マンションのところで千昭と別れたあと、形兆と億泰は帰路についた。男も一緒だ。薄暗くて危ないからという言葉通り、すっかり日が落ちて街頭に明かりが点き始めている。
 昼間から動き回って疲れきった億泰は、男の背中でぐっすりと眠っていた。億泰を起こさないよう、男は小声で形兆に話しかける。

「お父さんは、どうしてるの?」

「……家にいるよ。でも、寝てるかもしれない。つかれてるから」

「そうかい。形兆くんも、今日は早めに寝ましょうね。明日、朝寝坊しないように」

「しないよ。寝坊なんか、したことない。億泰はよくするけど」

「そうなんですか。えらいですねえ」

 会話が途切れて、静寂に包まれる。億泰がううんと寝言を漏らしたのが聞こえた。形兆は男におぶられた億泰をちらりと見上げた。それから前に視線を戻す。
 こうしていると、自分がひとりぼっちになったような気がした。億泰のことも千昭のことも、父親のこともだんだん遠ざかって小さくなる。反対に大きくなったのは自分のことだ。自分が感じた疑問と、苛立ちと、もやもや。

「おじさん」

「なんでしょう」

「……母さんは、結局、どこにいるんだ?」

「さっき話したとおりですよ。形兆くんがいると思ったところにいます」

「じゃあ、今ここにいるっておれが思ったら、ここにいるの」

「そうですよ」

「……うそだ。そんなわけない。そんなわけないよ」

 形兆はその場に立ちすくむ。鼻がつんとして、目頭が熱くなった。泣きたくなんかないのに、瞼が湿り気を帯びてくる。男に泣き顔を見せたくなくて背を向けた。ごしごしと手の甲で顔を拭って、なんでもなかったような顔をして、男に向き直る。

「嘘なんて、ついてませんよ」

「う、うるさい。うそつき。うそばっかりだ」

「本当に、ついてませんよ、嘘なんて。……ほら、行きましょう。本当に暗くなってきてしまった」

 男がすっと手を差し出す。二回目だ。形兆は今回も手を取らなかった。男を置いたまま先を歩く。とはいっても、相手は大人だからすぐに追いつかれてしまうのだが。
 それから家に着くまで、形兆と男は何も話さなかった。途中の十字路で男が進路を聞いたくらいだ。形兆は無言で右を指差して、それきりだった。億泰も最後まで起きなくて、結局、家に帰ったとき玄関に出てきた父親に引き取られてそのまま部屋に抱っこされていった。きっと朝まで起きないだろう。
 男のことは、好きじゃあなかったが。一応礼儀正しくしなければと思った形兆は「送ってくれてありがとうございました」と軽く頭を下げる。

「いえいえ。いい運動になりました」

「……じゃあ、……さようなら」

「形兆くん、ちょっと」

 男が手招きをする。形兆は顔をしかめつつも、男に近寄った。男は形兆の前に屈みこんで、形兆の目をじっと見て、静かに言った。

「お母さんのこと、本当ですよ。本当に、君のいると思ったところにいるんです」

「まだ言うの?……もう、いいよ。そんなの、しんじないよ」

「どうして嘘だと思うんです?」

「だって……証拠がない。見えないんなら、いるかいないかなんてわかんないだろ。“どこにでもいるけどどこにもいない”って、めちゃくちゃだし、それに、いると思ったところにいるなんて、おかしいよ。そんなの、ありえない」

 後ろから父親が歩いてくる音がして、形兆は一瞬振り返る。早く帰ってほしかった。父親の今日の機嫌はあまりよくない。多分、億泰が知らない人におぶられて、しかも寝入っていたせいだろう。
 形兆はそわそわしながら早く会話を切り上げようとした。「だから、うそだ」

「なるほど。君は、証拠がほしいんですね」

「そうだよ」

「じゃあ、君の言う“ありえない”の証拠はありますか?私の言うことが絶対嘘だという証拠は、見つけられますか?」

「え?」

「明日またお墓に来るでしょう?考えておいてくださいね」

 では、と笑って男が玄関を出る。
 入れ違いに廊下へ顔を出した父親が形兆に「おい」と声をかけた。それではっとして、慌てて靴を脱いで廊下に上がる。鋭い目つきの父親に着替えてこいと言われて、形兆は一目散に子供部屋へかけこんだ。パジャマに着替えさせられた億泰が、二段ベッドの下でぐっすりと寝ている。電気は点けずにタンスを漁って、自分のパジャマを引っ張り出す。

「……“ありえない”の証拠?」

 男に言われたことをぼんやりと考える。分からなかった。言ってることがおかしいから、ありえない。それ以上は分からなかった。言ってることがおかしいと思う理由は、言ってることがおかしいから。それだけだ。
 ボタンを掛け違えているのに気づいて、最初からやり直す。もたもたしているうちに父親が晩御飯を用意したらしく、形兆を呼びに来た。五つあるボタンのうち三つを父親にかけられて、そのままキッチンへ行く。今日はカップラーメンだった。


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