最近よく外に出ていたエンポリオが、珍しく音楽室にいた。
外へ出ると言っても、実際に橋の向こうまで出て行く自分とは違いエンポリオが行けるのは刑務所の敷地内だけだ。それを不憫と思ったことはない。アシッドマンのドアを通り抜けられるのは何も自分一人じゃあないし、過去に何人かを運んだこともあるが、それでもエンポリオが外へ連れて行ってくれとねだったことはなかった。特別内気な子供でもないし、外へ行きたかったら自分からそう頼むだろう。つまり今は、この生活で十分だということだ。
「勝った?」
ちょうどエンポリオのカートがゴールしたのが見えて、後ろからそっと話しかける。今の今までクロエに気づいていなかったのか、エンポリオは驚いたように勢いよく振り返った。いつまでも同じゲームばかりでいい加減飽きてしまったと零していたわりに、ひどくご執心だ。
「だ、だってほら、負けたら悔しいから……」
ごもっとも。けれど朝から晩まで延々と何年もやり込んでいるエンポリオが、今更時代遅れのコンピューターに負けるわけもない。
「CPU相手じゃ永遠に連勝だろ。オレが相手してやろうか」
「あ、えっと、うん……」
空いているコントローラーを拾い上げようとして、ふと違和感に眉を寄せる。エンポリオの相手をすること自体あまりないが、けれどそういうときは大抵「クロエじゃあ相手にならない」などと軽口を叩いて無邪気に笑うのだ。
もじもじとして落ち着きのない様子が訝しい。顔を近づけて何かあったのかと尋ねると、エンポリオはさっと顔色を悪くして「なんでもないよ!」と声を張った。エンポリオは素直じゃあないわりに、嘘もつけない。
「お前なんか隠してるだろ。なに、オレのソファにおねしょでもした?」
「ち、違うよ!僕もう十一歳なんだ。おねしょなんて……」
「ふーん?」
本当かなあ、とわざとらしくソファに視線を向ける。音楽室に居ついたばかりのころにインテリアショップから拝借してきたものだ。正確に言えば、盗んできた。まず発案者でありドアを繋げたクロエが持ち主で、ここまでソファを運び入れたアナスイにも座る権利があり、そして部屋の提供者であるエンポリオが毎夜そこで寝ている。普通の二人がけのソファだが、体の小さいエンポリオにはちょうどいいのだ。
「十一歳にもなって隠し事なんかするやつが、おねしょだけはしないなんて都合のいい話、あるかな」
まさか本気で言っているわけもなかったが、目の前の微妙なお年頃の子供を憤慨させるには十分だった。エンポリオはもともと高い声をさらに引き上げて「わかった、わかったよ、話すよ!」と叫んだ。
03 今宵よるの真中にて
「おいそこの精神異常者」
アナスイが音楽室に来るまで、五時間ねばった。うち四時間はエンポリオとゲームをして潰した。あらぬ疑いをかけられた上に口止めされたことを吐いてしまった子供のうろたえようと言ったらこの上なく、そんな状態なら自分が勝ってしまうかもしれないと思ったが、結局今日もまたエンポリオの全戦全勝だった。やるだけやって満足したエンポリオはソファの上で転寝している。
これ以上なく不機嫌なクロエと気持ちよさそうに眠っているエンポリオの顔を交互に見て、アナスイは訳が分からないとばかりに眉をひそめた。
「オレは精神鑑定で正常だった」
「あっそ。じゃあ性癖異常者だ」
アナスイの眉がわずかにつり上がる。感情がすぐ表に出るアナスイは分かりやすくていい。ウェザーとは大違いだ。
「なんだよ。やけに絡むな」
アナスイがおもむろに冷蔵庫の扉を開けて、すぐに閉じた。中に何も入っていなかったからだ。五時間の間に飲み干してしまったオレンジジュースも、エンポリオが隠そうとしたゴミ袋も。
「探し物はこれ?」
後ろ手に持っていた袋をゆらゆらと掲げてみせる。アナスイはぴたりと止まったまま微動だにしない。まばたきの一つさえ止めて、何て言おうか言葉を探しているようだった。
駆け引きは面倒だ。クロエは袋の中身を全て手のひらに出した。指の隙間から零れた小さな部品が床まで落ちて高い音を立てる。冷えた金属の音だ。つまむほどの大きさもない小さなねじや華奢な針、もとはベルトだった銀色のブロック。今手のひらや床に散らばる様子からは想像もできないが、ローマ数字の並ぶ文字盤を見ればかろうじて元の姿が分かる。
クロエが先日ここに置き忘れた、腕時計だった。
「オレのカルティエ、どこに行ったのかなあ……」
「……悪かった……」
視線を泳がせたままアナスイが声を絞り出す。でもそんな“いい物”置いとかれたら、と続けられてむっとする。まさか置き忘れた自分のせいだと言われるとは思わなかった。
「はあ?ナメてんの?いくらすると思ってんだよ」
「仕方ねえだろ……どうにもできねえんだよ」
「なに、ウェザーに言ったから?だからわざわざオレの時計バラしたわけ」
「違えよ!」
アナスイがゆるく頭をかきむしって、その場の壁へ寄りかかる。いつもならソファに座るところだがあいにく今はエンポリオが使用中だ。クロエも立ったまま、少しの間沈黙が流れていた。エンポリオの寝息が少し大きく聞こえる。
「……お前が、テレビガイド渡すために残ってると思ってたぜ、あいつ」
呟くように放たれた言葉は、しかしはっきりとクロエに向けられていた。乾いた笑いがこみ上げる。自分のことなのに誰に向けた嘲りなのか分からなかった。
「ほら、言った通り。ウェザーはそっちの心配してる。オレじゃあなくてね」
手を翻して持っていた時計の残骸を全て床にぶちまけて、エンポリオの足の側のソファのひざ掛けに軽く腰を下ろす。跳ね返ってぶつかって、いくつもの小さな音を立てながら部品が床を転げまわる。しばらくその音が静かな部屋に響いていたが、エンポリオの寝息は乱れない。よく寝ているようだ。
「そういうことじゃ……ねえだろ。自分が期待してるからお前が出て行けないのかって。お前のことだよ。雑誌のことじゃあない」
アナスイがこちらを静かに見下ろしているのを、肌に感じる。クロエは意味もなくテレビを見つめていた。エンポリオが舟をこぎ始めてからテレビの音量は切ってある。スタート画面で止まったきりのレーシングゲームは延々と同じデモンストレーションを無音で垂れ流していた。カートの並ぶスタート地点から、まずは直線。次にいくつかのコーナーを経て、難所のトンネルへ入る。
「なあ、ウェザーはお前のことが嫌いなんじゃあない」
「知ってるよ」
トンネルは視界が悪いから、初心者は大概ここで蹴落とされる。エンポリオみたいなプレイヤーだったら目を瞑っていてもゴールできるかもしれないが。瞼を下ろすと視界が閉じる。トンネルの中みたいに、真っ暗だ。
「いい人だよ。記憶はないし時々常識外れはことするし、話すとき顔近いけど、……」
その先は言わなかった。感情の理由なんて、説明しなくていい。
「ウェザーがオレのことを嫌ってないのなんて知ってるよ」
それどころか、好意すら持たれているということも知っている。
「でもさ、オレとウェザーは趣味仲間。一緒に雑誌眺めて、時々話すだけ。それだけだよ」
だってウェザーがそう思っている。
「……じゃあお前、観たこともないドラマの話をするためだけに、看守買収して、雑誌万引きしてくんのかよ」
「……一つ間違ってる。オレはドラマ見たことあるよ。強盗行ったついででね」
アナスイの言葉をそのまま肯定するのが癪で、ついそんな言い方をした。別に嘘はついていないからいいだろう。DVDのニ、三本くらいすぐにパクれる。さすがにテレビとデッキを盗むのは手間だから、ホテルや昔の自宅で観ることになるけれど。
「……頭おかしいぜ、お前」
そんなのは高級娼婦に通うようなものだと、アナスイが顔をしかめて言った。借金までして貢ぎ続ける馬鹿な男のようなものだと。
確かにそうかもしれない。ウェザーの隣にいたいがために毎回何万ドルも看守に渡している。おかげで他の刑務所での脱獄前科が二桁もあるのに懲罰室へは送られないし、ずっと房を空けて出歩いていても何も言われない。すべて上手くいっている。
「お前にだけは言われたくないよ。性癖異常者にさ」
「それ、やめろって」
すべて上手くいっている。
「……ウェザーが望んでるなら、趣味仲間でもなんでもいいんだ」
それ以外に何も接点がないような希薄な関係でいい。彼と何か一つでも繋がるものがあるのなら、それで満足だ。望まれない感情を押し付けたりしない。
エンポリオにはまるで隠し事をするのが子供のしるしのように言ったけれど、実際はまるで逆だ。隠すのはいつだって、複雑で、めんどくさい、いい年した大人の方だ。薄い布に包んで見えないようにして、冷たい場所に仕舞いこむ。誰にも見つからないように。
「……ばっかじゃねえの」
アナスイの憎まれ口は、妙に寂しげな音でクロエの耳に届いた。