シャワーの蛇口を捻って、一息つく。額に張り付いた前髪が鬱陶しい。湯が止まった途端に冷え始めた体に、外が寒くなってきているのを感じた。
 もうすぐ、秋だ。刑務所の中では季節の移ろいなどあってないようなものだが、外に出る分には秋冬の方がいい。別に好きなわけじゃあない。ただ、帽子やマフラーでいくらでも顔を覆い隠せる寒さは、銀行を襲うのに丁度いい。
 おざなりに体を拭いて、新しいボトムに足を通す。バスタオルを頭に被ったまま、足元のビニル袋を持って、クロエはバスルームのドアを繋げた。

05 夜明け


「……またか」

「……なにが?」

 開いたドアの先、音楽室にいたのはまたアナスイ一人だけだった。もともと全員が都合よく揃っている日もあまりないが、最近は特に集まりが悪い。
 ソファの上で怪訝そうな目を向けるアナスイに、別に、とだけ返して、のろのろと冷蔵庫の方へ足を進める。歩くたびに安いスリッパの底がフローリングの床に擦れて掠れた音を立てた。

「……クロエ、お前、服は」

 しばらく無言でクロエの様子を見守っていたアナスイが、堪えきれずに言った。ずっと視線が刺さっていた背中が少し痒みを帯びてきた気がして、風呂入ってた、と返しながらクロエは身をよじる。

「それは見れば分かる」

「なら聞くなよ」

「ちげーよ。服着ろっつってんだよ」

 無言で嫌だと返して、冷蔵庫の扉を開ける。中はほとんど空に近い。主な供給源のクロエが二週間も空けていたのだから、当然といえば当然だ。その分多めに持ってきたのだが、いちいち袋から出すのが面倒になって、クロエは袋ごと土産を冷蔵庫に押し込んだ。袋の内訳は、珍しくレジを通したジュースやジャンクフードだ。それを一番楽しみにしているエンポリオはあいにく不在だが、後で気づいて食べるだろう。
 いまいち収まりきっていない冷蔵庫の扉を無理矢理閉めて、クロエはまたのろのろとソファへ向かうと、アナスイの隣に腰を下ろした。

「おい、髪ちゃんと乾かせよ」

「めんどくさい」

「お前なあ……」

 さっきまでいた安いホテルに、ドライヤーは備え付けてあっただろうか。はなから髪をちゃんとする気がなかったから、どうだったか覚えていない。雨の日に傘がないのは不快でも、シャワーの後に濡れていようがいまいが、クロエはどうでもよかった。今座っている革張りのソファだけが唯一水に弱いが、だめになったらまた盗ってくればいい。
 白いスリッパを床に放ってソファの上で膝を立てていると、急に隣から伸びてきた両腕が、クロエの頭をタオル越しに捕まえた。ちょっと、と一言声を上げたにもかかわらず、アナスイは少し乱暴にクロエの頭をごしごしと拭き始める。
 同時に何か言っているようだが、よく聞こえない。どうせ、風邪引くぞ、とかそんなところだろう。この程度で熱を出すほど虚弱じゃあないし、そもそも半裸くらいであれこれ言うのが失礼だ。そういうことはまず自分の服装を省みてからにしてほしい。

「おい、聞いてんのか?」

「聞いてない」

 やっと聞き取れた声に素直に答えると、アナスイは呆れたらしくクロエの頭を軽くはたいて「自分でやれ」と突き放した。やる気なく手を動かして、髪を拭く素振りを見せる。多分効果はないだろう。こんなことでちゃんと拭けているはずもないし。
 髪の湿気を吸い取ったバスタオルがさっきより重く冷たく感じる。秋が近くなると、湯冷めも早い。さむい、と一言呟くと、アナスイがそらみたことかと嘲った。隣から伸びてきた両腕が、今度はクロエの体を抱きこめる。

「なにしてんの」

「寒いんだろ」

「……これはこれで寒い」

 気温がどうとかいう話ではなく。腕を振り解こうともがくが、意外と力強く抱かれていてなかなか抜け出せない。
 アナスイは、分かりやすい。何もかもが。感情はすぐ顔に出るし、考えはすぐ行動に出る。今していることだってそうだ。こうしてクロエの素肌を抱きすくめているのも、ただ単に、クロエがどこかへふらふら出かけていくのが気に食わないのだろう。けれどそれを止めることもできない。だからこうして、意味がないと分かっていても、たとえ一時だけでも、体だけは腕の中に閉じ込めておこうとしている。

「……ねえ、これあんま暖かくないから。酒持ってきてよ。酒」

「ねーよんなもん」

「あるよ。買ってきたから」

 暖かくないなんていうのは、嘘だ。密着している場所はそんなにないはずなのに、やけにアナスイの体温を感じる。触れているところからじわりと何かが滲んでくるようだ。ただそれが、妙に居心地悪かった。

「さっき冷蔵庫に入れたやつ、取ってきてよ」

白く冷たい箱を指差すと、アナスイは少しためらった後、ソファから立ち上がった。あれほど強固に感じた腕の拘束が、いとも簡単に去っていく。

「……さっき言いそびれたけど。冷蔵庫入れるときは袋から出せよな」

「はいはい」

 ほら、とビール缶を投げて寄越したアナスイを軽くねめつける。多分わざとだ。これだと泡が吹き零れるからしばらくタブを開けられない。しかしそうでなくても、温まろうと思って要求したのに、冷蔵庫の中でますます冷えた缶は痛いほど冷たかった。
 肩にかけていたままだったバスタオルで缶をくるんで、ほどよい温度になるのを待つ。その間アナスイはというと、袋の中身を一つ一つ出して冷蔵庫へ律儀に入れ直していた。冷やすものは冷蔵庫の中へ、冷やさなくていいものは冷蔵庫の上へ。
 アナスイは度を越した几帳面だ。分解した人体さえ臓器をきれいに並べていたりする。本人は認めないが、そこそこ神経質であるともクロエは思う。
 ふと、その几帳面な異常者の手が止まっているのに気づく。手元の袋に残っているのは、どうやら一つだけだ。半透明のビニル袋からうっすら透けているのは、持ってくるつもりはなかったのに、レジの前に置いてあったから、ついカゴに入れてしまったテレビガイド。こういうところが、ますます几帳面なのだ。適当に、菓子の袋の下にでも敷いてしまえばいいのに。そう思うのは、自分の都合が悪いからだろうか。

「読まないのか、これ」

「……まあね」

「……ウェザーが読んでないから?」

「……お前、どんだけオレ見てんの。きもい」

「きもくて結構」

 冷蔵庫の中と上、どちらに仕分けようか迷った挙句、アナスイは雑誌をテレビの上に置いて戻ってきた。考え方は分かる。テレビガイドだから、きっと律儀にテレビの上なのだ。本当に、変なところで真面目なやつ。

「……お前、ときどき分かりやすいんだよ。ウェザーの読み終わったやつしか読んでないって、すぐ分かる」

 ウェザーは気づいてないだろうけど、とアナスイは続けた。何気ない一言だったろうが、その一言は不用意にクロエの神経を逆撫でする。

「お前のさあ、そういうとこが余計で、几帳面だよ」

 アナスイは一瞬眉を寄せて不可思議そうな顔をしたものの、言葉の意味を追求するのを早々に諦めたようで何も言い返さなかった。いい気味だと思う。クロエのウェザーに対する意識は丸分かりだと豪語できても、自分に向けられた言葉が理解できないままずっと顔をしかめていればいい。別に、分かりやすいと言われてムキになったわけじゃあないけれど。

「あの雑誌読んでるうちは、ウェザーはこっちの側の人間だよ」

 ついでにもう一つ、クロエは不親切な発言を贈呈した。アナスイはまた何も言わない。
 手元がほのかに冷たい。ビール缶の冷たさが、バスタオルを看破してきているんだろう。寒い季節は好ましくても、寒気がするのはよろしくない。両手の中で転がして、沈黙の間の暇を潰す。隣でアナスイが何度も口を開きかけては、結局言葉を飲み込んでいるのには気づいているが、何もしないし、何も言わない。ここで飲み込めるような言葉なら、それはきっと自分が聞かなくてもいいものだろう。
 しばらくして、アナスイが「なあ」と重々しく口を開いた。

「お前さ、ウェザーのこと考えないとか、できないの」

「ぶち殺すよお前」

「……それは、無理ってことかよ」

 答えに窮して、また手の中で缶を転がす。ウェザーのことを考えずにいることはできないか、とはつまり、お前はウェザーのことばかり考えているというアナスイからの皮肉なのだろうか。そうだとしたら隣の男の頬を殴り抜けたいし、他意のない質問だったとしても、自分がウェザーのことばかり考えているという前提が気に食わないので、やはり張り倒したい。
 そんなことを思ってみても、結局クロエは無言を貫いたまま、だらりとソファの背もたれに身を預けた。

「……どうなんだよ」

 鈍いのか、それともわざと言わせようとしているのか。アナスイが静かに視線を向けている。

「……さあね。明日世界が終わるってなったら、それどころじゃなくなるんじゃあないの」

 アナスイの前提は、気に食わない。けれど今のクロエの行動が全てウェザーに関わっているのも事実だった。自分の日常生活の軸は、一人の人間にひどく偏っている。

「……なあ、お前、あのときウェザーのこと考えてたか?」

「あのときって、どのとき」

「……分かるだろ」

 クロエは長いため息をついて、目を瞑った。何もなかったことにして今まで通りにできるかもしれないなんて浅はかな期待は、さっき見事に砕かれたばかりだ。けれどまだ、できるだけ浅いところで踏み止まれたらいいとも思っている。思っているのに、止まらない。嫌な感じがした。勘は鋭い方でもないが、そうだ、ホテルに警察が突入してくる直前のような、かすかな空気のみだれに似ている。
 静かに瞼を上げると、目前に迫ったアナスイと目が合った。

「オレのこと考えてたら、ウェザーから離れられるか」

「おい、アナスイ……」

 するりと首に回ってきたアナスイの手が、そのままクロエの肩を掴んでソファに押し倒した。不意を突かれて、クロエの手からバスタオルともどもビール缶が零れ落ちる。缶は硬い床に落ちたあと、からからと転がってどこかへ行ってしまった。せっかく泡が収まるまで待っていたのに、これで振り出しだ。それもまた、アナスイのせいで。
 片手で押さえ込んでいるだけなのに、どうしてなのか、起き上がれない。けれど起き上がろうともしていなかったかもしれない。クロエは自分の鎖骨を押さえているアナスイの手をはねのけなかった。

「嫌なら嫌って言えよ」

 天井の下、クロエの真上に覆いかぶさっているアナスイの髪がさらりと垂れて、すっかり乾いた肌をなぜる。クロエはなんとなく、その髪と一緒に、アナスイの頬を指の背でなぞった。色素の薄い目が、わずかに眇められる。

「嫌だよ」

「……なんで」

 下唇を噛んだアナスイは、初めて見た。眉根を寄せて、口元にも力がこもって、心の内を無防備にさらけ出すさまは、まるで幼子のようだ。
 少しは大人しくしろ、だったか。二週間前のあの日よりさらに前、アナスイにそう言われたが、アナスイもアナスイで、立派に子供じみている。

「オレはさあ、満足だって言ったじゃん。このままでいいって。だからお前の、その……慰めとか、いらないんだよ。やんなくていいんだよ、そんなこと」

「慰めなんか……」

「それにお前、オレが好きなわけじゃあないだろ」

望んだものが手に入らなくて、かんしゃくを起こし始めている子供。それがアナスイだ。逆に自分はどんな子供なのかというと考えたくもないが、なんにしろ、子供の喧嘩なのだ。お互いに。

「……オレは、お前が好きだって、言ったはずだ」

 アナスイの表情がますます酷くなる。クロエはまた、アナスイの頬に触れる。口元を親指でなぞると、唇は時折小さく震えていた。自分を跳ね除けられて拗ねた子供の唇だ。ここから走り去ってしまえばいいものを、お気に入りのおもちゃが惜しくて動けないでいる。
 居心地悪くて落ち着かないのは、クロエが拒絶したからじゃあない。自分の好きなものを、友人が認めてくれないからだ。

「お前はこの部屋が好きなだけだよ」

 ウェザーへの思いは、アナスイと自分では違う。そして自分がウェザーに抱いているものと、アナスイが自分に抱いているものは、また違うものだろう。自分の主観でしかなかったし、愛を区分けするなんて馬鹿馬鹿しいとも思うが、それが事実だった。
 アナスイの言葉には応えられない。自分を愛してくれる人が現れたからといってこの胸に巣食う淀みが晴れるわけじゃあないし、そもそも、愛の動機がずれているのだ。応えようがない。

「愛してるよ、アナスイ。本当に」

 アナスイの髪を一房掴んで引っ張ると、距離の縮まったその頬に軽く口付けた。


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