ドアの外で誰かが話す声が聞こえて、形兆は耳を澄ませた。
 壁に遮蔽されて何を話しているのかはさっぱりだったが、声の高さと喋り方で、誰が来たかは見当がつく。
 けいちょー入るよー、と間延びした呼びかけで顔を出したのは、予想通り、千昭だった。

「うわ、ここ蒸してない?」

 開口一番、ベッドに寝ている形兆の足元にコンビニの袋をドサッと置くと、千昭は遠慮なく窓を開けた。

「おい、気をつけろよ。まだくっついてねえんだ」

 ギプスをしていても、衝撃があればそれなりに痛い。
 何を買ってきたのか、やたらごろごろと中身の多いレジ袋を一瞥する。ごめんごめん、と言いながらも窓から離れない千昭は、ワイシャツをバタバタと翻して、はァ、と息をついた。

「あ、そうだ、アイス買ってきたんだ」

 形兆食べる?と問いかけながらも、答えを聞いていないことは分かっていた。ああ、と適当に相槌を打って、少し姿勢を正す。
 ベッドの隣のイスに腰掛けながら、「ソーダとグレープ、どっちがいい?」と言う千昭に、ソーダ、と返すと、「やっぱり」と笑われた。

「絶対そっちだと思ったんだ」

「なら聞くなよ」

「万一ってことがあるじゃん」

 バリッと包装を破って、すっと開け口を差し出された。中の棒を掴むと、千昭が外側の包装だけを引っ張る。ここに来るまでに少し溶けたようすのアイスバーは、引っかかることもなくするりと袋から抜けた。
 裸にされたアイスの、人工的な水色が目にまぶしい。
 子供のころ、千昭の母親がよくこのアイスを差し入れてくれたのを思い出す。
 ソーダとグレープと、あと一つなんだったか忘れたが、自分はいつもソーダを食べた。グレープは、億泰が好きだったから。
 残りの二つを、初めは千昭と相談して選んでいたように思うが、いつの間にか自分がソーダで、千昭がもう一つになっていた。

「昔の夢を見たんだ」

 懐かしいものを立て続けに見て、感傷に浸っていたのかもしれない。なんとなく、千昭に夢の話をしたくなった。

「億泰とお前が出てきた」

 話し手の自分ですら、面白くもなんともないと思う冗長な夢の話を、千昭はおもしろそうに聞いていた。

「億泰が転んでぐずぐずしていたところに、お前が来て。億泰は、急に元気になった」

「お前が来たのが、よほど嬉しかったんだろうな」

「それまでビービー泣いてたくせによ」

 アイスを持った腕をシーツに横たえて、なんの感情も交えず、ただ淡々と夢の出来事を報告する。

「億泰、って呼んだら、お前の背中に隠れやがった。そこで、目が覚めた。それだけだ」

「へえ」

 珍しく感心したような相槌を打った千昭は、「過去の記憶って、結構改竄されてるんだな」と続けて、はむりとアイスを咥えた。

「どういう意味だ」

「億泰は、形兆といるときだけ甘えただったじゃん。覚えてない?」

 記憶にない。あいつは、そんな子供だっただろうか。
 確かに甘ったれてはいたけれど、自分よりも、千昭の方になついていたはず。
 兄である自分の言うことを聞くのは、自分自身で物事を判断できなかったからだ。

「オレがいると、恥ずかしがってさ」

 思わず千昭に、疑わしげな視線を送る。「あ、信じてないでしょ、本当だよ」と言ってへらりと笑う顔が、子供のころとだぶって胸がざわついた。

「昔から、仲のいい兄弟だったよ、お前ら」

 千昭の声が頭にじんわりと響いて、頭が痺れたように、一瞬反応が遅れる。

 仲がいい、だって。そんな馬鹿な。
 自分は、何でも他人任せにしか動けない億泰を、疎ましく思っていたし、億泰も、自分で判断できないからそうしてるだけで、オレのことが好きで着いてきているわけじゃないはずだ。
 これのどこが、仲のいい兄弟なのだろう。

 他人が勝手に勘違いして、見当違いなことを言っていると思ってしまってもよかった。
 けれど、千昭は他人でないし、適当に見えて、無責任なことを言うようなやつでもない。

 水色のアイスに視線を落として、言葉を探す。結局何も出てこずに、ただぼんやりと、白いシーツの背景と水色を見つめた。
 遠くに、外の喧騒が聞こえる。木々の揺れる音や、車の走る音、人の足音、話し声。
 せかせかとした日常から隔離されたように、ゆったりとした沈黙が流れていた。

 なあ、と口を開く。

「もし、親父と億泰のやつがいなかったら、って思うことが、ある」

 何に急かされたわけでも、意を決したわけでもない。ただ自然と、言葉が転がり出てきた。
 まだ、感傷に浸っているのかもしれなかった。

「もしそうだったら、俺は、別の人間になっていたんじゃないかと」

 別の人生を歩んでいたのではないだろうか。日の当たるところを闊歩するような人生を。
 そんなことを言っても、どちらにしろ、自分は億泰や父親を放り投げることなどできない。それは確信に近かったし、千昭も何も言わなかった。
 けれど本当は、何か言葉が返ってくるのを期待していたように思う。果たして自分が期待したのは、叱責だろうか、それとも慰めだろうか。
 どちらにしろ、らしくないことを言った。

 ふと気がつくと、アイスが溶けて、しずくが手に伝ってきていた。なんとなくそれを眺めていると、「形兆」と咎めるように名前を呼ばれる。
 しずくがシーツに垂れ落ちる前に、ばくりと一口、大口を開けて、一気に食べ切った。
 手についた分も舐めとっていると、キーンとした痛みが一気にこめかみに走る。

「…………、あー…………」

「あ、きた?」

 うつむく自分を見て、千昭がにやついたのが分かった。

「…………」

「慌てて食べるから」

 至極楽しそうに笑う千昭が恨めしい。お前が急かすからだろ、と言うと、急かしてないよ、名前呼んだだけ、と返された。屁理屈こねやがって。
 千昭がイスから立ち上がったのを横目に、ひきつるような痛みにただ耐える。
 一瞬、強い風が吹いて、留め具をかけなかったカーテンが、ばさりと部屋に舞い込んだ。
 視界を遮るカーテンの向こうで、窓枠に寄りかかる千昭の影が見える。「あのさ、」姿の見えないまま、千昭が口を開いた。

「オレは、他の形兆でも今の形兆でも、どっちでもいいけどさ」

 でもやっぱ、億泰の兄貴の形兆が、いいかな。
 そう言う、いつもの抑揚に欠けた声が、どこか優しく聞こえた。ストンと、胸の奥に落ちる。

「…そうか」

 鳩尾のあたりに、長く居座っていた淀みが、わずかに晴れていくような心地がする。
 億泰を背負うにしては、自分は稚拙すぎる保護者だった。荷が重かったのかもしれないと、ぼんやり思う。
 生ぬるい部屋の中に、窓から吹き込む風が涼しかった。







「あ、当たりだ。よかったじゃん」

 形兆の手元を覗き込んで、千昭が言った。視線を落とすと、確かに平らな棒の端に、当たり、と焼印がされていた。

「オレが持ってても、意味ないだろ」

 まさか、退院するまで大事に取っておくわけにもいかない。
 それに、アタリだのハズレだので騒ぎ立てるのは、億泰と千昭の役割だ。

「じゃあ、今度来るときはこれでアイスもらってくるわ」

 形兆の分だけね、オレはハーゲンダッツ買ってこよ、とにやけて言う千昭。
 このやろう、と、あたり棒を渡そうと浮かせた右手で、肩を軽く小突いてやった。


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