ビビッドピンクは、あまり好きじゃあない。けれどドアからドアへ繋げられる、その能力はよく気に入っていた。ドアさえあればどこにでも行ける。アシッドマン、自分の半身。

02 流星に向かう


「もう、終わるのか」

 呟かれた言葉に、クロエはウェザーの手元の雑誌に視線を落とす。つい三ヶ月前に始まったドラマの特集ページだった。感動の最終回、と銘打たれたそれは若手俳優が主演のトレンディ・ドラマだったように思うが、クロエの記憶は薄い。覚えていないのはそれほど面白くなかったからだろうし、それだからワンシーズンで終わることになったのだろう。よくあることだ。一か八かで世に出して、だめならさっさと終わらせる。

「人気でなかったんだろ。そっちの……FBIのは、まだ続くみたいだけど」

 隣のページには続編製作中の文字が躍っている。ウェザーもそれに目を留めて「そうだな」と短く頷いた。そうして、会話が一つ終わる。
 人気の出なかったドラマと同じように、あっという間の短い話だ。ただドラマと違って、別につまらない内容だったわけじゃあない。ウェザーとの会話はいつもこうだった。冬の初めに降り出した雪のように突然手のひらに落ちてきては、すぐに溶けてなくなってしまう。
 紙面に視線を落とすウェザーの横顔を、クロエはぼんやりと見つめながら次のひとひらが落ちてくるのを待つ。色の薄い睫毛をたたえた瞼は白い。それだけじゃあなく、鼻筋も頬も骨ばった手の甲も、ウェザーの肌は全体的に赤みがない。彼のスタンドがああなるのも頷けるほどだ。あの透き通った白がクロエは一番好きだった。
 ウェザーが自分の視線に気づいているのかどうかは分からないが、気づいていたとしても気に留めていないのだろう。何枚かページを捲った先にあった番組表を見て、ウェザーが再び口を開いた。

「月曜のも水曜のもFBIだ。FBIばかりだな」

「現実的じゃあない方が楽しいんだろ」

 普通に生活する人間にとってみれば、だ。自分たちからすれば逮捕劇も逃亡劇もさほど現実離れしたものじゃあない。異常者やシリアルキラーなんて、ここには掃いて捨てるほどいる。
 普通の生活をしていたころの記憶の一切を失ったというウェザーが、その“普通の生活”を正しく認識しているのかどうかは分からない。分からないが、クロエはあえてそう口に出す。

「実際、面白くもなんともないのにね。逃亡生活なんて」

 そうして、この塀の中にある“普通”は世間一般のそれとは遠く離れているのだとウェザーにささやくのだ。それに本音でもある。少なくともクロエにとってはそうだった。水族館に入る前、嫌になるほど警察に追い掛け回されていたのを思い出す。初めの犯行は十五のときで、何も知らない馬鹿だったから証拠を山ほど残した。悪行は慎重に行うべきだ。今更ひっそり穏やかに暮らしたいとも思わないが、狭いモーテルの硬いベッドの上でけたたましいサイレンの音に目を覚ますのは不健康だったし、なにより逃げ続けるのは骨が折れた。
 水族館に入ってすぐ、脱獄と逃亡を主題にしたドラマが人気を博したときは何が面白いのか理解に苦しんだものだ。最も、苦しむ前に理解する努力を投げた気もするが。

「だが、君は脱獄しただろう。……」

「十一回も?」

「ああ、そうだ」

 最後のページまでじっくりと読み終わって、ウェザーがテレビガイドから顔を上げた。

「……どうして、ここからは逃げない?」

 銀行のドアから、自宅のドアまでを直通させる。それが銀行を襲うときの手口だった。どこにでもあるスポーツバッグに金を入れさせて、そこそこの額になったら悠々と銀行を後にする。ドアを開ければ一歩で自宅の玄関だ。追跡されようがない。お守りはモデルガンだったけれど、面白いくらいすんなりいった。
 初めて刑務所に入れられたのは二十歳のときだ。逃げるのに疲れて、警察が尋ねてきてもソファに座ったまま何もしなかった。けれどその日のうちに看守の目を盗んでドアを繋げて逃げた。
 そこからは同じような出来事の繰り返した。金がなくなって、銀行に行って、逃げて捕まってまた逃げて。水族館だって同じことだ。ドアのない建物なんてない。いつでも逃げられる。ただ、そうしなかったのは。

「……別に、理由なんてないよ。ただの気分」

 興味もないテレビガイドを盗ってきて、意味もなく眺めて、理由もなく隣にいる自分はウェザーからしたらそれは奇妙は存在だろう。自分でもよく分かっている。だから無理矢理雑誌という理由を作って、共に有するという意味をでっち上げているのだ。それにウェザーは気づいているだろうか。分からないが、ウェザーから拒絶なり制止なりをもらうまでクロエはこれを続ける気でいた。そのときが来たらきっと、何一つ持たずここを出て行くだろう。

「もしかして、オレのことが関係しているのか」

「……なんでそう思うの」

 一瞬の動揺を気取られないように、平静を装って質問で打ち返す。アナスイならきっと否定も肯定もしない自分に気を悪くしただろうが、ウェザーは違う。特に表情を変えることもなく、クロエの問いかけに口を割った。

「正直に言っていいものか分からないが……アナスイが、言っていた。クロエが逃げないのはオレのせいだと」

 あんたが理由だなんて、馬鹿正直に話せるわけもないのに。

「なんでそういうこと言うかな……」

 アナスイが何を考えてそう言ったのか分からないが大きなお世話だ。別にクロエはウェザーに胸のうちを晒したいわけじゃあないし、誰かに晒されたいわけでもない。興味もないテレビガイドを毎回盗ってきて読むのだって媚びたり貢いだりしているわけではないのだ。ただ、同じ場所に座って同じものを見ていたかっただけ。
 恐る恐る顔を上げるとウェザーと視線がかち合う。表情の変化に乏しい彼は、今日もまたいつもと変わらない。
 ウェザーが口を開きかけた矢先、アナスイが壁をすり抜けて部屋に入ってきた。これもまた一般的には現実離れしていても、自分たちには見慣れた光景だ。仕組みはよく分からないがこの音楽室のドアはただのお飾りで、その隣のくすんだ壁が入り口になっている。アナスイはこちらを見て何か察したのか、気まずそうに顔をゆがめた。

「待て、誤解だ。オレは別に――……」

「別に、なんだよ」

 いや、とアナスイが口ごもってる間にクロエは立ち上がる。下手な弁解は聞きたくない。もし仮に上手い言い訳だったとしても、それはそれで聞きたくなかった。

「アナスイ、ウェザーに言うことあるだろ」

「あ?」

「『再三言われたにも関わらず、こっそり他の囚人を分解しました』ってさ」

 げ、と蛙が潰れたような声を聞いてざまあみろと小さく笑う。おしゃべりな口へのささやかな報復だ。もしかしたらこれで気を悪くして強盗を続けていることを糾弾されるかもしれなかったが、どうでもよかった。違う話題に気をとられて、さっきの話がウェザーの中で薄れてくれればそれでいい。

「クロエ」

 けれどそうそう上手くもいかないか。振り向くと、ウェザーは真剣な眼差しでクロエを見ていた。

「オレのことは、関係ないのか?」

「……忘れてくれる? その話」

 アナスイがとちっただけだから、と付け足して薄く笑う。誤魔化し笑いは得意だ。アナスイが何か言いたげなのを背を向けて黙殺する。

「房に戻るよ。眠いんだ」

 追及するなと言外に込めたのが通じたのか、ウェザーが「そうか」とだけ頷くのが聞こえた。言った言葉は嘘じゃあない。今日はドアの方へはいかずに壁から部屋を抜け出した。出た先の階段の踊り場では、差し込んだ西日が宙に舞う埃をきらめかせている。眩しさに少し目が眩む。

「ばーか」

 せいぜいこってり絞られればいい。ウェザーは声を張り上げたり暴力に訴えたりはしないけれど、あの静かな瞳で見つめながら穏やかに説得しようとするから、逆にきつい。叱咤と折檻には慣れても彼には慣れない。気が滅入るし、それに何より、ウェザーを裏切りたくないと思うのだ。わずかでも彼を失望させたくない。
 アナスイと自分がウェザーに向ける感情は違うだろうけど、そこは同じだ。
きっとあの人は誰もが恐れ蔑む凶悪犯をただの人間として見ている。それも、他の人間とは一線引いた存在として。

「オレはウェザーを裏切ってるのかな」

 答えはない。静かな廊下は、クロエの声をわずかに反響させただけだった。



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