空には無数の虹が浮かんでいるのに、あのとき彼女と見た、切り取られた空の中、遠くに佇む小さな虹が網膜に焼き付いて離れない。
最後の瞬間。かすむ視界の中で、彼女の瞳の色を思い出していた。
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「だから無理だって言ったろう」
四人乗りの車に無理やり招きいれた男女を一瞥して、アナキスが言った。「アナキス、何も今言うことないでしょ」アイリーンがやんわりと嗜めると、少し唇をとがらせて、また前を向き直る。
「すみません」
「いいのよ、一度乗せると言ったんだから」
今さら降ろすなんてできないわ、と柔らかく微笑むアイリーンに、彼女がほっと安堵したのが見える。
運転手はアナキス。助手席にウェザーが乗って、後部座席に女三人が詰めるようにして座り、アイリーンの膝の上にエンポリオが座っていた。始めはむず痒がっていたエンポリオも、無理やり抱き込められて抵抗を諦めたらしく、恥ずかしそうにしながら俯いていた。
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「虹を、見に行こう」
勢いに任せてそう言った言葉によって、ウェザーと彼女は、三ヶ月ある夏期休暇を丸々使って旅をすることにした。正確に言うと、旅に出る準備や新学期の準備の期間を除いた二ヶ月と少しといったところだが、それでもかなりの長丁場なのに変わりはない。
あまり気心の知れたわけでもない異性と、二人きりで二ヶ月以上。しかし不思議と、不安はなかった。なぜかは分からない。ただ、お互いに厄介な体質だということに感じるシンパシーが、二人をやわく包んでいた。
虹を見つけるための、旅。
突拍子もないし、わざわざ遠出をしなくても雨が上がれば見えるじゃないかと、大半の人間にはそう思われるだろう。しかし彼女にとっては事情が違うのだ。なるべく空がよく見える場所に行く必要があった。少しでも、虹が見える可能性を広げるためだ。彼女と自分のところだけ局地的に雨に降られたとしても、もしかしたら少し離れたところでは虹が出ているかもしれない。どこまでも地平線の見渡せるようなところにいれば、その遠くに出た虹も見えるかもしれない。そんな考えから出た、旅だった。
周囲には、観光旅行だ、と言っておいた。長期休暇に、男女二人きりで大陸横断。恋人同士の旅行にしては大業すぎて色気がないし、かといって男女二人きりで何もないはずがない・・・もともと“よく分からない”人間天気予報と雨女の、さらによく分からない旅行計画に複雑な顔をする周りの人間が、少しおかしかった。
街を出てから、列車やバス、ヒッチハイクで車やトラックを乗り継いでいろんなところへ行った。海辺、湖、山のふもと、ゴーストタウン、三百六十度何もない、ただの平地。雨が降るたび、止むたびに空を見渡して、虹が出ていないか見て回った。
まだ、虹に出会うことはできていなかった。
もちろん、自分は虹を幾度となく見たことがある。雨が止む瞬間も、どんな雨の後に虹が出るかも分かるのだ。その感覚の赴くまま空を見上げれば、虹を見つけることは難しくない。しかし不思議なことに、彼女と共に行動していると、なぜか虹の出る時間も、場所も、なにもかもが掴めなくなってしまうのだった。
頭がかすみがかったように、そこだけ天気が分からない。
更に降り続く雨の中、虹を探すのは困難を極めた。街中では適当な宿を取ったり空き家に入り込んで雨をやりすごしていたが、困ったのは周囲に何もない平地にいるときだ。
そう、例えば、さっきこの車に拾われるまで、ずっと立っていたような。
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しばらくバッグを担いでいた右肩が少し凝っている。そのボストンバッグは、ウェザーの分も彼女の分もトランクの中だ。
両親に結婚の挨拶をするのだというアイリーンとアナキスは、結婚を許されようが許されまいが一週間ほどアイリーンの実家に滞在するらしく、それなりにトランクは詰まっていた。そこに無理矢理新たに二つ大きなバッグを詰め込んだものだから、アナキスは少し複雑そうだ。
きっと、これは彼の車なのだろう。少し悪く思いながらも、ウェザーは車を気遣わないアイリーンに心中で感謝した。
ミラーを覗き込むと、後部座席の三人とエンポリオが映る。女三人かしましく、先ほどから絶え間なく続けられるおしゃべりが、車内のBGMだった。
三人が三人喋るというよりは、アイリーンたちが話し、彼女が相槌を打つ、という感じだったが、にぎやかなことには変わりない。
アイリーンの結婚のこと、それぞれの家族のこと、そしてこれから行くところのこと――絶え間なく続けられる会話の中、「あ、」アイリーンが浮き足立ったように声を上げた。
「虹!」
虹。いつしか二人とも使わなくなった言葉だった。それが今聞こえてくるとは思わず、驚いて窓の外を見て、思わず目を疑った。
虹だ。
青みがかった灰色の雲の切れ間から、淡い金色の日差しが輝くその下で、うっすらと虹が佇んでいる。
あんなに見つからなかった虹が、今確かに空に走っていた。
「本当だ」エンポリオが窓に張り付くようにして、虹を見上げる。アナキスは運転中だからか、ちらりと一瞥しただけだった。「え、どこ?どこだ?」とせわしなく動く女の隣で、彼女も虹を見ていた。
虹の中では細く短い、あまり立派とはいえないものだったが、それでも彼女はじっと虹を見つめていた。
「初めて見た・・・」
呟かれた言葉は淡々として、感慨や感傷は感じられない。けれどその響きは、ウェザーの鼓膜を甘く震えさせた。
彼女は今、確かに虹を見ている。
隣で、「嘘だろ」とからかうように女が笑った。雲間から漏れ出す陽を浴びて、色の淡くなった瞳が、瞼の裏に隠れる。
「そうかもね」
口元をほんの少し綻ばせて、彼女が笑ったのを、ウェザーは車のミラー越しに見ていた。屈託のない、穏やかな笑みだった。
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アイリーンの実家に一泊し、そのあと二人はまた平地に戻ってきた。
もう、「虹を見つける」という当初の目的は果たしてしまった。目的のない旅路に続きはない。家まで真っ直ぐに戻ることができるバスの停留所に立って、ウェザーは地平線を見つめていた。
「これから、どうしようか」
確かあのあたりの方向に、あの日虹が出ていたのだ。今はまた灰色の雲が辺りにひしめき空を多い隠しているが、確かにあのとき、青白い空に一閃の虹が出ていたのだ。
「君が帰りたければ、そうしたらいい」
「・・・・・・」
あてつけや卑屈からの言葉でないことは、多分伝わっているはずだ。その証拠に、彼女は少し上機嫌に、ウェザーの前へ回り込んできた。
「もし、ウェザーがよかったら、なんだけど・・・」
朗らかな表情と裏腹に、口調は少し自信なさげだ。黙って続きを促すと、「今度は虹の、根元を探すっていうのは、どうかな」不安と期待をいり混ぜたような声色で、彼女は言った。
「根元か」
「うん」
「虹を見つけるよりも、更に大変だな」
「・・・うん・・・、やっぱり、」
だめだよね。そう動こうとした彼女の口元に、右手を添えた。驚いてびくりと身体を揺らした彼女に構わず、親指でその唇をなぞる。柔らかくも、長旅で少しかさついていた。
「だめだとは、言っていない」
「ウェザ・・・っんむ」
親指で唇を押した拍子に、変な声が漏れた。思わず笑いがこぼれる。
「やめてよ、もう」
添えていた手をぱっと掴まれて、頬から離された。無くなった温度が少し名残惜しい。
「悪かった」
そう正直に謝ったはずなのに、彼女はお気に召さなかったようだった。
「悪いと思ってないでしょ」
「思ってる」
「・・・思ってない」
「思ってる。本当に悪かった。金輪際、君に触れないと誓う」
「・・・そこまで、言わなくてもいいけど・・・」
なんとなく照れくさくなってきて、二人で顔を見合わせたあと少し笑った。
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ぽつりぽつりと、雨が降ってきた。灰色の空はますます陰りが強くなっている。今度の雨は、大きいかもしれない。ボストンバッグからレインコートを出して、急いで被る。アイリーンの実家にあった、今は使っていないというレインコートだ。見かけは古いもののこれがなかなか丈夫で、アイリーンにはいつかお礼をしなければならない。彼女の両親が若いときに使っていたというコートは、色違いのおそろいだった。
傍から見たら、やはり恋人か兄妹のように見えるのだろうか。そんなことを思いつつも、停留所を後にした。家にはまだ帰らない。新学期まで、あと十六日。彼女がいれば、雨はいつでも降ってくる。虹を見るチャンスはきっとどこかにあるはずだ。その根元にだって、いつかきっと行ける日が来る。また適当なところでヒッチハイクをして、どこか遠くまで乗せていってもらおう。
少し先を歩いていた彼女に追いついて、隣を歩く。雨が強くなる。向かう先は晴れ間の覗く空の向こうだ。遠くに見えるトラックに気づいて、彼女がスケッチブックを出した。雨が入らないようビニルで包装した大きなスケッチブック。「乗せてください」とだけ書いた、ヒッチハイカーの必需品。
トラックの運転手がこちらに気づくまで、あと三百ヤード。
(end)
(110813) 虹の根元で降ろしてくれ