ライク・ア・ヴァージンという腕枷の存在は、以前から知っていた。労働や仮釈放によって檻の外に出た囚人に、あくまで仮初の自由なのだと知らしめる“見えない鉄格子”。一歩でも親機の圏外に足を踏み出せば、内臓された起爆装置が作動する。運が良ければ腕を一本失くすだけで済むかもしれない。運が悪ければ、それで終わり。
 自分の両腕を見下ろせば、懲罰房で掛けられた銀色の輪が未だ両手首で鈍く光っている。気まぐれに着けていた時計より遥かに重量のあるそれは、最初はひどく肩が凝ったものだが、今ではもう慣れてしまっていた。歩き出すと、キンと金属同士がぶつかる音がして、手首のものより一回り大きい錠が足首にも掛けられているのを嫌でも思い知る。
 見えない鉄格子だなんて言っても、結局、腕輪なんて大層なものを着けなければ、囚人を拘束するなんてできやしないのだ。もし身一つで外へ放り出したら、帰ってくるやつなんて一人もいないだろう。
 もう一度、自分の両腕を見下ろす。クロエの腕に、ライク・ア・ヴァージンは着いていない。
 あの腕輪を着けられるのは、檻の外へ出る機会を手にした囚人だけだったから、懲罰房での長期拘束が決定していたクロエには不要だと判断されたらしい。もしかしたら、決議を取った看守の中にクロエの顧客がいたのかもしれない。刑務所を抜け出している方法は知っていなくても、銀行に現れて大金を持ち帰っていたことくらいその手の人間はよく知っているはずだ。爆発する腕輪なんて着けたら、賄賂が途絶えてしまう。想像に容易かった。残念ながら、今から買収し直してやる気はさらさらなかったが。
 絶対的な拘束力を発揮する“見えない鉄格子”も、懲罰室にいたころ足元でじゃらじゃら音を立てていた邪魔くさい鎖すらも、今は着いていない。あるのはブレスレットにしては厳つすぎる鉄の輪だけ。クロエを縛るものは何もなかった。
 何もなかったが、結局、目の前のドアにはアシッドマンを溶かしていた。行き先は決まっている。ただ一人の人間の存在が、どんな鎖よりも強固にクロエをあの場所へ縛り付けていた。

「……不自由だなあ」

 どこまでも自由な自分のスタンドが、訝しげに揺らいでみせた。







 腹の辺りに飛びつかれて、危うくドアの境からアパレルショップの試着室に逆戻りしてしまうところだった。ドア枠に手をついて堪えたまま、ちょっと、と抗議の声を上げようとしたが、ついぞ声にはならなかった。子供にしては強い力で、エンポリオが自分の腰を抱きしめている。手は、小刻みに震えていた。

「……っぅ、クロエ………っ、……」

「…………なんだよ」

「……クロエ…………クロエ……っ……」

 何度もどもりながら、死んじゃったかと思った、と言い切ると、エンポリオはクロエの腹に顔を擦り付けるようにして泣いた。震える背中に手を伸ばすも、あと少しで触れるというところで手が止まってしまう。

「なに泣いてんだよ……エンポリオ」

 背中に触れてもいいものか、図りかねていた。自分が金と罪にまみれた犯罪者であることは今さら遠慮するようなことじゃあなかったが、自分はウェザーの顔が見たい一身で戻ってきたのだ。きっとここにいるのがエンポリオだけだったら、二度とこの部屋に足を踏み入れたりしなかった。そんな薄情な、利己的な人間だ。

「おい、鼻水つけるなよ……ほら、泣き止めって……そんなに涙流して喜ぶような人間じゃあないだろ、オレは」

 エンポリオはクロエの服に顔をうずめたまま何度も首を横に振った。
 こんな反応をされたら、自惚れてしまいそうだ。
 一度下ろした両腕を、またエンポリオの背に回す。恐る恐る抱きかかえると、エンポリオの手がより一層強くクロエの服を握り締めた。きっと腰の辺りは皺だらけで、生地も伸びてしまっているだろう。さっき店のハンガーから頂戴してきたばかりの、指折りのブランド品が台無しだ。けれどそれもどうだっていい。
 左右に緩く身体を揺らして、小さな背や頭を撫ぜる。子供をあやすのは得意じゃあないから、早く泣き止んでくれと素直に言うと、ずいぶん参ったような声色になった。それが可笑しかったのか、少し落ち着いてきたエンポリオが笑いに肩を揺らす。憎らしいさに帽子ごと頭を押さえつけると、この子供にしては珍しいはしゃぎ声を上げたあと、おかえり、とくぐもった声で口早に告げられた。







「檻ってドアだと思う?オレは思わないんだよね。もし檻がドアだって思えたら、檻の扉からも外に出れるかもしれないけど……でも、あいつを溶かせる面積がないし、やっぱり無理かもね」

 ただ一方的に、独り言に近い言葉を投げつける。困惑したように見開かれた目の、深い色の虹彩がクロエを映した。その瞳を見定めるように、眩しがるように両目を細める。

「ハロー、ジョリーン?」

08 エテジア


 お姉ちゃん!と後ろからついてきたエンポリオが檻の前に飛び出す。クロエは廊下の壁にもたれ掛かって、全てを遠巻きに眺めることにした。脱獄を決意したという女の告白や、それを厳しく制止しようとするエンポリオの説得を、ただ何も言わず静かに聞いていく。どうやら自分のいない間に、ずいぶん新しい風が吹き込んだらしい。

「ところで……あの男は、誰?何者なの?」

 徐倫が鋭い視線を向ける。その答えを、クロエは持ち合わせていなかった。名前を聞いているわけではないだろうし、何者かと言われても、銀行強盗の常習者であることを知りたいわけでもないだろう。
 答えない自分に焦れたのか、代わりにエンポリオが口を開いた。

「彼はクロエ……。敵じゃあないよ、多分、味方でもないけど……なんて言ったらいいかよく分からないけど、ぼくの――…………いや、今はいいんだ、そんなこと。それよりお姉ちゃん――

 ぼくの、の後に何と繋げたかったのだろうか。一瞬伺うようにこちらを振り向いたエンポリオの後姿を横目で見つめる。そんな自分たちを、徐倫は交互に見やって、不可思議そうに眉を寄せた。
 彼女を取り巻く厄難の大まかな話はついさっきエンポリオから説明された。しかし彼女に助力しようとは思わなかった。それでも頼まれたから、この檻の前までドアを繋げた。そう考えれば、今ここで話を聞いている意味もないのに気づく。

「話が長くなるなら、オレ、先に帰るよ。帰るだけなら一人でも大丈夫だろ。……おい、そんな顔するなよ。音楽室に帰るんだ。今日はもう、外に出たりしないから…………ああ、その前に、一つ言っておかないと」

 徐倫、と呼びかけると、さっきより幾分柔らかくなった視線がクロエに注がれた。
 エンポリオが敵じゃあないと言ったからだとしたら、ずいぶんと、信頼しているようだ。あれこれ手助けをしたらしいから、当然なのかもしれないが、ここまであっさり敵意を失くされると痒いようなもどかしいような気になる。だって、まるであの人みたいだ。

「アナスイのことなら、振っていいよ。……ろくなやつじゃあない、あんなの」

 予想だにしていなかったのか、徐倫は一瞬ぽかんと呆けた顔を見せた。懲罰房に連れて来られたときや、数分前の警戒心に満ちていたときよりも、ずいぶん幼く見える。年がいくつかは聞いていないが、少なくとも自分より五つは年下だろう。その若さであんな厄介なやつに好かれて、本当に、お気の毒さま。
 先に帰る、ともう一度宣言して、今度こそ元来たドアを振り返る。廊下の突き当たりにあるドアはさっきから繋げっぱなしだ。一度ホテルの一室に戻って繋ぎ直してからここに来たから、看守が一人くらい迷い込んでいるかもしれないが、問題ないだろう。また繋ぎ直してしまえばいい。今度は音楽室に直通だ。
 ねえ、と後ろから呼びかけられて、肩越しに軽く振り返る。目が合うのは、これで三度目。

「そんなこと言っても、あなた、なんだか振り向いてあげてほしそうな顔してるわよ」

「…………まさか」

「それに……どことなく、アナスイに似てるわ」

 彼女がふっと口元を緩ませてそんなことを言うものだから、自嘲したような、苦虫を噛み潰したような、変な顔で、勘弁してよ、と言い残すのが精一杯だった。


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