結局ほとんど眠れないまま、ミシェルは朝を迎えた。
夜中はあれほど目が冴えて仕方なかったのに、空が白むと急に眠気がやってくる。遅すぎる睡魔への恨めしさともう少しベッドの中でまどろんでいたい気持ちを抱えながら、それでもいつものように外へ出て井戸の水を汲んだ。
いつもは何とも思わないタンクが妙に重く、ミシェルの歩みをふらつかせる。あともう少しで小屋に着くというところでとうとう膝がくだけて力が抜けた。あ、と思う間もなくタンクの重さにつられて身体が前に倒れる。
痛みと衝撃を覚悟したミシェルだったが、それは予想とは違う形で訪れた。突然腕を握られ、強い力で引っ張られたのだ。されるがままに引き寄せられ、弾力のある硬いものにぶつかる。
状況が飲み込めずに混乱しているミシェルの元に「大丈夫か?」と声が降ってかかり、はっと意識を取り戻した。
「す、すみません……ありがとうございます……」
寝不足でぼんやりと霞がかっていた頭が冴えていき、気恥ずかしさでしどろもどろになる。ミシェルはDIOに抱きとめられていた。
「あの、もう大丈夫です……」
僅かに持ち上げられているせいで踵の浮いた足のつま先を何とか地面に着ける。DIOは「おっと」とおどけてみせてからそっとミシェルから手を離した。
「ありがとうございました……DIOさま、どうして外に?」
「ああ、暇つぶしに鶏小屋を見て来たんだ……小屋に戻ろうと思ったら君が見えた。しかしどうにもふらふらと危なっかしかったから、これは転ぶなと踏んでね」
予想は見事に当たったわけだが、とDIOは続け、ミシェルは赤面する。
同年代の子供と比べれば大人びていて、そのせいで周囲からしっかり者の認識をされているミシェルにすればこうして客人にみっともないところを見られるのは気が落ち着かなくて仕方がなかった。しかもそれが自身が尊敬し始めているDIOともなれば尚更だ。
親切にされるのは心底嬉しいが、その切欠が自分の失態だと思うと素直に喜べない。そんな複雑な内心を察してか、DIOは自然な動作でミシェルの肩に手を置くと、優しく押し出して小屋へと向かわせた。
「鶏小屋も見終えたし、私はそろそろ寝るとするかな。父上はいつ帰ってくるんだ?」
「ええと……早ければ正午には着くと思いますが」
「……となると、朝食は君一人になる?」
「そうですね」
DIOは一瞬渋い顔で考え込んだかと思うと「それはよくないな」と言ってミシェルの顔を覗き込んだ。
「私も朝食の席に着いても?」
咲き誇った薔薇のような濃い赤に見つめられて息が詰まりそうになりながら、ミシェルはそれに頷く。
「もちろんです。何をお作りしましょうか?」
「じゃあ、紅茶を一杯」
「……紅茶ですか?」
思いも寄らぬリクエストにミシェルが戸惑っていると、DIOはこれまたごく自然に前へ出て小屋のドアを開けた。先に入ろうとはせず、ミシェルがドア枠を通り抜けるのを待っている。
ミシェルはにっこりと微笑んだDIOに恐縮しながらはにかみを返し、小屋に入るとDIOが持っていたタンクを受け取ってキッチンへ向かった。とりあえずとヤカンだけを火にかけて、リビングのソファへ腰を下ろして新聞を読んでいるDIOのところへ顔を出す。
「……本当に紅茶だけですか?」
「ああ」
「差し出がましいようですが、DIOさまと同じくらいの体格のお人はDIOさまの何倍もよく食べておられます。本当に朝食は紅茶だけですか?昼食もお食べにならないのに?」
DIOはちらりと紙面から視線を外してミシェルを見ると、ふっと目元を和らげた。
「食事の量など些細なことさ。私は人より少なくて済むんだ。それに君がこうして私の身を案じてくれているということが嬉しい。それだけで腹の足しになる……と言ったらくさいかな?とにかく、ありがとうミシェル」
「……いいえ、そんな……」
話しているうちに蒸気を溢れさせたヤカンが甲高い音で鳴き始める。ミシェルは慌ててキッチンへ戻ると、手早く、しかし一寸も手を抜かずに紅茶を淹れ、きっちりカップ一杯分だけを砂糖と共にDIOの元へ出した。
部屋中にふわりと香る紅茶の匂いにはじめDIOは気をよくしていた様子だったが、ミシェルの持つトレイの上にカップ以外何もないのを見ると不可思議そうに眉をひそめる。
「随分早いと思ったら、君の朝食がないじゃないか」
「ああ、はい、DIOさまはもうお休みになられるのでしょう?急いで用意しました」
DIOはふーっと長いため息をつくと、苦笑して読んでいた新聞を畳んだ。
「私は君と朝食の席に着きたいと言ったんだが」
「……それは、つまり……」
「つまり、君と一緒に朝の時間を過ごしたいということだよ。食事は独りでするものじゃない」
「……すみません、気が回らなくて……今すぐ用意します。少しだけ待っててください」
後ろから「急がなくていい」と返されたのも構わず、ミシェルは素早くキッチンへ引っ込んだ。戸棚から皿を取り出しながら途中でほっと息をつき、DIOの気遣いに人知れず笑みを零す。
DIOという人は誰にでもこうなのだろうか?一体どこまで優しいのだろう?どうしてこんなに気をかけてくれるのだろう?
パンを切る手が止まっているのにはっとしてミシェルはかぶりを振った。DIOは誰にでも手を差し伸べる人で、自分だけが特別ではない。それは彼と父とが話し込んでいた情景や彼自身の話からも明らかだった。しかし今こうしてDIOの好意を向けられているのが自分だということも紛れもない事実なのだ。それを思うとミシェルはどうしても笑みを堪え切れなかった。
パンと薄いハムの燻製、そして少しのチーズを持ってDIOの待つリビングへ向かう。トレイにはミシェルの朝食と一緒にティーポットも鎮座していた。
「もしよかったら、あとニ杯分一緒にいていただけたらと思って」
白い陶器を見てDIOは何か言いたげにしていたが、ミシェルが照れながらそう明かすと優しく微笑んで「もちろん」と向かいの席に座った。
DIOが客室で眠りについたあと、ミシェルは食器を洗い、客室以外の部屋を箒で掃き、洗濯物を洗い、昼時になると簡単なスープを作ってパンと一緒に食べた。
食べ終わってまた食器を洗い、花壇を整え、暇になっていつもは読まない新聞を捲り始めたが父親は一向に帰ってこない。
素人なら半日かかってしまうような山道でも、何十年と山小屋で生活をして幾度なく往復してきた父親なら四時間ほどで登って来れる。朝街で多少のんびり過ごしたとしてももう着いていいころだった。ミシェルはリビングの木のテーブルの上にべったりとうつ伏せになり、壁にかけた時計を眺める。三時ちょうどだった。
父親が帰ってきたのはそれから二時間半も経った夕暮れ時だった。あと少し遅かったら日が落ちて足元が見えなくなっていただろう。
散々心配していたミシェルは足音が聞こえるとすぐさま外へ飛び出して父親を出迎えた。
「おかえりなさい!遅かったね」
「……食料の調達に手間取ったんだ」
父親の声色は出かける前よりも沈んでいる。また街で謂れのない悪行を噂されたり陰口にさらされたりしたのかとミシェルは眉を下げたが、そんな息子の心配げな表情を意にも介さず父親は登山靴を脱ぎ捨てて荷物の中身をテーブルに出していく。
チーズや豚肉の燻製、そして何よりたくさんの新鮮な野菜が並べられてミシェルは「わあ」と声を漏らした。
「すごい……クリスマスでもこんなに買わないのに」
「……あの客は金払いがいいんだ。前金を貰ったからな」
「牛乳もある!これならシチューが作れるよ」
「シチューなんて作ったことないだろう」
「うん、でも先週作り方を教わったから大丈夫。配達屋のデュボワさんがいるでしょう。あの人が教えてくれたんだ」
ミシェルはしばらく夕食に何を作ろうかとはしゃいでいたが、次第に重苦しい沈黙を背後に感じて父親を振り返った。眉を寄せて、何か思い悩んだように黙している。
「……父さん?どうしたの?」
「お前は…………」
父親は何度か口を開きかけたが、結局その続きを言わないまま「夕食の準備を」とだけ言って自室に引きこもってしまった。
ミシェルは食材を貯蔵庫へ仕舞いながら父親が言いかけた言葉がなんだったのかと思案する。しかし何か言いかけたならまだしも、すぐさま口を閉ざしてしまった父親の意図を手繰る術はなく、何も分からないまま食材を少しずつ使って簡素な