耳障りなベルの音で、形兆は目を覚ました。のろのろと布団を抜け出し、リビングまで歩いていく。鳴っていたのは電話だった。反射的に受話器を取る。はい、にじむらです、と言うと、相手は虚をつかれたように一瞬言葉につまった。

「ええと……虹村さんのお子さんかな?」

「はい。こどもの形兆です」

「そうですか。形兆くん、お父さんはいますか?」

 多分、いるとは思うが。形兆はシンク周りに置きっぱなしの酒瓶をちらりと見て無言になる。ここ数日、父親は夜遅くに酒を飲んで、昼間はずっと寝ているようだった。今も寝ているに違いない。

「……たぶん、ねてるとおもいます」

 形兆がそう言うと、相手は「あとで掛け直します」と言って早々に話を切り上げた。受話器を元に戻して、形兆は唇をむっと固く結ぶ。廊下に顔を出して、父親の寝室のドアをにらみつけた。
 父親に今のことを言うべきか否か。普通に考えたら言うべきだ。大事な電話だったかもしれないし、伝えなかったら掛け直してもらったときにもまた父親が電話に出れないかもしれない。言うべきだ。それはよく分かっている。
 それでも形兆の足は動かなかった。とばっちりを受けたくなかったのだ。酒を飲んだあとの父親はちょっとやそっとじゃあ起きないし、起きたら起きたで機嫌が悪い。具合も悪いようで、それがさらに機嫌の悪さに拍車をかける。
 悩みに悩んだ末、形兆は新聞紙の間から裏が白紙の折込チラシを引っ張り出して、そこに電話があった旨を書いた。目立つところに置いておけば気づくだろう。そのあと十二時を過ぎても父親が起きてこなかったので、「こうえんへあそびにいってきます 12じ20ふん」と書き加えて、形兆は億泰と家を出た。







 公園で千昭と合流すると、昨日とは違う散歩のコースを提案された。「今日はおはかにいくから、近道のほうにしよう」とのことだった。昨日も昨日で「近道を通った」と言っていたじゃあないかと一瞬思ったが、千昭にとってはどちらも近道なのだろう。形兆は深く追求しないことにした。

「形兆、今日はにもつ少ないんだね」

「ああ……昨日いらなかったやつは置いてきた。すいとうとか、よびのティッシュとか……」

 そうすると幼稚園のカバンより一回り小さいカバンで十分だったので、今日はそっちを持ってきていた。億泰と千昭は相変わらず手ぶらで身軽そうだ。

「ねえ、きょうもねこいるかな?」

「いるんじゃあない?」

「にぼしもってる?」

「もってるよー」

 じゃあ、しゅっぱつー、と千昭が間延びした声で言って、億泰が「しゅっぱつー!」と元気よく続ける。形兆は「おう」とだけ小声で言った。

 マンションの公園へ向かっていた昨日とは違い、寺への道を歩いているからか、昨日とは全く景色が違っていた。違うと言ってもやはり道とも呼べない道や他人の家の敷地ギリギリのところをくぐり抜けていくのは同じだったが。だからだろうか、果たして今日も形兆たちは猫に会うことができた。ただし昨日とは違う猫のようだ。色は似ているが模様が違う。
 「ねこだ!」億泰が一目散に駆け寄っていく。すると猫は素早く塀の上にジャンプして、億泰の手の届かないところまで登ってしまった。ねこー、ねこー、と言いながら億泰が飛び跳ねるが、絶望的なまでに届く気配がない。

「億泰、おどかしたらねこ逃げちゃうよ」

「ううーん……ねこ、おりてこないかなあ」

「にぼしでおびき寄せたらいいんじゃあないか」

 千昭が頷いてポケットからまた煮干しの袋を出す。途端に猫が鼻をひくつかせてこっちを見た。千昭が煮干しを一つ手にとると、塀の上で首を伸ばして様子を伺ってくる。千昭は煮干しを億泰に手渡した。

「億泰、ねこがちかくにきても、にらめっこしちゃあだめだからね。目はみないでなでるんだよ」

「わかった……!」

 億泰が真剣なまなざしで猫を見上げて、「あっ」と慌てて目を逸らした。猫が降りてきやすいように三人とも塀から少し離れる。形兆も猫をあまり見ないようにとそのへんに視線を泳がせていたら、千昭と目がばっちり合った。億泰を挟んで一瞬見つめ合う。千昭の方が先にふふっと笑った。

「あっ!きた!」

 猫が塀から下りてきた。億泰は「みてないよ〜、おれ、みてないよ〜」と言いながらわざとらしく顔を上に向けて、手に持った煮干しをゆらゆらと揺らす。しかし猫は警戒心が強いのか、なかなか飛びつこうとしない。
「地面においておいたら、たべるよ」と千昭がいい、億泰が不安げにしながらもアスファルトの上に煮干しを置く。途端に猫が近づいて口をつけた。

「ほんとだ!たべたー!」

「よかったねえ。あ、なでるときは、やさしくなでるんだよ。おでこと背中がいいよ」

 千昭のアドバイスに従って、億泰が煮干しに夢中の猫をなでる。「ねこだ! ほんとにねこだ!」とはしゃぐ億泰がうらやましくなって、形兆も手を伸ばした。しっぽの近くをこしょこしょくすぐってやる。気持ちがよかったのか、猫はその場に座り込んで、しばらくされるがままにしていた。
 二本目、三本目の煮干しもその猫に食べさせてから、千昭が「もうおわり。いくよー」と立ち上がる。やっと猫に触れた億泰が不満そうな声を漏らしたが、「おかあさんのおはかにいくんでしょ?」と言われてすっくと立ち上がった。

「そうだった。いそがなきゃ!」

「いそがなくてもだいじょうぶだよー。まだひるまだもん」

「昨日もそういって、日がくれたじゃあないか」

「あれ?そうだっけ?でも、いまは本当にひるまだよ」

 確かに、それはそうだ……けど。今日はちゃんと時間を確認して、千昭ののんびりに惑わされないようにしようと形兆はひそかに決意した。袖の中で腕時計がちくたく動いている。







「ああ、来ましたね。いらっしゃい」

 寺に着くと、門の前で昨日の男が待ち構えていた。竹箒でもって石畳の上の砂利を掃いている。

「こんにちは、おじさん」

「こんにちはー」

「……こんにちは」

「はい、こんにちは」

 来る途中で危ない道は通らなかったか、車にはちゃんと気をつけたかと男が聞いてきて、千昭が一つ一つ「とおらなかったよ」「ちゃんときをつけたよ」と答えていく。実際、あの草の丈が高くてでこぼこした獣道や人の家の塀の上なんかは“危ない道”の部類だと形兆は思うのだが、やはり千昭にとってはそうでないのだろうと余計な口は挟まないでおいた。面倒だったとも言う。

「ね、ねえ! おかあさんのおはか行くんでしょ? はやくいこうよ!」

「はいはい。ちょっと待っててくださいね、準備をしてきますから」

「はやくね!はやくしてね!」

 うずうずと体を揺らしながら急かす億泰に男が笑いを零す。「じゅんびって、なんだろうね!?」と落ち着かない様子の億泰に「さあ、なんだろうね?」と千昭がおうむ返しをする。

「いろいろあるんだろ。億泰、ちょっとはじっとしてろよ」

 手ぶらの億泰と千昭には分からないだろうが、荷物持ちの形兆にはよく分かる。出かけるには準備が必要なのだ。
 千昭の方は一応物を持っていることには持っているから、正確には手ぶらではないのかもしれないが……。しかし億泰と一緒くたにして構わないだろうと形兆は判断した。というかのんびり屋の野良猫構い倒しグッズと用意周到な自分の持ち物を同列に扱いたくない。

「億泰、形兆、グリコやろー」

「やる!それ、なに?」

 じっとしてろと言われたあとも落ち着きのなかった億泰が、ぴたりと止まって千昭の方へ向いた。
 そのあと千昭によるグリコ講座が開催され、男が帰ってくるまでに形兆たちは門から賽銭箱までを三往復した。


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