「私と来なさい。父上の隣に立たせてあげよう」
五歳のとき、初めて教会の鐘楼が鳴る時間に立ち会った。鐘は振り切れて空へ飛び出しそうなくらい勢いよく左右に揺れ、幾重にも追いつ追われつ鳴り響いた音は鐘が止まってからも空や広場の石畳に反響し、何より人々の耳にこびりついて離れない。
ミシェルはそのときのことをぼうっと思い出していた。全く同じことが頭の中で起こっている。夕食はとっくに終わり、その皿をも片付け終わったというのに、未だDIOの言葉の一つ一つに心を奪われていた。
少し一人で考えてみろと、DIOはそう言い残して夜の山へ出て行った。また星を見に行ったのだろう。
ミシェルは手持ち無沙汰にリビングをうろついて暇を潰す。ソファに座る気にはなれなかった。時計の針が進む音に焦燥を煽り立てられ、まるでぐずぐずするなと責め立てられているような気分に陥る。そう感じるのは自分でも十分に分かっているからだろう。DIOとの話について父親と話し合わなければならないということを。
「…………父さん」
ギイ、と錆びた蝶番が音を立てた。数秒前にノックはしたが返事はなく、ミシェルはそう声をかけながら父親の寝室に立ち入る。
父親はミシェルに背を向けて、ベッド脇のデスクに座っていた。息が詰まるような沈黙の中で、ミシェルは父親が振り向いてくれないかと淡い期待をかける。しかししばらくそうして待っていたところで何にもならないと気づき、気まずさを抑えながら平静を装って口火を切った。
「あの……さっきはごめんなさい。食事のときにする話じゃなかった……僕、少し浮かれてたんだ。街に下りることなんて滅多にないから、つい……」
「……オレがいない間、どうだった」
「え?……別に、普通だったよ……仕事して、花壇をいじって……あとは、DIOさまに話をしてもらった。外国のこととか。ほら、DIOさまはいろんなところに旅をしてる人だから……」
嘘はついていなかったが、全てを話してもいなかった。DIOと話した中で一番心に残っているのは外国のおかしな風習や美味しい料理の話でなく『自分が何を望んでいるか』ということだ。
街へ下りたいかどうか。何をしたいかどうか
「DIOさまはイギリス人だって言ってたけど、話してくれるのはイギリスより他の国のことの方が多いんだ……フランスの南の方の話も聞いたよ。一番遠いところだとロット=エ=ガロンヌに行ったんだって。父さん行ったことある?」
「いや」
「そうだよね、すごく遠いもの……ここは山だから比べ物にならないけど、下の街と比べたらずっと暖かいんだって。ワインもおいしいって言ってた」
「お前は……旅人を話を聞くのが好きだな。外の話が好きか」
「……好きか嫌いかで言ったら、好きだよ」
「お前は…………お前は、街へ下りたいのか」
ぎくりとした。そして、口先で誤魔化そうとしても父親はとっくに見透かしているのだと知ってしまった。
今の生活が嫌いなわけではない。ただ、強い憧れがあるのだ。煌びやかな街の光に、行き交う人々の多さに、どうしようもなく強く惹かれてしまうのだ。しかしそれが、父親への裏切りに思えて仕方なかった。ミシェルは俯いて言いよどむ。
しかし不意に、ミシェルの脳裏にDIOの言葉が蘇った。
暗く重苦しい雲が裂けて、明るい光が差し込んだような気がした。DIOの導きは正しい。
どちらか一方にしか身を寄せることができないなどと誰が言ったのだろう。誰も言っていなかった。ミシェルがそう思い込んでいただけなのだ。
街へ下りたいのか。そう問うた父親に、ミシェルは「そうかもしれない」と答えた。
「あのね、父さん、さっきDIOさまと話したんだ。数ヶ月でいいから、外へ行く許しをちょうだい。絶対無駄にはならないよ。数ヵ月後、僕は違う人間になるんだ……変わるんだ。そうすれば絶対、全部良くなる。きっと良くなるよ。DIOさまにはご迷惑をかけるかもしれないけど、そう言ったら、屋敷で奉公すればいいって仰ったんだ。僕は使用人として少しの間働くよ。それで、変わってからここに帰ってくるんだ。ねえ、どうかな、父さん……」
浮かれた口調になって勘違いされないようにとなるべく声を落ち着かせていたが、それでも心の軽さが滲み出てしまっているのが自分でも分かった。
「あ、あのね、僕別に父さんを
「わかった、行け」
裏切るわけではないし、小屋から出て行くというわけではないのだと釈明しようとしたところだった。父親は依然デスクに向かったまま、低い声で言う。
「行け。どこにでも行ってしまえ。帰ってこなくていい。ここにお前がいなくても、オレは一人で生きていける」
「待って、違う、そうじゃないんだよ。父さんを置いていくわけじゃないんだ、ただ少しだけ時間をくれれば
「もう寝ろ。荷物をまとめてな。客人は明日帰るんだ、一緒に出て行けばいい」
父親はもう何も話すことはないとばかりにデスクから立ち上がり、ゆっくりとミシェルに振り返る。その顔からは何も読み取れなかった。悲観に暮れているわけでも、喜んでいるわけでもない。平然とした表情だった。
リビングへとぼとぼと戻ってソファに座り込み、ミシェルは唇を噛み締めた。わからずや
しかしそれでも決意は固まった。DIOの提案は道理に適っている。多少の不安はあれど、その事実がミシェルの背を押した。
DIOと共に山を下り、そしてスタンド使いというものになろう。世界のほんの一欠けらを見て回って、少しだけ成長してこの山小屋に戻ってこよう。そうして互いに慈しみ合い、理解し合い、親子で仲良く暮らしていく。
星を見に外へ出ていたDIOが帰ってきたのは日付を跨いだころだった。とっくに寝静まっているはずのミシェルがリビングにいることに、DIOはそれほど驚いた様子はなかった。全て分かっていたのか、それとも単に思い込みが全くなく現状を瞬時に悟ることができるのか、図ることはできない。
ミシェルは自分の決意を伝え、DIOはそれを聞いて穏やかな笑みを返す。
「よく決断したね。並大抵のことじゃない……しかし君は正しい道を選んだ。少なくとも私はそう信じているよ。明日、私と一緒にここを下りよう」
「……お世話になります」
「……何かあったか?」
「いえ、少し父と……ほんの少し……」
「……心配するな。父上も、本当は君を分かってくれている……ただ、ぽっと出の旅人に愛息子を攫われるのが複雑なんだ。親だからね」
DIOは外気にさらされて冷たくなった手でミシェルの頭を軽く撫でる。はい、と頷き、ミシェルは身を任せるように瞼を瞑った。
翌朝、ミシェルは最後の井戸汲みに行き、鶏に餌をやり、花壇の様子を見て回った。やっと芽を出し始めたばかりのものもあれば、小さな蕾がついているものもある。
どれくらいの期間小屋を空けるのかはっきりとは分かっていなかったが、恐らく今年の開花には間に合わないだろうと思い丹念に最後の世話をしてやった。父親は花の世話をしたことがない。あるとしてもミシェルが風邪を引いたときの数日水をやった程度だ。帰ってきたときには枯れてしまっているかもしれない。
人付き合いの下手な父親。客人とろくな話もできず、常に険しい表情を崩さない気難しい父親。決して悪い人ではないがそのスタンドによる幾何と強固な殻のせいで勘違いされてばかりいる。
もし花壇のものが全て枯れ草になってしまったら、人はますます父親から遠ざかっていくだろう。
岩と土ばかりで少しの瑞々しさもない山小屋の周囲は、愛想のない父親の姿によく似ている。それでもミシェルが植えれば花は咲き、夜になれば満天の星空を仰ぎ見ることができる。星を見ようと山に登ってきた人でさえ、父親に対しては岩肌ばかり見て暗くつまらない人だと早合点する。
父親の代わりに愛想をふりまくのがミシェルの役目だった。花を植え、話を聞き、必要とあれば夜空に浮かぶ星々を指差し星座を教える。それでなんとか客人と父親との間に割り込み、父親の人当たりの悪さを目立たないようにしてきた。子供と言う立場でありながら、父親を庇護しているつもりでさえあったのだ。
しかしそれもしばらくは休業だ。次の客人と父親との間に衝立てはない。
どうか、できるだけ長く花を咲かせておいてほしい。世話をする人がいなくても、自分が帰ってくるまでは、独りでに花を咲かせて客人の気を父親から逸らせてほしい。ミシェルは芽と蕾に願い、神に祈った。
出立の二時間ほど前にミシェルは目を覚ました。夜通し歩いて山を下りていくために、早朝の花の世話からすぐ寝室に戻りそれまでずっと眠り続けていたのだ。
荷物はもう用意できていた。衣服とお気に入りの本、そして数年前に一度だけ父親と撮った写真をタオルに包んで詰め、空いたスペースには下山に必要な道具と飲み水、食糧を入れた。
出来上がった荷物を見てミシェルは苦笑する。自分のことながらあまりに質素だと思ったのだ。
この山小屋へ来る登山家ですらもう少し無駄なものを持ってくる。暇な時に遊ぶトランプ、日記帳と筆記具、携帯ラジオ、首から提げた一眼レフのカメラ
最後にもう一度だけ何か必要なものがないか部屋を見渡して、ミシェルは寝室を出る。父親とDIOはリビングに揃っていた。
「準備はいいか?」
「はい」
「じゃあ、少し話してから来るといい。少しの間だが、別れは別れだ」
DIOは外套のフードを目深に被り直すと、一足先に外へ出て行った。
ミシェルは父親の顔を恐る恐る見上げる。眉間に皺が寄っているのはいつものことだが、ほんの少しだけ、いつもより険しい顔をしているように見えた。
「……あの、花壇のことだけど。世話はできなくてもいいから、もしよかったら、たまに水やりをしてやって」
「………………」
「あと、あの、僕が作る料理のレシピ、父さんが知らないやつだけ書いておいたんだ……はい、これ」
「………………」
「えっと、じゃあ、ここに置いておくから……あと、もしお客さんに星座を聞かれたら、僕の部屋に行って。本棚に星座の本があるから」
「………………」
「父さん、僕、ちゃんとやるからね」
「………………」
「行ってくるね。手紙を書くよ。じゃあね」
父親は最後に一言だけ「ああ」と小さく頷いた。