黒く濁った小川の泥臭さが鼻についたのか、プロシュートがしかめ面で鼻をすんと鳴らした。予定の時刻まであと十六分四十秒。木々が鬱蒼と生い茂る暗い森の中に二人はいた。いつ架けられたのかも分からない古びた橋の上、プロシュートは手すりに肘をついて暇を持て余している。アーリオはその隣で手の中の懐中時計を頼りに外の様子を想像していた。
 予定通りなら、ちょうど使用人に抱えられてリノリウムの廊下を進んでいるころだろう。外の様子が全く見えないというのはなかなかに博打だが、その点今回はさほど警戒する必要もない。ターゲットが美術品に目のない人間なのがよかった。社交パーティで適当にゴマをすり、お近づきのしるしにと送った一枚目のルノワールは数々の警備をあっさり通過して主の元にたどり着いた。レプリカでも、いっそ贋作でも一向に構わないと豪語する彼の大雑把な価値観が幸いした。最も、彼にとっては“災いした”のだろうが。今回のミレイが二枚目で、そして最後の貢物だ。
 あと、十五分二十八秒。風のない静かな森の中で、かすかな歌声とアーリオの時計の音だけが聞こえている。ふと、自分の時計の音がしていないのに気づいたプロシュートが訝しげに手首を見た。次いで小さな舌打ちが耳に入る。プロシュートが止まってしまった時計を小川に投げ捨ててしまう前に、アーリオは口を開いた。

「大丈夫、壊れたわけじゃない……外に出れば元に戻るよ。ただ、ここでは少し新しすぎるんだ。十五世紀だからね」

 この空間で機能しなくなったことから察するに、プロシュートの腕時計はクォーツ式のものだったのだろう。完全な機械仕掛けの――ホルマジオに言わせれば、時代遅れの――ネジ巻き式なら辛うじて動いたかもしれないが、そんな新しい技術が使われているものは論外だ。

「……テメェのスタンドのせいだってのは分かったが、どうしてそっちは動いてる?オレのがダメで、お前のがいい理由は?」

「言っただろ?十五世紀なんだ」

 時代遅れのアンティークは手の中で鈍く光る。胸元に括った金色のチェーンは新しいものだが、時計本体は相当昔のものだ。それこそこの空間と同じ年代かもしれない。
 アーリオとプロシュートが今いるのは、十五世紀の小さな森だ。正確な年代はアーリオの知るところではないが、腕時計が出来たのは少なくともここより三世紀は後のことで、もちろんクォーツなど使われていない。プロシュートの時計は時代に見合っていないのだ。
 手すりに背を預けるようにして空を仰いだプロシュートに倣って、アーリオも頬杖をついた。弱々しい歌声に耳をそばだてる。ほんの少し身を捩っただけでも消えてしまいそうな印象を与えておきながら、祈りの歌は途切れることなく延々と続いてる。俗世の何もかもを手放したような艶のない歌声はとても寂しく痛ましい。清純な教会で聴いたら不気味に感じるだろうが、この暗い森の中で聴くその歌は雲間から漏れ出る光の帯のような美しさがあった。

「胸糞悪ィとこに入れやがって」

 突然、プロシュートの冷めた視線に水を差された。これ以上なく不愉快だ、と顔に書いてある。再び鼻をすんと鳴らして、プロシュートは耐えかねたように胸元からタバコを取り出した。

「そりゃ、悪かったね。でもこれくらいなら街中のゴミ箱の臭いよりマシだと思うけど」

「臭い?違う、そうじゃねえよ。……あの女だ」

 手馴れた動作でタバコに火を点けて、プロシュートは忌々しげに顎で前をしゃくった。

「あの女が気に入らねえ」

 眇めた視線の先には、若い女がいた。黒く濁った小川の水面に力なく横たわるようにして浮かんでいる。否、沈みかけている。愛らしい顔立ちだったろうにその頬は血の気が失せ、色味のない唇はだらしなく開き、命の灯火が消えかかっている。その唇がわずかにぼそぼそと動いて、この歌声を紡いでいるのだ。

「あの女は何だ? どうしてあんなになってる?」

「……そんなに詳しくは知らないけどね……父親を殺されて気を違った娘だよ」

 沈みゆく彼女は人魚のようだったと称されたが、人魚ならば水に溺れるはずがないのだからよくよく考えればおかしな話だ。ただ、咄嗟に人魚のようだったと思ってしまったのも分からなくはない。彼女は到底、健常な人間ではない。見た目もそうなら中身もそうだ。

「あれだけ狂ったら、死んだも同然だろうな。心が死んでしまっている」

 片手に持った花輪が解け、花々が体に寄り添うようにして苔や水草と共に水面を漂っている。イラクサ、雛菊、紫蘭――とりとめのない選択は何も考えていなかったのかもしれないし、ただ色が多ければいいだろうと思っただけかもしれない。しかし人魚のようになってしまった彼女の花輪なのだから、心を病んで常軌を逸した結果なのだろう。柳の枝から落ちても成すがままで、泥に沈みつつあってもなお祈りの歌を口ずさみ続けるような異常さが花輪作りにも現れた。周りの花を手当たり次第に摘み取ったような無秩序な彩りは、アーリオにそんな印象を与えた。

「そうだ、心が死んでる……ああいうやつがな、オレは一番気にいらねえ。体にまだ生きる余地があるってのに、無駄にしやがって」

「そう言うなよ。彼女は彼女で大変だったんだろ。それに、若く美しい乙女が死の淵にいるっていうのがいいんだ、これは」

 プロシュートは嘲るようにハッと哂って、タバコを深く吸い込んだ。重く吐き出された白い煙が、暗い森の中で霧のように散って消える。

「あんな張りのある瑞々しい体が死体になって、それで何が美しい?おかしいだろうが。死体ってのは、痛んでこそだ。皺と染みと傷にまみれてこそだ……迫り来る死に足掻いた結果が死体なんだよ。あいつの心臓はまだ動いてる……足もあれば指もある、血も巡る……そんな体に、死ぬ資格なんざねえ」

 言葉を重ねるごとにプロシュートの表情は険しさを増していった。苛立ち混じりに橋の手すりにタバコを押し付けて火を消している。それを見咎めて、アーリオはそっと携帯灰皿を差し出した。不意を突かれたように怪訝な顔をするプロシュートに、美術品に吸殻を落とされたら困るのだと言い含める。実際には吸殻一つ放られたところで何も変わりはしないが、それでも不干渉にこだわるのは敬意を持っているからだ。あらゆる額縁の中の世界に、アーリオは純然たる敬意を持っている。

「安心しなよ。彼女はまだ生きてる」

「……でも、死ぬんだろ」

「そういう場面だ。でも、死に掛けてるっていうのは、生きてるってことだよ。辛うじてね」

 心臓の律動を生死の基準とするなら、彼女は間違いなく生きている。柳の木から足を踏み外して小川に転落したオフィーリアの、今際の際が永遠に続くこの世界で、彼女が死に絶えることはない。泥の中に沈みきることもなければ歌が止まることもなく、ただこうして人魚のように死にかけている。

「心が死んでんのに生きてるもクソもあるかよ」

 あと、四分十二秒。ターゲットは毎日十五分間だけ自分のコレクションを眺めて過ごす。美術品が傷まないよう、湿度と温度を徹底的に管理された気密性の高い観賞部屋で。その直前を見計らって届けさせたこの絵は、今ちょうどそこに飾られているはずだ。そしてあと四分経ったら、ターゲットが部屋に入ってくる。どちらが息の根を止めるかは決めていなかったが、不機嫌な様子のプロシュートに任せてしまおうと決めた。日ごろ悠然としている彼が珍しく苛立ちをあらわにして、まるで眼鏡の男のようにぶつぶつと文句を言っているのは興味深かったが、帰り道までしかめっ面でいられるとアーリオも居心地が悪いのだ。

「あと二分半……死体はどうするんだっけ?」

「ちゃんと頭に入れとけよ。穏便に、だ。派手すぎなけりゃそれでいい」

「あいつのコレクション、結構いい感じなんだよね……散々自慢されてさ。一枚か二枚持って帰ったらダメかな」

「勝手にしろよ。ほら、行くぞ」

「待って、あと三十秒だけ」

 あと、二分。アーリオは黒い小川に沈みゆく歌姫の姿を網膜に焼き付ける。レプリカでも、いっそ贋作でも構わないというターゲットの意見には賛成だ。圧倒的な美しさの前では、絵画の真贋など取るに足らない。しばらく沈黙したのち、再びプロシュートに急かされて名残惜しさを堪えながら橋を後にする。小川の傍らで宙に浮いた金の額縁に手をかけた。もう一度時計に目を落とすと、あと十秒。

「もったいねえ」

 最後の最後に、プロシュートが寂しげに人魚を振り返って言った。

オフィーリア


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