六月半ばの梅雨入り後。
 ただでさえ空気の重いこの時期に、更に学生諸君の頭を重くする行事があった。中間考査だ。
 母親から、「今度テストで赤点取ったら小遣いなし」というむごたらしい宣言を受けた仗助と、今だ四則演算すら怪しい億泰の二人は、身近な家庭教師をアイス一箱で雇ったのだった。

 09 おやつとかてきょ


 駅で待ち合わせをして、そこから徒歩十分。三階建てのアパートの一番上、一番端にある千昭の部屋で、仗助と億泰は問題集とにらみ合っていた。リビングに置かれた四角いローテーブルの上、三方から置かれたノートや問題集がごちゃごちゃと重なり合っている。
 一問解き終わって、仗助は一息つくと胡坐を組みなおした。適当に使って、と言われて適当に敷いたクッションがふかふかしてちょっと気持ちいい。
 部屋に入ったばかりのときはなんだかそわそわとして落ち着かなかったが、遠慮なしの億泰に引きずられて、今はすっかりくつろいでいた。
 くつろいでいると言っても、もちろん勉強はちゃんとやっているけれど。

「千昭ーここ分かんねえ」

 隣で、億泰が教科書を見つめたまま言った。
 ん、と顔を上げた千昭が億泰の指差したところを覗き込む。

「あー、これはほら、さっきやった問題の公式」

 古いプリントを裏返すと、千昭がボールペンでさらさらと公式を書き始めた。これがここでしょ、それでこっちはこうして、と億泰に説明しながら、そこに設問の数字を入れていく。
 向かい合った億泰から読めるよう逆さに文字を書いていく様子に、器用なもんだな、と仗助は一人ごちた。

「そしたら、3xはどこに入る?」

 4の前だ。仗助はすぐに分かったが、億泰はどうにも分からないようで、これでもかというくらい顔をしかめてうんうん唸っている。

「もっかいやるよ。4がここで、5yがこっち。そしたら3xは?」

 えーっと、あーっと、と分からないながらも奮闘していた億泰が、とうとう堪えきれずに「わかんねえ!」と叫んだ。

「もォ〜〜わっかんねーよォォ〜〜〜」

「あはは」

 もうちょっとがんばればできるって、と励ます千昭に構わず、億泰はごろりと床に横になった。近くにあったクッションを抱き枕よろしく引き寄せると、それを頭の下に敷いて背中を丸める。

「おい寝んな」

 ぺしりと背中を叩いてみると、億泰がもぞもぞと身じろぎした。

「もう疲れたんだよォ……すっげー頭使ったぜ、オレ」

 億泰はそう言うが、まだ範囲の三分の一も終わっていない。このままじゃまた赤点だ……そう言ってやろうとしたら、千昭が参考書を閉じて「じゃあ」と口を開いた。

「休憩しよっか」

「えっ、千昭さんまで!」

「もう一時間くらいやったし」

 仗助だけやっててもいいけど、と言われてぎょっとする。
 このわけの分からない数式と一人で戦うなんてだるすぎる。

「じゃあ、オレも休憩します……」

「ほらな!」

 そらみろ、とでも言うように億泰が飛び起きた。おい、疲れたんじゃないのか。

「千昭!オレあれ食べたい、ホットケーキ。アイス乗ってるヤツ」

「ええ、今から作んの」

 ホットケーキ?、と小首をかしげていると、千昭から「たまーに作るんだ。ホットケーキミックス使って焼くだけだけど」と補足された。

「仗助だって食いてーだろ?うめえんだぜェ〜アレ」

「そりゃあ、食えるもんなら食いてえけどォ……」

 勉強を見てくれと頼んでおいて、その上おやつの催促までしてもいいものか。ちらり、千昭の方へ視線を飛ばすと、気づいた千昭がへらりと笑った。

「じゃあ、材料買いに行くかあ」

「やりィ!」

 急に元気になった億泰がガッツポーズをして立ち上がった。このお気楽刈り上げ頭め。

「すんません、なんか……」

「いいよ別に。オレもお腹減ってきたし」

 そんな会話も意に介さず、「おっしゃー休憩休憩」とウキウキ玄関に向かおうとした億泰に、千昭が待ったをかけた。

「行くのはオレだけ。仗助と億泰は次の問題やってて」

「ええーッ!」

「えッ!」

 億泰と声が被った。

「休憩じゃねえのかよォ!」

「残念でしたー。休憩はオレが戻ってきてからね」

「マジで一人で行くんスか?」

「うん。丁度卵も切らしてるし、他にもちょっと買いたいものあるからさ」

 言いながら、買い物袋代わりなんだろう、空のトートバッグを持って千昭は玄関に向かった。
 その後姿を見て、億泰がいたずらを思いついたような顔で仗助に耳打ちした。

「二人でサボッちまってもバレねえよなっ」

 それが聞こえていたのか、それとも聞かずともお見通しだったのか。玄関のドアを開けたまま、千昭が通る声で言った。

「オレが帰ってくるまでに二ページなー!」

 次いで、「終わってなかったらホットケーキなしだからー」とも。
 即刻、億泰も仗助も競うように教科書へ向き直ったのは言うまでもない。


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