突然目の前に現れた人間に、僕は咄嗟にヘブンズドアーをかけた。
中を見てびっくりだ。本名から誕生日、スリーサイズ、そして嫌いな食べ物に至るまで、彼女は僕の漫画のヒロインそのままだった。
ラプソディ
なぜ急に漫画のキャラクターが現実に現れたのかはさっぱり分からないが、ともかく彼女は本物だった。彼女を一から作った僕がそう言うんだから、間違いない。
いや、一から作ったと言うのは、少し言い過ぎかもしれない。彼女の外見や性格の一部分は、杉本鈴美を始め、今までヘブンズドアーで人生を読んできた女たちを参考にしているのだから。
しかし材料がなんであろうと、散々こねくり回して僕の漫画に登場するにふさわしい人物に仕立てたのだから、彼女はもはや完全なオリジナル、フィクションだ。そのフィクションがノンフィクションになったわけで、これはとてつもない貴重な体験だった。
僕は高揚する気分を押さえながら、彼女の人生を、僕が作り上げた一人の人間を読んでいく。
けれど気づいてしまった。彼女の人生は、虫食いだらけだ。漫画で描いた出来事はちゃんと(彼女にとっての)現実の経験としてページに載っているのに、本編の中で生かし切れなかった設定や、本編には書かれていない日常の出来事がほとんど載っていなかった。
何より彼女の人生の本に書いてあったのは、「経験」というより「情報」だった。まるで辞書や新聞のように、感情のない文字列だった。
僕は、僕はリアリティを追求する漫画家、岸辺露伴だぞ。この岸辺露伴が生み出したキャラクターにリアリティが、感情がないだなんて、信じられるものか。
しかしヘブンズドアーで開いた人生の本に嘘偽りはない。僕は現実を認めざるを得なかった。屈辱的だった。なんとしてでも、彼女のリアリティを追求したい、彼女を本物の人間にしたいと思った。
まず、彼女に「岸辺露伴を自分の生みの親だと認識する」と書きこんでヘブンズドアーを閉じる。ふっと目を覚ました彼女が起き上がり、色素の薄い双眼が僕を見た。
「はじめまして、先生、こんにちは」よし、僕が誰だか分かっているな。
「私、どうしてここにいるんですか?」そんなの僕の方が知りたいよ。
僕は、少しぎくしゃくとして人間味の薄い彼女を、ひとしきり観察し、表情やしぐさの一つ一つをスケッチし、少しの会話を交わしたあと、机に向かった。
彼女に何を足してやれば現実の人間に近づくかはだいたい分かった。
椅子に深く腰かけて心を落ち着けると、僕は彼女が主人公の短編漫画の構成を練り始めた。このときの僕のポテンシャルは素晴らしく、一時間後には黒々としたインクで白紙の原稿を埋めていた。
二時間、四時間、八時間…何時間経ったかなんて覚えていない。電話のベルもチャイムの音も、近所の子供が近くで遊ぶ声も、何も聞こえていなかった。ただ、だんだんと頭がぼうっとして、指先が震えてきたのを感じていた。食事を抜いたのはよくなかったかな。
でももう少し、もう少しなんだ。彼女の経験を、記憶を、感情を、僕は精魂込めて、原稿に叩きつけた。
短編と言うにはページが多くなりすぎたが、まあいい。人生のあらゆる虫食いを、これで全て埋めてやるのだから。彼女を、本物の人間にしてやるのだ。
そうしてやっと最後の一コマにベタを飛ばして、「おい!できたぞ!!」と後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。
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岸辺露伴の中編漫画、「ピンクダークの少年外伝」は、それはもう、漫画界に激震をもたらしたらしい。僕は、そんなのどうでもいいけどね。
ただ、僕の漫画を誰かが読んでくれて、キャラクターに何かを感じてくれたら、それでいいんだ。
好きになったり嫌いになったり、最初は嫌いだったけど、ちょっとずつ好きになってきたとか、その逆でもいいし、最初からずっと憎くても、ずっと大好きでもいい。まるで本物の人間にそう感じるみたいにさ。
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しばらく後ろを振り返ったまま呆然としていた僕は、床に落ちていたコミックスの表紙を見て、ああ、帰っていったのか、とぼんやり状況を把握した。
身を粉にして短編を描き上げたせいか、表紙に凜と佇む彼女の表情が、より人間味を帯びているようにも、今までと変わらないようにも思えた。
なんだよ畜生、せめてさようならくらい言ってから帰れよ、あの杉本鈴美だって、ちゃんと挨拶してから成仏していったんだぞ、と、我が子にぶつぶつと恨み言を言っていると、ふと正面の壁に黒い染みがついているのに気づく。
くそ、この間壁紙を張り替えたばっかりだってのに。しかし壁に近づいてよく見てみると、あったのは染みではなく、文字だった。
「露伴先生、どうもありがとう。無理はしないでね。さよなら」無理はしないでね、だって?たった今、君のために散々無理をしてきたっていうのに酷い言い種だ。
あ、いや、違う、お前のためなんかじゃない。僕がリアリティを追求するのは、読者のため、ひいてはより多くの読者に漫画を読んでもらいたいという、他でもない僕のための行動だ。
断じて、人ん家の壁に落書きをして無言で帰っていく女のためなんかじゃないさ、ああそうさ。
胸の奥がむしゃくしゃして、ざわざわして、落ち着かない。
テレビをつけると、ニュースキャスターが心底不思議そうに、でも少し興奮した様子でマイクを握りしめていた。
「世界のキャラクターたちが戻ってきました!」ああ、なんだ、世界中のキャラクターが、一斉に現実に飛び出してきていたのか。
僕が子供のころ好きだったあのキャラクターも、人生で初めて読んだ漫画の主人公も、あいつも、どいつも、全部。
なんだよ、あんな、出来損ないの穴だらけの人生しかない女なんて放っといて、いろんなキャラクターに会いに行けばよかったんだ。ヘブンズドアーで、他の人間の生み出したキャラクターの人生を覗いてみたかったな。
ああ、そういえば、あいつ、あの女。「僕が自分の生みの親だって認識する」って書き込み、消さないまま帰っちまった。
もしそれでストーリーがめちゃくちゃになっていたら目も当てられない。僕のこと、ほんの一言でも喋っていないだろうな。僕は自分の描いた漫画の、彼女が登場するところだけを注意深く読み直した。
大丈夫だ、一語一句、前と変わっていない。安心したけど、これはこれでちょっといらつくな。いや、やっぱり何でもない。よかった。何も変わらなくてよかった。
そうだ、何も変わらないのだ。彼女が僕のことを知っていようがいまいが、彼女は僕の描いた筋書き通りに生きる。僕の漫画を読む人間がいる限り、ずっと。
この世の何千何万という人間の中で、彼女は生き続ける。
正直言って、あまりにもむしゃくしゃしていて、このまま原稿を焼き捨ててしまおうかとも思った。けど、やっぱりそんなことはできない。彼女に、生きてほしい。僕の中にだけ閉じ込めてなんかおけない。この広い世界のどこかの誰かの中で、まるで本物の人間のように、存在してほしい。素直な、気持ちだった。
それに、彼女のために描いたものを、彼女が消えたから捨てるなんて言ったら、僕が捨てられてヤケになった男みたいじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
あまりにも馬鹿げているから、これはちゃんと世に出してやる。編集が渋ったって、無理やり出してやるさ。感謝しろよ、ちくしょう。
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彼女の人生の本の虫食いが、埋まったのか、そのままなのか。それはもう一度彼女が僕の目の前に現れない限り、永遠に分からない。
ただ一つだけ、たった数時間でも、彼女がここにいたことだけが確かだった。
壁紙は、もう張り替えられそうにない。
(end)