嫌だった。弁護士が来るって聞いて楽しみにしてたんだと場違いなことを言う彼に戸惑いながらも、ナマエは弁護士じゃなくて弁護人だと訂正して早々に裁判の打ち合わせを始めた。実のところはミスタの言った通りナマエは弁護士そのものだったが、このときは公選弁護人としてこの場に赴いていた。つまり通常の弁護と違い破格の値段で雇われているわけだがそこは少年の知る限りではなかっただろう。
 初めの挨拶から薄々分かっていたことだが、被疑者のグイード・ミスタは陽気な少年だった。面識のない大人を三人も射殺したと聞いて一体どんな子供なのかと内心不安に身を震わせていたナマエは少し拍子抜けした。ミスタはどこにでもいるような、ただの明るい少年だった。
 何も犯罪者の全てが目に見えて恐ろしい顔や言動を取るわけでないことは百も承知だが、それにしてもグイード・ミスタは何一つ浮いたところがなかった。手癖の悪い子供のような世渡りの良さも、計算しつくされた良い子の仮面や大人の庇護を誘うようなか弱さの仮面も、逆にストレートな心の影が垣間見えることも、何も。
 一つあるとすればこの自分の置かれた状況を把握していないかのような気負いの無さが気になったが、世の中を侮るのは子供の多くに見られる傾向だったからやはり問題ではなかった。
 アルコールやタバコの味も知らないような聖人君子でないにしろ、あまりの凡人っぷりに思わずナマエは本当に三人も殺したのかと聞いてしまった。検察から渡された調書にもある通り、ミスタが全面的に罪を認めていることは既に何度も確認されているにも関わらずだ。
 この質問にもにこにことした表情を崩さず滑らかな舌で答えるかと思いきや、意外にもミスタは少し俯いて、あのときは咄嗟に行動したから何も考えていなかったが今思うとあのチンピラたちにも家族や恋人がいたかもしれない、悪いことをしたと言い反省している様子を見せた。その後にも数十分は話を続けたが、ミスタが影のある表情を見せたのはこれきりだった。







 被害者の遺族を思う気持ちはあっても被害者自身に申し訳ないとは思っていないようで、ミスタは裁判当日になっても自分は人を助けたのだから間違ったことはしていないという姿勢を崩さずにいた。
 その後ろ暗さの見当たらない堂々とした出で立ちだけを見れば、彼が被告であるということも裁判という厳粛な場にいることすらもおかしいような気がした。ナマエはまた、彼は本当に人を殺したのだろうかと思った。
 人助けのために銃の引き金を引いたのだとミスタは言った。それが事実なら彼の態度にも納得がいったが、その襲われていたところを救ったのだという女性が一向に名乗り出ず被害届けも出されていないことは彼にも伝えてあったから、内心では不安でいたのかもしれない。けれどその不安は微塵も外面に表れず、ただミスタの真っ直ぐな芯の強さだけがあった。
 しかしその堂々とした姿勢が、罪を犯したことを反省していないとして判事の眉をひそませたことはナマエの知る上で一番の不幸だった。もともと不利を極めたような内容であったにしろ、必死の弁護、弁解もむなしく、ミスタは今までの人生よりはるかに長い実刑を言い渡され、判事が振り上げた小槌の高らかな音と共に裁判は閉められた。







 ガラス張りのオフィスや高い給与を受けることよりも法によって弱者を守り救うことに惹かれ弁護士を目指したナマエにとって、たとえ時給が大学生のアルバイトより低くなっても公選弁護人を務めることは至極当然であったし、犯した罪の大小に関わらず罪を認め反省し償う気のある者には見返りなど求めず罪の軽減に身を尽くしてきた。どんな重罪で起訴された者であっても、その反省の言葉と償いの姿勢を信じ彼らがなるべく早く社会に復帰できるようにしてきた。
 誰がなんと言おうが、被害者になんと罵られようが、依頼主の言い分を全面的に信じて弁護を行ってきたのだ。そしてこのグイード・ミスタの案件においても、ナマエは彼の言い分を信じた。いや、実のところ到底信じられるようなものではなかったが、信じようとした。とりあえずそれが真実であると仮定して、裁判に備えていった。

「こう……なんていうかな、弾の道筋が見えたんだ。はっきりとな。それで周りがふっと遅くなって、オレは簡単に飛んできた弾を指で摘むことができた。それを奪った銃にこめ直して、引き金を引いたんだ。自分でも信じられないけど、確かにやったんだ。不思議なことってあるもんなんだな」

 ミスタが発砲した銃には被害者の指紋がべったりとついていたために、それがミスタのものでなく被害者のものだということは警察側からも認められていた。ミスタが銃を奪った時点で弾が四発装填されていたというのが警察の見解だったが、ミスタはそれと全く違うことを説明した。
 正直言うと、ミスタの説明を最後まで聞いたとき精神鑑定の文字がナマエの脳裏をよぎった。事件当時、ミスタの体内から麻薬やアルコールの類は検出されていない。ならば責任能力のない人間なのではないかと思ったのだ。しかしあまりにも普通な少年のミスタに、その疑いを向けることはできなかった。精神科医でもなんでもないが、ナマエはミスタが正常であることを信じ、ミスタの話を信じた。
 警察の取調べで散々馬鹿にされふざけるなと怒鳴られたというミスタは、ナマエがあっさり自分の言い分を信じたことにひどく驚いて、ひどく喜んだ。

「もう誰もオレのことを信じてくれないかと思ったぜ。いやー、弁護士があんたでよかった。ナマエだっけ、ありがとな。本当にあんたでよかったよ」

 今でもあの屈託のない笑顔を思い出す。ミスタはそう言ってくれたが、実際には自分が彼の弁護人ではいけなかったのだ。そう分かったときにはもう裁判は閉廷していて、あっという間にミスタは刑務所に入れられ、瞬く間に上訴も棄却され取り付くしまもなく、ナマエはなけなしの給金を前に呆然としていた。







 弁護士になってから今まで、これほどまでにひどい判決は未だかつてなかった。まだ両手で数えられるほどしか裁判を経験していないにしろ、今までは無罪判決や司法取引での減刑に成功し続けていたのだ。ナマエは深い後悔に襲われた。依頼主を信じることが弁護をする上で最も重要なことだと思っていたが、そうではなかったのだ。勝つことが一番大事だった。そんな単純なことが分かっていなかった自分を、ナマエはいつまでも責めた。







「君、しばらく休暇をとったらどうかね」

 所長はそう言うと、二ヶ月くらいなら席を置いといてあげるよ、と続けて眉を下げた。
 あの裁判からすっかり変わってしまったナマエを、同僚の弁護士たちは心配そうに見ていた。もともと無理な裁判だったじゃないか、君のせいじゃないさ、よくあるケースだろう……どの言葉も慰めにはならず、ナマエはお気遣いありがとうとだけ言ってすぐ仕事に戻った。マイペースに業務にあたり休憩時には同僚と雑談し快活に笑っていた以前の面影は遠く、ナマエは朝から晩まで休むまもなく働くようになっていた。そんなに根を詰めたら身体によくないと助言する同僚は少なくなかったが、ワーカホリックそのものになったナマエは今までの数倍のスピードで仕事をこなし、しかも担当した裁判ときたら全て勝訴に終わっていたために誰も強くは言えなかった。ただ、食事さえ少しのビスケットやチョコレートを口にするだけで済ましてしまうナマエがいつ倒れるかとはらはらしながら見守っていた。そして同僚の不安は的中し、ある日ナマエは出先から帰ってきた途端オフィスで倒れた。

「成績がよくなったのは悪いことじゃないんだけどね……体調管理ができないんじゃ困るから、ね。ちょっとでいいから休んできなさい」

 所長は朗らかに言った。自分のようなひよっこの弁護士など追い出そうと思えばすぐにでもできるはずなのに。ナマエはこんな自分に情けをかけてくれる所長や心配してくれた同僚に申し訳なさが募り、言われるがまま一ヶ月の休暇をもらった。







 休みの始めの一日はマンションの自室でぼんやりと過ごしてみたが、何もしないことにひどく焦燥感を覚えて二日目は我慢できずに外へ飛び出した。財布だけ持って街をぶらつくと、自分がひどく無力に思えた。
 自分がのうのうと散歩をしている間、あの少年、ミスタは刑務所で望まぬ労働を強いられているのだと思うと胃が気持ち悪くて仕方なかった。仕事でも何でもいいから、何かに打ち込んでいないとついミスタのことを考えてしまう。自分のせいで助けてやれなかった前途ある少年のことを。
 そんな調子で項垂れていると、目の前の川や道路に身を投げてしまう気がして、ナマエはふるふると頭を振った。なんとかして時間を潰さないと気が狂ってしまう。重い足を引きずって店の並ぶ通りに行くと、大量の本を買い、映画のビデオを何本も借りた。
 ますます重くなった足をただ機械的に動かして帰路に着くと、自室の扉の前に誰かが座り込んでいた。目深にフードを被り、マフラーで顔を覆っているせいで年のころも髪の色も分からない。不審だ。

「……そこ、オレの部屋なんですけど、なにか?」

 抱え続けた本とビデオの重さに腕は悲鳴を上げていた。心の中でさっさとどいてくれと毒づきながら声をかけると、男ははっと立ち上がって「ナマエか?」と言った。どうやら部屋を間違えているわけでも、怪しい宗教や通信販売の訪問に来たわけでもないらしい。さてこんな知り合いはいただろうかと首を傾けかけたそのとき、男はさっとフードとマフラーを取りそのはつらつとした顔を表に出すと、

「オレだよ、ミスタだよ!」

 と言い放った。予想だにしなかった人物にナマエは一瞬思考が飛び、気づいたときには抱えていた本やビデオを一つ残らず落としてしまっていた。鳥の羽ばたきにも似た、ばさばさという大きな音がマンションの廊下に響き渡った。

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