ミシェルがその人と出会ったのは、まだ雪の残る五月のことだった。 フランスはロレーヌにそびえる山の頂。いつものようにかじかむ手を擦りながら小屋を出て離れの井戸から水を汲み上げていたミシェルは、小道の遠く向こうから人が歩いてきているのに気づいた。日が昇る前で辺りは薄暗く、その人の身なりも性別も分からなかったが、自分が住んでいる小屋を目指しているらしいことは確かだった。 急いで井戸の水をタンクに注ぎ、ついでに顔を軽く洗うと、ミシェルはそれを父に伝えるべく小屋に戻り寝室のドアを叩いた。 「父さん、父さん起きて。お客さんが来るよ」 「……今日の客など、聞いていない」 「でも、すぐそこまで来てるんだよ。窓から見てみて」 突然起こされて不機嫌に眉間の皺を深く刻んだ父親は、怪訝な様子で立ち上がると、窓ガラスの曇りを手の平で擦って外を覗きこんだ。ミシェルも同じように窓を擦って外を見る。客人はすぐ傍まで来ていた。このままならあと五分もしないうちに小屋にたどり着くだろう。 「下の連中め、また連絡をし忘れたな」 父親は険しい顔で毒づいて、客人を迎える準備を始めた。 下の連中とは、登山者を管理する役所の人間のことだ。この山を登ってくる全ての登山者は役所に届けを出し、それを受け取った役所がこの小屋に宿泊者の人数を連絡する手筈になっている。 しかし、この山小屋はかなり険しい山道の果てにあるために、あまり客人が来ることはない。大抵が山の中腹にある別の小屋で夜を越して下山していくのだ。こちらには月に二人でも来れば多いほうで、そのうち連絡の来ない客人と言えば半年に一人いるかいないか。 「おい、何してる。お前も自分の仕事をやれ」 客人の歩みをじっと見詰めていたミシェルに父親が冷たく言った。ミシェルは足元に置いたままにしていたタンクを抱えると、キッチンへ急いだ。この山の湧き水はきれいだが、客人に出す料理や飲み物に使う水は全て一度沸かさなければならない。最近の客人がみな衛生に気を使うためだ。 ヤカンに水を注ぎコンロに火を点けていると、とうとう小屋のドアがノックする音が聞こえた。こんな朝早く、連絡もないとは一体どんな客なのだろう――ミシェルはドアの方に顔を向けかけたが、それを目ざとく見咎めた父親に睨み付けられて客人のことが気になりながらも大人しく朝食の準備に取り掛かった。 食材の残りは心許なかったが、ここまで汗水垂らして登ってきた客人を持て成さないわけにはいかない。しかしだからといって、客人ばかり持て成して自分たちの食い扶持をなくすわけにもいかない。どうしたらいいだろうかと少し考えて、ミシェルは小麦粉や卵を多めに使って量を増そうと決めた。 さっそく離れで飼っている鶏の卵を取りに行こうとリビングへ入ると、件の客人が奥のテーブルで父と何か話している。気難しい父にしては珍しく会話が続いているようで、ミシェルは驚き半分、興味半分で客人をちらりと見た。客人は背が高く、輝くようなゴールデンブロンドの髪が褪せた茶色ばかりの山小屋の中でとても鮮やかだった。 こっそり盗み見ていたはずが、次の瞬間パチリと目が合う。ミシェルは慌てて目を逸らし外へ出ると、小走りで離れに向かった。 小石がぶつかり合うようなザラザラという音を聞きながら、麻袋の中身を餌箱に注ぐ。途端に集まってきた鶏を踏まないように気をつけながら餌箱を離れると、ミシェルは鶏たちがいつもより早い朝食に夢中になっている隙に今朝の卵を拾い集めた。卵を産む鶏は六羽で、産まれた卵も六個。小屋の食料庫に昨日の分の卵が二個残っているから、客人が朝昼晩と三回食べていくとしてもこれでなんとかなるだろう。 少しべたついた卵に張り付いた藁の切れ端を手で払っていると、後ろから「やあ」と声を掛けられて、ミシェルは肩を揺らした。 「驚かせてしまったかな」 「……いいえ、大丈夫です」 本当は驚きのあまり卵を一つ取り落としそうになっていたが、ミシェルは済ました顔で取り繕った。 「父とのお話は、もうよいのですか」 恐る恐る客人の顔を見上げると、鮮やかなブロンドは厚手のコートのフードの下に隠れてしまっていた。丁度眉のあたりまですっぽりと客人の頭を覆っている。先ほどは髪にばかり目が行っていたが、こうして見てみると客人は目鼻立ちがよく、男臭さのない色気のある雰囲気を持っていた。 「後でまた、付き合ってもらうよ。それより、こっちの方が気になってね」 「……この通り、ここには鶏しかおりませんが」 「いやだな。君がいるじゃないか」 そう言って柔和に微笑んだ客人の顔から、ミシェルは目を逸らした。客人が面白そうにくつくつと笑う。 「恥ずかしがらなくても。さっき、目が合ったなと思ってね。話をしたくなったんだ」 「すみません、盗み見るような真似をして」 「そんな。実を言うと、私も君を盗み見ていた。キッチンにいるときと、さっきそこの井戸で水を汲んでいたときに」 客人は何でもないように言ったが、起き抜けで少し寝ぼけていた上に顔も洗っていないところを見られていたと知って、ミシェルは恥じ入った。気まずさに少し俯く。 「私のことを、じっと見ていたね」 「ええ、あの、薄暗くてよく見えなかったものですから、つい」 そう言って窓に視線を移すと、外はまだ薄暗かった。真夜中よりは明るく空が白んできていると言っても、夜明け前には変わりない。 「……僕が見ていたと、よくお分かりになりましたね。僕は、見えなかったのに」 ミシェルからよく見えなかったのなら、客人からも見えなかったはずだった。今はそのボタンの形さえ視認できるコートも、あのときは外套なのか雨着なのかさえはっきりしなかった。それなのに、客人はミシェルの顔や瞳が自分へ向いていることに気づいていたという。 「私は、夜目が利くのだよ」 客人は口元に笑みを浮かべる。そういうものだろうかと独りごちていると、鶏に足をつつかれてミシェルは飛び上がった。話しているうちに餌を食べ終わり自分の巣から卵が消えてしまったのに気づいた鶏たちが、卵を返せとばかりにミシェルの足に群がる。 「おいで」 客人がミシェルの背を手で軽く押し出し、鶏たちが外へ出る前に素早く小屋の戸を閉じる。ミシェルが礼を言うと、客人は目を細めて笑いかけた。 「どういたしまして」 近い距離で背が高い客人の顔を見ようとすると、自然と見上げる形になる。フードの影から覗く瞳は、よく手入れされた赤いバラのような色だった。 |