06 言葉はいらない
背後から名前を呼ばれて、ドアノブにかけた手を止めた。声の主が誰かなんて振り返って確認するまでもない。アナスイだ。このところ、クロエのことをやたらと名前で呼ぶようになった。そうすれば、引き止められると学んでしまったのだ。馬鹿の一つ覚えみたいに、クロエ、クロエ、クロエ。それを煩わしく思いながらも、結局相手の思惑通り足を止めてしまう自分が苦々しい。
「なに。オレ急いでるんだけど」
右手で軽く握ったままのドアノブは少し冷たい。クロエは後ろにいるアナスイに振り向くこともせず、まるで時間が惜しいようなふりをした。本当に急いでいるわけではない。ただ、アナスイと言葉の交わすのが億劫だったのだ。逃げているだけなのかもしれない。
どちらにしろ、アナスイが気を使ってこのまま行かせてくれれば願ったり叶ったりだが、望みは薄いだろう。邪険に扱うのはいつものことだし、残念ながら、クロエの仕事に出勤時刻はない。
弾の出ないバレッタを上着のポケットに忍ばせて、これからまた、銀行強盗へ出向くところだった。誰に何と言われようが一度看守を買収したなら途中放棄は許されない。金を払い続けなければ明日にでも懲罰房に放り込まれるだろう。それほどのことを数多く見逃してもらってきたし、これからも見逃してもらうつもりだ。扉の開かない懲罰室なんて、冗談じゃあない。アシッドマンの使えない環境下では自分はただの人間だ。そう言ってしまえば、アナスイもそれ以上外出を止めようとはしなかった。
「オレも行く」
しなかったはずなのだが。
「はあ?」
「お前一人だと心配だ。オレも行く」
「ダメ」
「なんで」
「人手はオレ一人で足りてるし、分け前やる気もないし」
「そういうことじゃ……」
「あーはいはい」
聞き分け悪く言葉を遮って、くるりと後ろを振り返る。アナスイの顔は、いつも同じだ。機嫌悪そうに眉間に皺を寄せている。今日もしっかり力の入った眉間を確認して、クロエはそこに手を伸ばした。眉間からこめかみまでを何度か指先でなぞって、口元までの輪郭を縁取るように頬を撫で下ろす。
そうすれば、アナスイは面白いくらい簡単に黙り込んだ。最近になって知ったことだが、アナスイは、顔や髪を触られるとおしゃべりな口をぴたりと閉じる。
アナスイがクロエを引き止められるように、クロエもアナスイを黙らせられる。
「いい子で待ってなよ」
最後にもう一度頬をひとなでして、アナスイが何か言う前にドアノブを捻り一歩踏み出した。待っていろ、だなんて我ながら妙な言葉を選んだものだ。いつの間にあの冷たい音楽室が帰る場所になっていたのだろう。そしていつの頃から、アナスイが自分の帰りを待つようになったのだろう。
ドアの向こうでアナスイが何か言ったような気がしたが、ドアの閉まる音に途切れてクロエの耳には届かなかった。
帰ってきたクロエを見て、アナスイは血相を変え、エンポリオはゲームのコントローラーを落とし、ウェザーは読んでいたテレビガイドを静かに閉じた。
「クロエお前……!なにしてんだよ!」
「なにって……」
帰ってきたんだけど、と続けるはずだったが、駆け寄ってきたアナスイに両肩を掴まれて、クロエは口をつぐんだ。傷口のそばだから痛くて仕方がない。適当に止血してごまかしていた傷口が少し開いて、また上着に血が滲んでいる。アナスイに悪気がないのは分かるが、こうも行動が裏目に出ていると本当は自分を痛めつけたいんじゃあないかと疑いたくなってしまう。
「ど、どうしよう!クロエ血が出てる!」
「エンポリオ、確かあそこに救急箱があったはずだ」
下の引き出しの中だ、とウェザーが言って、エンポリオが慌しく棚の引き出しを開けていく。いつもの冷たく静かな音楽室に似合わない喧騒だった。居心地が悪くて仕方ない。この状況を引き起こしたのが自分だということも嫌だった。八つ当たり交じりに、傷口を診ようと服を脱がしにかかってきたアナスイを突っぱねる。
「みんな大げさだよ……アナスイも、離せって。自分で脱ぐから」
じゃあ早くしろ、と怒鳴るようにアナスイが急かした。はいはいといつものように言ってみるが、あの静かな時間が戻るわけもない。
渋々ソファに座って上着を脱いでみると、外側は滲む程度だったが内側には血がべっとりついていてげんなりした。これはもう着れないだろう。服だっていつも現地調達の盗品ばかりだが、それでもこの上着はそこそこ気に入っていたのに。
そうして上着の末路にため息をついているうちに、痺れを切らしたアナスイがインナーを力いっぱい破いた。布の破ける音とともに、血塗れた患部が外気に晒される。
「クロエ、少し沁みるぞ」
忠告のわりに聞かせる気はなかっただろう。言われるのとほとんど同時に、上半身に冷たい液体がかかって総毛立った。言いようのない痛みが傷口から全身に広がって、しびれる。意地でも声は出すまいと思ったが、結局小さく漏れてしまった。
一体何をかけたのかと歯を食いしばったまま顔を上げると、ウェザーが持っていたのはクロエが前にここへ持ってきた酒のボトルだった。それも確か、一番アルコール度数の高いやつ。
「……っ、酒で消毒って、ドラマや映画じゃあないんだからさあ……」
「消毒液がなかったんだ。ドラマでは普通なのか?」
そういえば、目の前の男は一度たりともドラマを見たことがないのだった。ブラウン管の中で普通かどうかはともかく非常識だと言いたかったのだが、それも見事に伝わっていない。
いい加減痛みで意識が朦朧としてもきたし、クロエは大人しく口を閉じていることにした。右腕と脇腹の大きい傷、というかほとんど穴だが、それにウェザーがガーゼを当て包帯を巻いていく。こんな状況でなかったら、指が肌に触れるたび気が気じゃあなくなっただろう。その前に、触れられたくなくて突き放すかもしれない。どちらにしろ、今は痛みが先行しすぎていた。
一方でアナスイは、クロエの体をあちこち点検して、他に傷がないか確認しているようだった。一見無意味な気がしないでもないが、他に怪我をしたとしても自己申告はしないだろうと自分を省みるとアナスイの行動が納得できる。今回痛手を負ったのはウェザーが処置している箇所だけだけれど。自分の行動パターンが読まれすぎていっそ笑えるくらいだ。
「クロエ、大丈夫?痛くない?ぼ、ぼく何したらいいかな!?」
「…………平気。結構痛いけど。お前はゲームでもしてればいいよ」
うろたえにうろたえたエンポリオは、今にも泣きそうだ。頼むから、泣かないでほしい。子供の泣き顔ほど目に悪いものはない。これ以上何も視界に入らないようにゆっくりと目を閉じた。ソファの背もたれに首を乗せて、体から力を抜く。まだ痛むところは痛むが、少しはよくなってきたように思う。
どうしてこんなときに限って、全員揃っているんだろう。日ごろの行いが悪いからだろうか。それを言われたら納得せざるを得ないけれど、こんな悪人にだって、少しくらい運を分けてくれてもいいはずだ。ついてない日は、とことんついてない。
「……クロエ、お前、何したんだよ」
アナスイの声は、さっきよりも落ち着いている。なあ、との呼びかけのあと、左手に暖かいものが触れた。手を握られているんだろう。もともとがクロエよりも暖かいアナスイの肌は、血が抜けて体温の下がった今、少し熱いくらいだ。
「…………別に。ちょっとしくじっただけ」
銀行の客の中に、運悪く銃を持った連邦捜査官がいたのだ。クロエを狙って潜伏していたわけでもなく、偶然に。FBI、本当に嫌なやつらだ。向こうは武器を持った相手には発砲していいことになっている。
クロエの持っていたのはプラスチックのモデルガンだったが、それが向こうに分かるはずもない。極めつけに、人差し指が引き金にかかっていたのがいけなかった。咄嗟にアシッドマンで軌道を逸らしたものの、放たれた弾丸はクロエの右上腕と腹部を貫通した。
「おい、医療塔行くぞ。ちゃんと治療受けないとダメだ」
アナスイの言葉に、やだよ、と返して、瞼を開けた。ウェザーが包帯を巻き終えたのと同時に、首を起こしてソファに座りなおす。妙に手際よくきれいに巻かれた包帯に、思わずどこかで包帯を巻く場面でもあったのかと尋ねると、ウェザーが答える前にアナスイが「おい!」とがなった。
「聞いてんのか!医療塔行けっつってんだよ!」
「……お前さあ、ここが銃器の持ち込み厳禁だって分かってて言ってる?」
ある程度は賄賂次第で案外どうにでもなるものだが、銃器は例外だ。いくら金を積んでも、看守は首を横に振る。
「銃創なんか見せたら即入院させられるだろ。で、銃の持ち主吐かなかったら懲罰房行き。最悪、治療もないかもね」
最後のはアナスイを言い負かすためのでまかせだが、それ以外は事実だ。いくら複数の看守を買収していても、十中八九、そうなるだろう。
「……だが、このままだと危ない。おれがしたのは応急措置だけだ。適切な処置を施さなければ、感染症のリスクもある」
「聞いたか!ウェザーだってこう言ってんだ。大人しく治療受けろって、ほら、クロエ!」
「……やだってば」
「なんでだよ!懲罰房だって、看守抱えてんなら少しくらいどうにかなるだろ?すぐ出てくればいい!」
アナスイの大声が頭に響いて、骨にまで痛みが走るようだ。動く方の手で耳を塞ぐと、言わんとすることを察したようでアナスイは途中から声を絞った。
こんなことなら、音楽室になんか帰ってくるんじゃあなかった。銀行から逃げてすぐ、どこかの病院に駆け込めばよかった。銃で撃たれた傷だと分かったら警察に連絡が行くのは必死だが、それでも隙を見て逃げてしまえばいい。そうすればよかった。けれど、今さら何を思っても後の祭りだ。一呼吸置いて、話し出す。
「今日は、金盗ってこれなかったんだよ。賄賂渡す期日まで、あと二日もない……それまでに退院して懲罰室から出てまた強盗なんて、できるわけないだろ。金取れないって分かったら、あいつらすぐ手のひら返すよ」
敗因はなんだろう。銃が本物じゃあなかったことか、客の素性を気にかけなかったことか、それとも。
「……それでも、クロエ、お前が死ぬよりはいい」
鼓膜の震えに意識を戻す。アナスイの声が水面を揺らす船だとしたら、ウェザーの声はきっといかりだ。そんなことを思う。海底に重く沈みこんで、静かに砂を舞い上げる。話を聞きたくなってしまう。
「……懲罰室に缶詰なんて、死んでるみたいなもんだと思うけどね」
クロエが生きていたのは、この部屋の中でだけだった。他の時間は生きるための準備に過ぎない。この部屋に居続けるために金が必要だった。そして目の前の男と離れたくなかったから、この部屋に居たかった。
「オレの一日は、あんたのためにあったんだ」
固唾を呑んだのはアナスイだ。繋いだままの左手が、妙に大きな脈音を伝えてくる。
ウェザーは一瞬、戸惑いを見せた。当然だろう、こんな不十分な言葉じゃ。結局自分の心中を伝えるつもりはなかったから、こんな物言いになった。前に、自分のせいで脱獄できないのかと尋ねられたことも関係あるかもしれない。あのときは言葉を濁して逃げたけど、ウェザーはどう受け取ったのだろう。
「……あんたがそう言うなら、そうするよ。今まで、勝手ばっかしてきたし」
「クロエ……」
「一応言っとくけど。オレが脱獄しなかったのは、あんたの趣味を支援するためじゃあないよ。おれが、趣味に没頭するあんた見てたかっただけ……まあ、一緒かもしれないけど」
握られた左手をするりと振りほどくと、重い体に鞭打って立ち上がる。銃で撃たれた右腕以外にも肺のあたりが妙に痛いから、もしかしたら逃げる途中で肋骨の一本くらい折ったのかもしれない。アナスイの制止もエンポリオが名前を呼ぶのも全て無視して、扉の前に立った。
「おい!クロエ!」
「逃げないって。医療塔まで歩いて行ったら遠いだろ。ここから近くのドアまで繋げてくだけ」
相変わらず、くすんだ金色のドアノブはひやりと冷たい。まさか、刑務所内のドアとドアを繋げる日が来るなんて思ってもみなかった。きっとこれが最初で最後だろう。
「エンポリオ」
「……えっ、あっ、なに?」
「服は……まあ、なんとかなるだろ。食べる物はもう持ってこれないけど、看守から適当にパクってしのぎなよ」
「えっ」
戻ってこないつもりなのかと、エンポリオが途切れ途切れに言った。
「……気が向いたら、戻ってくるよ」
正確には、懲罰房に入れられなければ、だけれど。
ドアを通り抜ければ、つんと鼻をつく匂いが漂ってくる。潮風と鉄格子の、すえた匂いだ。そういえば、上着を置いてきてしまったが、まあいいだろう。患者着か囚人服でも貰えばいい。囚人服なんて着てしまったら、刑務所から出にくくなることは分かっているのに、今はどうでもよかった。ウェザーに会ってから、あまりにも、深く沈みすぎていた。ここで一度死んでみるのもいいだろう。
医療塔に足を踏み入れると、慣れない消毒液の匂いが鼻を掠めた。