繋げたのは用具室のドアだ。銀行正面のドアはガラス張りだから、ドアをくぐった瞬間に姿を消えるのを見られてしまう。そんな非科学的な強盗犯は自分の他にいないだろう。目撃証言だけじゃあ逮捕状はとれないだろうが、看守を抱え込んでいる今、面倒ごとは起こしたくなかった。

04 溶けきる前に崩して


 ピンと背筋の伸びた受付嬢に紙を見せる。チラシか何かの裏面に読み終わったテレビガイドの文字を切り貼りして作った声明文だ。

『このバッグに五万ドル詰めろ。三分以内だ』

 強盗の心得その一、要求は簡潔に。受付嬢が驚いて挙動を止めている間に二枚目、『通報したら撃つ。早くしろ』右手に構えたベレッタの撃鉄を起こすとカチリと切れのいい音がする。弾なんて一つも入っていないどころか撃つことすらできないただの玩具だが、いつもそれで十分だ。
 はっとした受付嬢が慌てて他の職員に知らせ始める。バタバタと金庫へ走り出す隣の受付嬢、青ざめて右往左往する黒いスーツの男、硬直して動けない作業員。いざというとき人間の本質が垣間見える。あの黒いスーツの男なんて、さっきまで偉そうな態度で作業員にあれこれ指図していたのになんて情けない。自分が話しかけた受付嬢が一瞬白い目で彼を見た。上司にしろ同僚にしろ、これで大きく株を下げたことだろう。ご愁傷様。
 紙を見せてから三分経つ前にバッグのジッパーを閉じて担ぎ上げる。要求した金額はただの目安だ。なにもぴったり手に入らなくてもいい。バッグの中がそこそこ埋まったら今日はそこまで、すぐ撤収。
 強盗の心得その二、欲張ってはいけない。あともう少しと粘った末に警察が駆けつけてお縄になったやつを山ほど知ってる。帰り道は行きと同じ灰色のドアだ。強盗の心得その三からは省略する。
 さて今日も、こうしてクロエの日常は幕を開けた。







「ウェザーは?」

「今日は来てねえ」

 音楽室に帰ると、そこにいたのはアナスイ一人だった。部屋の真ん中、テレビの近くに置かれたソファの上で、片方の肘掛に頭を、もう片方に足を乗せて横になっている。
靴脱げよ、とクロエはアナスイの足を軽く叩いた。潔癖症なんかじゃあないが、土足で汚れた肘掛に肘をつきたくはない。それにそこそこ値の張るソファだ。アナスイは「金払ってねえくせによく言うぜ」と返しつつも大人しく足を下した。

「こっちにずれて」

「なんで」

「こっちの肘掛に足乗っけてたじゃん。汚いからこっち座れよ」

 足が乗っていた方の肘掛を指差して言うが、アナスイは「靴底は触れてないからいいだろ」と食い下がる。応じる気配はない。クロエが半ば無理矢理に退かそうとすると、退くどころかまた肘掛に足を置いてソファに寝転んだ。
 自慢じゃあないが、アナスイやウェザーと違って体力も筋力もあまりない。無理矢理どかすのは、文字通り、無理。

「お前さあ、このソファの持ち主誰だか知ってる?」

「お前は、このソファをここまで運んだのが誰だか知ってんのか?」

「やたら髪が長い殺人鬼でしょ。オレの目の前ででかい態度とってるやつ」

 ドアを繋げたのはクロエのアシッドマンであるにしても、展示中だったソファをインテリアショップの広いフロアの端からエレベーターの扉まで運び、そして更に音楽室のドアを通って部屋の真ん中まで運んだのは確かにアナスイだ。それは事実。
 しかしあくまで持ち主は自分なのだ。アナスイもエンポリオも運搬と場所の提供という功績に免じているだけのこと。

「オレが占領することはあってもお前が占領することはないの。お分かり?」

 一向にソファから起き上がる気配のないアナスイに痺れを切らせて、クロエはアナスイの腹の上に腰を下した。おい、と非難がましい声が聞こえたが無視だ。
 ついでにと持っていたスポーツバッグをアナスイの顔の上に乗せようとしたところで、観念したのかアナスイが手で制した。渋々バッグを床に落とす。使い捨てのバッグは毎回近場のショッピングモールから失敬しているものだが、今日のは少し大きすぎた。中身の少ないバッグは床に落ちると空気が抜けてべしゃりと潰れた。

「早くどいてよ」

「わかったよ……ったく……ウェザーにはいつでも座らせるくせに」

 小さく呟かれた言葉だったが、クロエの耳にはしっかりと届いた。

「……持ち主の勝手だろ。はーやーくー」

 腹の上から立ち上がろうとしたところで、不意に腕を引っ張られてクロエはバランスを崩した。そのままアナスイの体の上に倒れこむ。うぐ、と苦しげな声が下から漏れた。

「おま、いってえ……」

「なにやってんのお前……」

 鳩尾にでも入ったのか、痛みに悶えるアナスイに呆れる。自分でやっておいてなんてざまだ。普段はかっこつけてすかした態度をとっているくせに、時々妙に間抜けなことをするやつだと思う。
 早く退いてやろうと再び立ち上がりかけたクロエの腕を、またアナスイが掴んで引き止めた。

「……オレどきたいんだけど」

 アナスイは腕を放さない。仕方がないので、クロエは立ち上がるのを諦めることにした。どかないから姿勢変えろよ、と言うとアナスイは大人しくわずかに上体をずらした。ずるずると体を引きずるように起き上がったアナスイの足の間を縫って、なんとか膝を立てる。そういえば靴を履いたままだ。肘掛よりはマシだろうが、しかし座面にしたって土足はよろしくない。後で掃除用具でも盗ってこようかと考えていると、いつの間にかアナスイが真剣な面持ちでこちらを見ていた。

「……なんだよ」

「……別に……」

 別に、と言ったくせに、やはりアナスイはもう一言付け足した。

「……お前さ、何でウェザーが好きなの」

「好きじゃねーし」

「意味ねえ嘘つくなよ」

「じゃあその質問には何か意味があるわけ」

 自分の胸のうちを無意味に暴かれて嬉しい人間なんてきっといない。いたとしても、それは自分じゃあなかった。アナスイの言葉はクロエの心を無造作に踏み荒らす。だからいつも、クロエはアナスイの言葉を素直に肯定できない。それが全く意味のない抵抗だったとしても、しないよりはマシだと思った。

「興味本位か何か知らないけど、誰をどう思ってようがオレの勝手だろ。放っといてよ」

 クロエの腕を掴んでいた力が少し弱まる。やろうと思えばいつでも振り払えるくらい、ゆるい拘束だった。

「……最近、おかしいんだ」

 けれどそうしなかったのは、アナスイが静かに、ひどく深刻そうに話し始めたから。

「おかしいって、なにが」

「……オレがだよ。分解衝動がひどい」

「安心しなよ。お前がおかしいのは元からだから」

「違う!」

 アナスイが声を荒げる。感情的で、切羽詰っていた。

「最近オレの分解衝動がまたひどくなったのはお前のせいだよ。お前を見てると、イライラするんだ」

「……そりゃどうも」

 は、と浅く哂う。何を必死に言うかと思ったら、そんなこと。

「クロエ。ちゃんと聞けよ」

「ちゃんとも何も……」

 面と向かってお前がムカつくなんて告白されて、何をどう真剣にかればいいのか。顔を背けようとしたクロエをアナスイが急に手首を引いて向き直らせた。何がしたいのか分からない。

「お前のせいで、苦しい」

「……オレにどうしろって?」

「やめろよ。強盗も、雑誌盗ってくんのも、全部」

「……それとこれと、何の関係が、」

 ぐっと腕を掴む力が強まって、手首から先がじわりと痺れる。女子供ではないにしろ、無抵抗の人間の手首を力いっぱい握り締めるアナスイの心情はクロエには理解できない。痛いんだけど、と言ってみてもアナスイは力を弱めなかった。

「ウェザーの前でへらへらしてるお前が嫌なんだよ……その鞄、今日もまた行ってきたんだろ。ウェザーのために。それを何で本人に言わない?影でこそこそしやがって。あいつのためにやってんなら、そう言やあいいだろうが……金の詰まった鞄も、あの薄い雑誌も、全部!全部苛つくんだよ!!」

「……ウェザーのためじゃあないよ。オレのためだ」

「クロエ」

 アナスイの視線が、痛かった。感情がすぐ表に出るとは言っても、こんなあからさまに言葉をぶつけられたことはない。自分を名前で呼ぶことも、滅多に、ない。

「もうやめろよ……オレは、嫌だ」

 いつもなら、今頃このソファの上でウェザーとテレビガイドを眺めているはずだった。隣でエンポリオがゲームをする音がしていて、いつの間にか、アナスイがピアノの傍に立っている。そうして過ごすはずだった。こんな息苦しい時間は予定になかった。肌を刺す視線の中に、わずかに熱が篭っている。

「……なに、お前、オレに恋でもしちゃったわけ」

「……そうかもな」

「……は、……」

 肯定されるために言った言葉じゃあなかった。そんな馬鹿なことがあるかと、怒らせるためだった。あるいは白けさせるため。哂わせるため。万が一にも、肯定される可能性なんて、ないはずだった。

「……なんなんだよ、お前……」

 声が震えていた。何も考えられなかった。喋ったのは自分のはずなのに、どこか他人事のような気すらする。どこから変わってしまったのだろう。いつも通り、変わらないようにしてきたはずなのに。
 気づけば、アナスイの顔が間近にあった。

「クロエ」

 熱っぽい息がかかる。薄く濡れた唇が離れていく。
 変な気分だった。アナスイの瞳に涙の膜が張っていて、泣きそうになる。手のひらが少し汗ばむ。もう一度、重なる。そしてもう一度。たがが外れたように、何度も、繰り返す。貪る。
 アナスイの視線に潜んでいたあの熱が、肌を通して伝染ってくる。うだるほど、熱い。けれど頭の芯だけが冷え切っていた。



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