父親が連れてきた看護婦がにこにこ笑ってシャッターを切る。ベッドの母を囲んで一枚、ランドセルがよく見えるよう横向きになって一枚、そして病室の隅にあるソファに四人で集まって一枚。来る途中のコンビニで買った使い捨てカメラはまだまだフィルムが残っていたから、あとは母が子供二人の写真を撮ったり、ランドセルにも持ってきた絵本や玩具にも飽きてしまった億泰がおもちゃにしたりして、面会時間が終わるころにやっと使いきった。
 撮った写真はいつ見れるのかと形兆が聞くと、父親は来週の日曜までには現像しておくと答える。母に見せるためなのだとすぐ見当がついた。帰り道ではトランクに積んだランドセルの箱が時折ガタガタと音を立てたが、母の回復の兆しやランドセルを背負ってみせたときのあの嬉しそうな顔を思うと、形兆にはとても心地のいい音に思えた。







 その週の水曜日のことだった。いつものように幼稚園のバスで家に帰り、おやつを食べながら少し時間を潰して、近所の公園に行く。その日やったのは新聞紙で作った兜や剣を装着してのごっこ遊びといつもの宝さがしだ。宝さがしの方は自然と新しいルールや遊び方がいくつか出来て、毎日それを順繰りにやっている。他の二人が目を瞑ってる間に残りの一人が宝を埋めるとか、おもちゃによって点数を決めて、単純な数ではなくその点数の合計で勝者を決めるとか、そんな具合だ。
 数での勝負では大抵負け越す形兆も点数制だと勝てることがあって、そのルールに決まったときはいつもより真剣に砂場と顔を突き合わせた。日が傾いて影が長くなってきたころ、形兆は十点のおもちゃを掘り当ててトップの座に躍り出た。このまま行けば勝てるだろう。遊び遊びと分かっていてもやはり嬉しくて、なおさら真剣に砂へ手を突っ込む。そのときだった。

「形兆!億泰!」

 公園の前に白い車が一台止まったかと思うと、中から父親が出てきて自分たちの名前を叫んだのだ。突然のことに形兆も億泰も反応できず、硬直する。仕事に行っているはずの父親がなぜここへ来たのか、そしてなぜ怖い顔をしてこちらへ向かってくるのか、なに一つ分からなかった。
 砂だらけの手を無理矢理つかまれて立ち上がり、そのまま引き摺られるようにして公園を後にする。

「おとうさん、なに?なんで?まだあそんでるよ!」

「いいから!早く来なさい!!」

 泣き出しそうな声色の億泰を一喝して、父親が乱暴に車のドアを開ける。乗り込む直前に形兆が公園を振り返ると、砂場に残された千昭がぼんやりと手を振っているのが見えた。振り返したかったが、運転席の父親の雰囲気が肌を刺すようにピリピリしていて、形兆は何もできずに遠ざかっていく公園を窓越しに眺めていた。







 駆け込んだ病室には珍しく人がたくさんいて、一斉に注目された形兆は思わず身がすくんだ。病院の大人たちが母のベッドの周りを囲んでいる。
 医者が何か言って、父親が崩れ落ちるように母の枕元へしがみついた。形兆と億泰は何がなんだか分からず部屋の中をきょろきょろ見回していたが、父親の嗚咽が大きくなるにつれてその感情が伝染してきて、わけもなく目から涙が溢れ出した。看護婦たちが出て行って家族だけになってしまうと、ますます部屋の中が暗く寂しくなった。

「とうさん……どうしたの、なんで……泣くの?かあさん具合わるいの?おきちゃうよ?……とうさん……」

 大丈夫だよ、なんでもないんだよ、と言ってほしかったのだ。けれど形兆の声に反応した父親は、一度振り返ったものの悲痛な表情で何度かうめいたきり何も言わず、またベッドに突っ伏して泣き始めた。見放されたような心地になって、形兆の目にも涙が浮かぶ。億泰はとっくに泣き出していた。
 父親が泣くのを見たのは初めてだった。二人とも、母親の様子がいつもと違うことより、そっちの方が悲しくて泣いたのかもしれない。億泰は大きな声を上げて、形兆は唇をわななかせて一緒に泣いた。それぞれの激情が交じり合って部屋の中がぐちゃぐちゃになる。母親だけがとても静かで、穏やかだった。







 朝になり、カーテンの外が明るくなってきたのを見て形兆はそろりと布団から抜け出した。父親はまだ起きていないようで、リビングはしんと静まり返っている。薄暗い部屋の中に置かれた大きな花の固まりが白く浮いて見えた。手入れもせずに放っておいたせいか、花弁が少し萎びてきている。冷蔵庫から麦茶を出したらピッチャーが空だったので、仕方なく水道水をそのまま飲んだ。
 家の中が止まっている、と形兆は思う。冷蔵庫の中身は減る一方で、箱の中のみかんもそろそろ底をつき、洗濯物と惣菜の容器ばかりが増えていく。父は仕事を休み、形兆たちは幼稚園を休んで三人ともが家にいるのに、家の中が止まっている。長いことそうしているような気がしたが、カレンダーを指でなぞってみるとあの日からまだ一週間も経っていなかった。

「形兆」

 振り向くと、起き抜けの父親が形兆のそばを通り過ぎてコンロの前に立つ。

「なにか食べるか」

「うん」

「ちゃんと寝たか?」

「あんまり」

「そうか。寝たくなったら、寝てもいいからな」

 今日は母さんにさようならをするから。水を入れたヤカンが火にかけられる。父親もろくろく眠れなかったのだろう、顔色が悪く、開ききらない瞼は厚ぼったく腫れているのに瞳は落ち窪んでいた。形兆はすっと目を逸らし、コンロの青い火の連なりを意味もなく見つめた。

 空は晴れていた。家の前にお寺のような飾りを積んだ大きな車がやってきて、中から出てきたスーツの大人が父親に話しかける。億泰と二人で車をじろじろ眺めていると、窓ガラス越しの運転手に苦笑された。話が終わったらしい父親に呼ばれて車に乗り込む。中は広々としていたが、母親の木の箱を積むと普通の車と同じくらいの狭さになった。
 顔のあたりにある小さな窓を億泰が開けようとして、父親にたしなめられる。さっきも見ただろう、と言われて。本当は形兆も母親の顔を見たかったのだが、それを見て静かに座っていることにした。
 長い長いクラクションが空気を割ったあと、ゆっくりと車が動き出す。でこぼこした道の上を走ると木の箱がカタカタ小さく揺れた。ちゃんと固定しているせいか、ランドセルの箱を父の車に積んだときよりずいぶん小さな音だった。それなのにどうしてか妙に耳につく。
 空は晴れていて陽は温かく、道々の木が淡い色のつぼみをつけ、風もなく、とても爽やかな午前なのに、車の中だけがどこか違った。誰もが無言で何かを我慢していて、空気がじっと停滞している。家の中と同じだ。止まっているのは家の中や車の中ではなく、自分たち三人なのだと形兆は気づいた。
 箱の中で眠る母は、これからどこかへ行ってしまうのだという。納得できないことばかりだった。ピクニックへ行く約束が果たされないらしいことも、折角病院から帰ってきた母をこうしてどこかへ送り出そうとしていることも。ずっと眠っているのなら、家のベッドにいればいいのに。ベッドじゃなくてもいい、なんなら物置を一つ綺麗にして、そこを母の場所にすればいいのに。
 それになにより、この前の日曜日に撮った写真を、母はまだ見ていない。父はちゃんと現像に出した写真を箱の中に入れていたが、母は目を閉じたままだ。
 写真を見て喜ぶ母の姿を想像してずっと楽しみにしていたのに。こんなんじゃあだめだ、と思う。どうすればいいのかは分からない、けれど、だめだ。写真を撮って、それを見て、アルバムにしまうまでが一纏まりなのだ。きちんとやることをやらないといけない。母が見てくれないとこの写真は終わらないのだ。母と一緒にどこかへ行ってしまっても形兆の中ではいつまでも宙ぶらりんのまま。
 だからまだお別れなんてしちゃあいけないのだ。
 なのに車は進んでいく。納得のいかないことばかりだ。中途半端なことばかり。けれどそれに憤る元気はなかった。この動かない空気をさらに重苦しくする勇気もない。
 形兆は黙って窓の外を眺めた。隣で億泰が窓に指をくっつけてずりずり動かしているので、何をしているのかと聞いてみると電線をなぞっているのだという。形兆も首を傾けて上の方を見上げた。空が青い。


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