幽霊は、杉本鈴美は、午後の日差しに溶けるようにして消えていった。 彼女の言っていたことは本当なのだろうか。幽霊に遭遇したことですらにわかには信じられないのに、その上この町に殺人犯が潜んでいるだなんて。 しかし今、現に彼女は煙のように消えてしまったし、さっき振り向いた先に見えた恐ろしいものがなによりの証拠だ。彼女は、幽霊だったのだ。 そして、彼女はたった一人で十五年も戦ってきた。なんとかしてやらねば、と思う。 密かに心を奮い立たせているところに、「あのー」、間延びした声が降ってきた。 「お取り込み中?」 声のする方へ振り向くと、さっきの店員が立っていた。 こちらに歩み寄ってくる彼は、オーソンの制服を着たままだ。その姿を一瞥した露伴が、今さら来やがって、とでも言うように、「フン」と鼻を鳴らした。 「レジを離れられないんじゃなかったのか?」 「ああ、店長が帰ってきたから」 様子を見に来たんです、と言って、オーソンと薬局の間を覗き込む。しかしそこにあるのは、薄暗い壁と雑草の生えた地面だけだ。 「……なんか、もういいみたいですね」 やっぱ道ないし、と言う彼に、思わず頭が下がる。 小道は確かにあったけれど、スタンド使いでもないと見えないだろうから、彼にしてみればいたずらや悪ふざけに付き合わされたのと同じだろう。 「どうもすみません……もういいんで、お店に戻ってください」 「はあ、どうも」 本当にすみません、と繰り返していると、「そんなに謝らないでくださいよ、常連さんだし」と言われた。やっぱり、顔見知り程度は自負していいようだ。 「いつも立ち読みしに来てる人でしょ?」 「ああ、はい、そうです」 思わず、立ち読みばかりですみません、とまた謝ってしまった。 「いいですって。別に減るもんじゃないんだし」 「それは、まあ……」 これからも来て下さいね、なんて笑顔で言われて、もじもじとはにかむ。 最近物騒な人とばかり接してきたからか、この極めて普通で平凡なやりとりがとても素晴らしいもののように感じた。平穏って、いい。いいなあ。 「ところで康一くん、塾はいいのか?」 そのやりとりを無言で眺めていた露伴が、ふいに声を上げた。はっとして時計を見る。 やばい。遅刻だ。 「千昭くん」 それぞれ違う方向へ去っていく二人を見送って、こっそりと姿を現す。 「あ、鈴美ちゃん」 後ろから急に声をかけても少しも驚かないのだから、おどかしがいがない。 彼とはここ数週間の付き合いだ。他の客の後ろについてオーソンにもぐりこんだとき、レジに立っていた彼と目が合ってからの。 自分のことがはっきり見えるらしい彼は、もしかしたら露伴たちと同じスタンドという能力を持っているのかもしれない。 「待ち人、来た?」 「うん」 幽霊の身である自分が、新聞の犯罪白書を確認できたのは彼のおかげだ。 彼が協力してくれて、ずいぶん楽に行動できる。 「やっと会えた」 千昭に、自分が幽霊であることと、この町に潜む殺人鬼のことは伝えた。けれど分かっているのかいないのか、反応に乏しかったので、そのときはひどく不安だった。 もしかして、露伴に同じことを話しても、こうして流されてしまうのではないか、と。 「私の話、ちゃんと聞いてくれたわ」 「うん、よかったね」 千昭の言葉に、嫌味な響きはない。 こうしてときどき話しているうちに、千昭はこういう人なのだと分かった。人の話を軽んじているのではなく、端然としすぎて、言葉や態度に飾りがないのだ。それも極端に。 「でもやっぱり、さっきまでは不安だったわよ。誰かさんのせいで」 そう、千昭がもう少し深刻なふうに受け止めてくれたら、こんなに不安にならずにすんだのに、なんて。冗談だけれど。 唇を尖らせて、少しむくれてみせると、千昭が困ったように眉を下げた。 「オレのせい?」 「他に誰がいるのかしら」 そうして軽口を叩けば、千昭はへらりと笑って、ポケットから出したものを鈴美に差し出した。 少し平べったい、四角の箱。さっき露伴をからかうのに使ったのと同じ、チョコレートのお菓子。 「これで、機嫌直してよ」 「……いつもポッキーでなんとかなると思ったら、大間違いよ」 「そう言わずに」 よく見て、と言われて視線を戻すと、いつもの赤い箱ではなく、薄いピンク色の箱であることに気づく。 箱の表に踊る、いちご、の三文字が目に入った。 「いちご、好きじゃない?」 「…………」 「好きじゃないなら、オレが食べちゃうけど」 どうする?と聞いてくる顔は相変わらず微笑んでいるのに、なんだか意地悪く感じてしまう。 ちょうだい、と投げやりに言うと、ますます笑みを深めて、どうぞ、と箱を渡された。 今日のところは不問にしてあげよう。赤い粒々がかわいらしいピンク色のポッキーを歯につっかけると、ぽきりと音を立てて折れた。 |