昔よく遊んだやつがいた。今となっては顔もろくに思い出せないが、当時は毎日そいつと顔をつき合わせて絵を描いたりゲームをしたりしていた。互いに外へ出るより家の中で遊ぶ方が好きだったのだ。特に絵を描くのには相当夢中になっていた。とは言っても、実際に描いていたのは向こうだけで、こっちは林で捕まえたカブトムシや夏祭りの金魚をあいつの前にどんと置いて、本物そっくりの鉛筆画ができあがっていくのをじっと眺めていただけだ。動いているものを描くのは難しいと渋られてからは、本棚で埃を被っていた動物図鑑を引っ張りだして、端から模写をねだっていた。のりくん今日はこれ描いて。えー? これこないだも描いたよ? 口では迷惑がりながらも、その顔はいつだって満更でもなさそうに紅潮していた。だってのりくん絵上手なんだもん。のりくん。記憶の中ではいつもそう呼んでいた。物心ついてから転校する小学二年生までの、幼い記憶だ。

「のりくん? “のり”のつく名前っていったら、典明くんかなあ。ほら、ここ」
 二十二歳の夏、同窓会の葉書の“出席”に丸をつけて投函した。当日、懐かしい校舎に出向いて人だかりを見つけた瞬間、それまで眠っていた記憶が次々と蘇ってきた。背丈も体つきもすっかり変わっているのに、顔立ちだけがみんな子供のままのように感じて、妙な気分だった。
 さっそく仲のよかったやつに彼のことを尋ねてみるも、おとなしい性格だったせいか覚えている者はおらず、幹事の持っていた生徒名簿でやっと氏名を確認できた。花京院典明。そういえばそんな名前だったかもしれない。
「今日、来る? もう来た?」
「あー……典明くんは来ないよ。高校のとき、事故で亡くなったって」
 え、と喉が詰まる。言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。理解してからも、実感が湧くのにまたしばらくかかった。そうか、死んだのか。
 考えてみれば同級生の一人が事故に遭ったってなんら不自然じゃあない。残念だが、そういうこともある――などと冷静ぶってみてもどこか上の空になり、気づいたらスコップを渡されて汗だくになりながら校庭の隅を掘っていた。卒業時にタイムカプセルを埋めたらしい。
 おれ途中で転校したからタイムカプセル何も入れてねーよ。言ったことには言ったが細かいことは気にするなと笑われて、結局最後まで土を掘り起こすはめになった。
「おーい田中ァ! ラブレター入ってんぞー!」
 隣の男がそう叫ぶと、顔を真っ赤にした田中らしい男が慌てて手紙をひったくる。タイムカプセルは当時にしてはいいものを購入したらしく、保存状態はかなりよかった。古びた写真や未来の自分へ宛てた手紙をひとしきり懐かしむ同級生を眺めつつ、既に筋肉痛になってきた二の腕をさする。お前、手紙なんて書いてあった? と聞いてくるやつにだからおれ二年のときに転校したから入れてないんだって、と三度目の説明をしていると、幹事の男からちょっとと手招きされて、少し離れた木陰に連れていかれた。
「あのさ、悪いんだけど……これ、持っててくれないか」
 渡されたのは白い封筒だった。みんなが開封してやいのやいの言っている、将来の自分への手紙だ。おれは卒業する前に転校して、と四度目の説明をするために口を開くと、幹事はそれは分かっていると手紙をひっくり返してその宛名を見せた。
「押し付けるようで本当悪いんだけど、お前が一番仲よかったと思うから」
 何の変哲もない白い封筒が、やけに目に焼きついた。
 すぐさま開けて中を暴いてしまいたい気持ちも少なからずあったが、それよりも皺ひとつない清廉な封筒を破ってしまうのがひどく背徳的に思えて、結局鞄に仕舞いこんだままその後の食事会に参加した。二次会にも行ったが、鞄の中の封筒が気になって身が入らず、途中でこっそり抜けて安ホテルに帰った。

 翌朝目が覚めてすぐ、電話帳で花京院の家を探した。それらしい家名はあったものの掛けても繋がらず、おぼろげな記憶だけを頼りに昔自分が住んでいたマンションを探した。マンションは潰れて駐車場になっていた。そこから記憶を搾り出して花京院の家を探したが、結局迷子になりかけただけで、収穫はなかった。
 家の中で大人しく遊んでいる方が好きな子供同士、思い出は常に家の中にあったのだ。少しは外で駆け回っていれば何か思い出すこともあったのかもしれないと、今更思っても仕方のないことを胸に、駅のホームで時間を潰す。
 やっときた特急列車の座席に沈み込むと、外付けのベンチとは全く違う座面の柔らかさにどっと疲労が押し寄せてきて、深々と息をついた。鞄からCDプレイヤーを取り出し、過ぎ行く景色を眺めながらお気に入りの曲を聞き流す。
 日が落ちて眠気がきたところで、プレイヤーを鞄に仕舞おうとすると、入れっぱなしにしていた白い封筒が目についた。眠気でぼんやりしていたせいなのか、改めて見てみるとそこまで大切に仕舞いこんでおくようなものでもないような気がした。躊躇せずに端を破いて、封を開ける。
 手紙は何通も入っていた。それぞれ違う便箋を使ったらしく、大きさの違う紙が二つ折りにされている。それを開いてみると、幼い子供の字で、ナマエくんへ、と書き出してあった。
 自分の名前が目に飛び込んできたことで、眠気がぱちんと弾けた。しかし肝心の中身はこうだった。
“ナマエくんへ。ずかんごめんなさい。またあそんでください。かきょういんのりあき”
 意図がつかめないまま、二枚目を捲る。それもまた幼い鉛筆書きの字だったが、今度はところどころに漢字が混じっていた。”ナマエくんへ。図かんごめんなさい。また遊んでください。”
 三枚目も、四枚目も。字は次第に形が整ってきて、漢字も増え、文章も長くなっていったが、内容は変わらず同じだ。“図鑑ごめんなさい。また遊んでください。”
 額に嫌な汗がにじむ。胸の奥がざわざわしていた。震える指先で一枚捲る。六枚目の便箋だ。

ナマエくんへ。
お元気ですか? 僕は元気です。小さいころ、一緒に遊んでくれてありがとう。とても楽しかったです。
昔、ナマエくんから借りていた動物図鑑、覚えていますか。あのときなくしたと言ったけれど、本当は、紅茶をこぼして汚してしまったんだ。ごめんなさい。古い図鑑だったから本屋で探しても見つからなくて、素直に言えばよかったのに、僕は嫌われたくなくて君に嘘をつきました。
でも結局喧嘩になって、絶交してしまったね。
本当にごめん。
これを読んだら、僕の家に取りに来てください。汚れてしまったけど、一生懸命きれいにしました。あれから絵が上達したので、昔は上手く描けなかった生きているカブトムシや金魚もちゃんと描けます。許してもらえるとは思わないけど、何でも描きます。だから、

 手紙はそこで終わっていた。慌てて捲ったが、始めに見た幼い文字の便箋があるだけだった。それが最後の一枚だった。
 しばらく呆然としていたが、手紙を眺めていたら急にカッとなって、感情のままに前の座席へ便箋を投げつけた。何枚もの紙がバラバラと床に落ちる。誰もいないガラガラの車内で、その程度の音がいやに大きく響いた。
 苛立ちに任せたあとは、途端に虚しさが押し寄せてきた。体を丸めて、頭を抱える。
 動物図鑑をなくされたことなんて忘れていた。喧嘩をしたことも、絶交したことだって記憶にない。楽しかったころのことしか覚えていなかった。けれど向こうは違ったのだ。こっちが転校してから何年も、ずっと覚えていた。
 馬鹿だ。電話でも何でもしてさっさと謝ってくればよかったのに。昔は上手く描けなかったって? 昔から大人が描いたみたいに上手かったくせに。第一、動物図鑑なんて典明と仲良くなる前は本棚の肥やしになっていて、好きでもなんでもなかったのに。どう考えたってあいつの方が大事なのに。
 どうして喧嘩したのか、絶交なんてしてしまったのか、全く思い出せないのがひどく腹立たしかった。それに、どうしてあいつが手紙を出さなかったのかも。出してくれたらよかったのに。出してくれたら、すぐに、会いに行ったのに。仲直りできたのに。
 静かな車内でどこにもぶつけられない遣る瀬無さを抱えたまま、濡れた瞼から一粒だけ涙を零して、二十二の夏は過ぎていった。

 あれから夏が来るたび花京院の家を探しているが、未だに見つけられていない。けれど、見つからない方がいいのかもしれない。今更何をしたところで当時の自分にこの手紙が届くわけではないし、花京院に謝れるわけでも、途中で終わった手紙の続きを聞けるわけでもない。
 それに、紅茶で汚れてしまったという動物図鑑を、自分で見つけたくないから。花京院の手で返してほしいと、叶わぬ願いを抱える今となっては、見つからない方がきっといい。

 馬鹿だな。出せなかった手紙を土の中に埋めるなんて。本当に馬鹿だ。馬鹿なやつ。花京院典明。大切な友達だったのに。


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