始めは、確か一枚のプリントからだった。
03 スタンバイミー
二月も半ばのころ、急に母親の単身赴任が決まり、北沢家はてんやわんやだった。
母子二人の母子家庭。母が赴任先の九州に行ってしまえば、千昭は一人になってしまう。
千昭が単身赴任について行くか行かないか、母と息子だけの家族会議が開かれ、
「オレ残るよ。転入面倒くさいし」
という千昭の一言で終わった。
もとより千昭に家事をほとんど任せっきりだった母親は、今更千昭の一人暮らしを心配することもなく、仕送りはするけど節約してね、とだけ言い残して九州へ発ったのだった。
「はい、じゃあ昨日のプリント後ろから回収して」
授業終わりに回収してくれればいいのにー、なんて誰かが文句を言う声に心の中で賛同しながら、鞄の中に手を入れる。
がさごそと鞄をまさぐるが、手は空振りばかり。まさか、と思って中を覗くと、案の定、プリントの入ったクリアファイルがなかった。
あーあ。小さくため息をついて、後ろから回ってきたプリントをそのまま前に送る。確かに入れたと思ったのにな。
机の横にかけたスクールバッグをもう一度覗きこむが、やはり、ないものはない。
顔を上げたら、一部始終を見ていたらしい先生と目が合ったので、とりあえずへらりと笑っておいた。
次の日の昼休み。昼食を食べようと思って鞄に手を入れるも弁当の包みがなかった。仕方ないので購買に走る。
その日の夜、予習をしようと思ったが現文の教科書がなかった。次の日学校でも探したがなかったので隣のクラスに借りに行った。
その次の日の放課後。クラスメートに借りたゲームソフトを返すつもりで持ってきたはずが見つからず。二週間探してなかったら弁償すると約束した。
その週の末日、親戚の女の子からもらったバレンタインの義理チョコがなくなる。一口も食べていなかったのでへこむ。
今週。筆箱と、英語、数学、化学、世界史の教科書がなくなる。最初になくした現文も見つからないので一式買い直した。
そして今日、制服の内ポケットに入っているはずの鍵がなくなった。
始めは慣れない一人暮らしの疲れが出ているのかと思ったが、どうもおかしい。鞄やポケットに入れたことを確認したあと、一度も外に出していないものまでがなくなっているのだ。
まさか泥棒? と勘ぐるがすぐに思い直す。教科書やゲームソフトはまだしも、他人の弁当なんて盗んでどうする。
とにもかくにも、鍵をなくしたのはやばい。確か鍵の交換は住民負担だったはず。
とりあえず大家さんに事情を説明して、スペアキーを借りると、申し訳ないけど、鍵は交換させてもらうわね、と鍵屋のパンフレットを渡された。
価格表をざっと眺めて、う、っと唸る。なかなかの出費だ。節約するって言ったのになあ。
教科書も買い直してしまったし、今月の仕送り分だけだと少し厳しそうだ。
しょぼくれながら母親にメールをしようとして、また気づく。携帯がない。
ズボン、胸、内側、全てのポケットを叩いてみるが、ない。どこにも、ない。
鞄の中は、さっきまで鍵を探してかき回したせいでぐちゃぐちゃだ。
もう鞄の中をまさぐるのにも疲れたし、どうせこんな状態なら、と、千昭は思い切って鞄をひっくり返した。
結果から言うと、千昭がなくしたものは全部返ってきた。
自分の足の上に遠慮なく落ちてきた教科書や辞書、弁当箱を、恨めしげに睨み付ける。
痛かった。半端なく痛かった。辞書なんか多分角が当たったと思う。足がじんじんする。
ゲームソフト、教科書、定期、教科書、教科書、ジャージ、ガム、教科書……どうやら自分がなくしたと気づいたもの以外にも、いろいろとなくなっていたらしい。
あれも、これも、ああこんなものまで…、と、自分の周りに足の踏み場もないほど散らばった物々を物色していると、「千昭くーん」と大家さんが階段を上がってきた。
ごめんなさいね、さっきの鍵なんだけど、と言いかけて、千昭の部屋の前の惨状を見た大家さんが言葉を失った。そりゃあ、こんなになってたらびっくりするよな。
「すいません、ちょっと、鞄ひっくり返しちゃって」
「あ、ああ……そうなの……」
へらりと笑って誤魔化そうとしたものの、あまり効果はなかったかもしれない。どう見ても、スクールバッグに入りきる量じゃないし。
何が何だか、という様子の大家さんに、鍵がどうしたんですか?と尋ねて、よいしょ、っと立ち上がった。
「ああ、えっと……さっき渡した鍵ね、違う部屋の鍵だったのよ、ごめんなさいね」
「あ、そうか、鍵」
鍵も戻ってきたんじゃ、とまたしゃがみこんで鍵を探す。バサバサと地面の上の教科書を手で退けていると、鞄、汚れてしまうわよ、と言って、大家さんが鞄を拾い上げる。
逆さまに持ち上げられた鞄の中から、チャリン、と鍵が落ちてきた。