父親の罵声を背に家を飛び出した。時間に遅れてしまうかもしれない。いつもの寂れた公園、いつものベンチの前まで走っていったが、彼女はいなかった。これから来るのか、それとももう帰ってしまったのか。古びた時計台に目をやると、やはり、いつもより少し遅い時間だった。

別に、何か約束をしているわけじゃない。半年前に、たまたま出会って、なんとなく話をして、それからときどき偶然会ったときに、また少し話をしてきただけ。ただ今日は木曜日で、彼女は習い事からの帰り道にこの公園を通る。それだけだ。

三十分だけ、ここにいよう。そして彼女が来なかったら、何事もなかったように帰ろう。そもそも、ここはただの通学路だったのだ。母がまだ生きていて、かろうじて学費を納めていたときの。自分はそのときの道が懐かしくて、たまたま散歩のコースに選んだだけなのだ。そわそわとする胸の奥を静めようと、そんなことを考える。彼女が来なかったときのための、慰みだ。

「ディオ!」

突然の呼び声に驚いて、危うく変な声が出掛かる。慌てて振り向くと、待ちわびた人がこちらへ走ってきていた。白く華奢な手が上質な長いスカートの裾を持ち上げて、踵の高いエナメルの靴が、よろめきながら駆けてくる。馬鹿、転んだらどうするんだ!そう叫ぶやいなや、思わず彼女の方へ駆け出していた。それから彼女が数歩も進まぬうちに、ディオが距離を詰める。はあ、と息をついた彼女が、息も切れ切れにディオに笑いかけた。

「ああ、ディオ、いてくれてよかった。いつもより遅くなってしまったから、会えないかと」

そんなこと、オレだって心配した。オレだって君が来てくれてよかった。そんな胸のうちをおくびにも出さず、ふん、と鼻で軽くあしらう。それを見た彼女が、満足したように目を細めた。

「私、ディオのその生意気な返事が好きよ」

これを見るためにここに来たって言ってもいいくらい、と言われて、顔がカッと熱くなる。思わず、馬鹿じゃないのか、と顔をしかめて言い放ったが、彼女はそれすらも楽しげに微笑んでいた。

いつもなら、膨れ面をして、「言ったわね?馬鹿って言ったほうが馬鹿なのよ!」なんてくだらない軽口を叩くのに。いつもの彼女は、ディオより二つも歳が上のくせをして、まるで年下のような振る舞いをするのに。

今日の彼女は、なんだか歳相応に見えた。白くまぶしい肌に、淡いうすべにの唇が小さく佇んでいる。そこから息を漏らして笑う彼女に、どきりと心臓が跳ねた気がした。

「なんだ、どうしたんだ。いつもと違うじゃないか」

何か、いいことでもあったのか。彼女の顔から少し目を逸らして、ベンチへ歩き出す。

この人気のないつまらない公園の、唯一公園らしいのがこのベンチだった。塗装が剥げて木目がうっすらと浮かび上がった、何の変哲もないベンチ。

半年前の木曜日、その日は母の誕生日だった。何も買ってはやれないが、せめて何か野花でも摘んで帰ろうと、ふらりと寄ったこの公園で、彼女はこのベンチに座っていた。薄汚れたベンチに、身奇麗な令嬢が一人座っているのは、なんとも奇妙な光景だった。

なんとなく、自分が草むらにしゃがみこんで野草を漁っているのをこの女に見られるのは嫌だと思ったディオは、ここはお貴族さまの来るところじゃないぞ、という念を込めて、冷ややかな視線を女へ送った。つもりだった。

それがどうしてか、彼女はディオの野花摘みを手伝い、茎の長い花々を器用に編んで、野花にしては立派なリースを作ってみせた。楽しかったわ、じゃあまたね。そう言って彼女は去っていった。楚々として品のあった白いスカートが、土や草の緑で汚れてしまっていたのをよく覚えている。

そう、たったそれだけの出会いだった。たったそれだけなのに、なぜだか彼女は次の木曜の同じ時間にもベンチに座っていて、ディオも同じ時間に公園を訪れて、二、三、言葉を交わした。また次の週は会話が続くようになり、その翌月は互いの顔を見て話をするようになった。

いつか聞いたことだが、ディオと出会い野草を漁ったあの日、彼女は習い事の教師にこっぴどく怒られて、ひどく傷心していたのだという。「あなたとひたすら野草を摘んでたら、なんだかすっきりしたの。地面にしゃがみこむなんて、久しぶりでわくわくした」そう言って綻んだ顔がまともに見られなくて、土遊びが楽しいだなんて、まるで子供だな、なんて言ってやった。

上流階級の娘にしては、よくしゃべり、よく笑い、そしてよく、ディオのからかいにへそを曲げた。

ふと、彼女が一歩も動いていないことに気づいた。微笑を口に携えたまま静かに立っている姿が、記憶の中の彼女と重ならなくて、薄気味悪かった。

何か嫌な予感に、胸がざわめく。母さんが死ぬ前の晩もそうだった、自分の嫌な勘は、結構当たる。

「いいことなら、あるわ。いい知らせが」

「何だ」

言ってみろ、と言いつつも、本当は言って欲しくなかった。

「ディオ、私ね、結婚するのよ」

「婚約したの。両家の意向で。私が向こうの次男と結婚したら、いろいろとやりやすくなるんですって」

「まだ十三だから、式を挙げるのはもう少し先になるけど」

「花嫁修業って言うの?向こうのお家にね、住むことになったのよ」

何も聞かず、いつもの木曜を、ベンチに座って過ごしたかった。何も、聞こえないことにしたかった。正味、ほとんど頭に入ってきていなかったかもしれない。ただ、ああ、終わるんだな、ということだけをぼんやりと理解していた。

何の根拠もなく、彼女はずっとここにいて、自分を待ってくれているのだと思っていた。ときどき今日みたいに待たされて、どきまぎして、その後あっさり現れた彼女に勝手に不満を抱いて。もっと早く来いよ、もう来ないかと思ったろ、なんて、決して口には出さなかったけれど。

「…誰と、結婚するんだよ」

「さあ、知らない。小太りで中年の、お貴族さまよ」

せめて、彼女が望んだ相手と行ってくれればよかったのに。彼女を連れて行くのは、彼女をなんとも思っていない、ただの男なのだ。自分ではなく、誰か別の人間なのだ。

気がつくと、彼女の手を強く握って駆け出していた。結婚。名も知らぬ貴族の次男と、婚約。ディオ。なんのために。私が向こうの次男と結婚したら、いろいろとやりやすくなるんですって。いろいろと、やりやすく?何がやりやすくなるんだよ。ディオ。ああそうか、彼女の家は世襲貴族で、政界に顔が聞くんだった。例え長女でなくとも、道具として十分と機能しうるのだ、彼女は。結婚。好きでもないやつと。ディオ。結婚。彼女が結婚。「ディオ!」

はっとして、視界が戻ってきた。足がもつれて転びかけた。寸でのところで踏みとどまったが、後ろから来た彼女がぶつかって、二人一緒に倒れた。幸い、やわらかい草の上だったから、二人とも怪我はしなかった。

どこまで走ってきたのだろう。あたりを見回すと、公園から少し離れた教会の芝生の上だった。街一つ越えちゃいない。なんだ、こんなものか。耳元の荒い呼吸が、だんだんと落ち着いてきた。それに気づいて自分を省みると、自分の息も切れ切れで、心臓は驚くほど早く脈打っていた。声を出そうとしたら、喉がひゅっと鳴って、むせた。背中を、暖かい手に摩られる。しゃべろうとするディオの呼吸が整うまで、彼女はただ黙って待っていた。最後に、はあ、と一つ深呼吸をすると、呼吸は落ち着いた。残っているのは、相変わらず早い心臓の音だけだ。

「なあ、なんでだ。なんで結婚するなんて言うんだ」

うつむいて、目に染みるような緑の芝を見つめたまま、ぽつりと言った。彼女は答えなかったが、答えられなくてよかった、と思った。自分でも、自分がどれだけ馬鹿なことを問うているかは分かっていたから。彼女が結婚を決めたわけじゃないって、分かってるだろ。分かってんだよ。

二人とも、それきり何も言わなかったし、動かなかった。どれくらい時間が経ったのか分からなかった。ただ、バクバクとうるさく脈打っていた心臓が、すっかり落ち着きを取り戻すくらいには、長かった。まだ繋がれた手と手の体温が溶けて、どこからどこまでが自分の手か分からなくなるほどに、長かった。その長い沈黙を、彼女のうすべにの唇が、優しく破る。

「ねえディオ」

顔を上げると、彼女がこちらを見ていた。視線がかち合う。繋いだ手が、柔く握り返された。

「私、結婚して男の子を産んで、旦那さまが死んだら、広い屋敷で一人寂しく過ごすの。これはもともと決まってたの。貴族の女ってそういう生き方をするんだって、言われてきていたから」

「ディオと初めて会った日に、私、そんなの嫌だって言ったのよ。それで先生に怒られたの」

彼女の長い睫毛の上にだんだんと涙が溜まっていって、今にも零れ落ちそうだった。目が涙の膜できらきらと瞬いて、きれいだ、なんて場違いに思う。

「あのままベンチに座り続けて、帰らないでいようと思ってた」

よく笑い、よく怒り、よく遊んだけれど、彼女が泣くのを見るのは初めてだった。彼女が泣くなんて、考えたこともなかった。

「でもあなたと一緒に、ほら、野草を摘んだでしょ。あなたのお母さんのために」

「あれすごく楽しかった。すっきりしたのよ。それで、家に帰れるって思った」

顔をくしゃ、と歪めて笑おうとして、ついに涙が睫毛から零れていった。繋いでいない方の手で、頬を拭ってやる。やさしくなんてできなかった。乱暴に擦られた彼女の頬が、少し赤みを帯びる。それが笑ったときの頬の赤さと違って、ちくりと胸を刺した。

「ディオと一緒にいて楽しかった。どこかの家に嫁ぐ前に、こういうことができてよかった」

「なんで、こんな、これで終わりみたいな言い方するなよ」

現実を受け入れられない自分が、嘘みたいだった。まだ、来週になっても再来週になっても、彼女が変わらずあのベンチに座ってくれているんじゃないかという思いを、頭から追い出せない。

「だって、終わりだもの」

「終わりじゃない!」

「じゃあ、何だって言うの」

彼女の諦めたような笑いが嫌だった。胸の奥のざわめきが嫌だった。少し前は、彼女と会えるかどうかで慌しく脈打っていた心臓が、今はただ冷ややかにざわめいていた。

今ここで何かしないと、終わりだ、と直感が訴えていた。

ただ、自分に何が出来る?

本当は、今すぐにでも、彼女の手を引いてどこかへ連れて行ってしまいたかった。宛てもなく、ただどこかへ行きたかった。けれど自分には何もない。彼女を乗せる馬も、彼女を包む毛布も、彼女に差し出す温かいスープも、何もない。ただ、彼女を無事家に帰すことだけしか、できないのだ。苛立ちと焦燥で肺が押しつぶされそうだった。

―結婚して、男の子を産んで、旦那さまが死んだら、広い屋敷で一人寂しく過ごすの。

一人寂しくって、なんだよ。彼女はあんなに朗らかに笑うのに。自分のくだらない話をあんなに楽しそうに聞くのに。それを、彼女をなんとも思っていない男の屋敷に閉じ込めるなんて、そんなことが許されるなんて。

母もそうだった。ディオの母も、あんなに美しい人だったのに、あのくだらない男の袂に閉じ込められて。母が死んで、彼女が連れて行かれて、それでもまだ黙っているのか?

俯くと、芝の緑に目が眩む。涙は出ない。乾いた瞳を固く閉じた。瞼を開く。顔を上げた。迎えに行く。

「迎えに、行く」

今はまだ無理だけど、と言う声が震える。悲しいのか、憤っているのか、分からなかった。

「貴族の女として、役目を終えて、夫が死んだら、一人寂しく過ごすんだろ」

「一人で、待ってろ。ずっと、一人で待っていろよ」

ディオの言わんとすることを感じ取ったのか、涙にぬれた瞳がふるりと動いた。また、潤んでいく。

「オレが迎えに行くから。絶対、行くから。だから待ってろよ」

ぽたぽたと芝生の上に落ちる涙を、彼女の頬を伝う涙を、今度は唇で拭ってやった。びくりと身を揺らして、瞼がゆるく閉じられる。涙に濡れた頬が熱くて、唇がじんと痺れた。拭ても拭っても、温い涙は止まらない。

「泣くなよ」

約束するからさ、寂しくないだろ。そう言って顔を離すと、ゆっくりと目を開けた彼女が、おかしそうに眉を下げた。

「嬉しくて、泣いてるのよ」

馬鹿ね、と言って、涙でぐしゃぐしゃの顔が無理やり笑う。いつもの自分の口癖を、とられてしまった。少し恥ずかしいような落ち着かないような気分になって、ふん、と顔を逸らした。けれど頬に手を添えられて、また彼女の方を向かせられる。

「ねえ、約束だからね」

「絶対、来てね。ディオが、どんな人になってても、絶対再婚してあげるから。」

どんな人って、どんな人だよ。そうからかうように言うと、人殺しとか、えっと、浪人とか、としどろもどろに返ってきた。オレがそんなくだらないものになるとでも思ってるのか?こいつは。

「ああ、約束する」

見てろよ、びっくりするくらいすごい人間になって会いに行くからな。有名人だ、有名人。政治家、発明家、富豪、どれがいい?なんて言ってみれば、またいつもみたいな笑顔が戻ってくる。これを、最後の笑顔にはしない。きっと、必ず、いつか彼女のところに行って、また彼女を笑顔にしてやるのだ。

気がつくと、芝生はもう緑ではなく、眩しい橙の夕日の色を跳ね返していた。ああ、もう門限だ。彼女は行かなくてはならない。

最後は、ただ手を繋いで公園まで歩いて帰った。何も言わなかった。別れのときも、ただ一度目を合わせて、彼女は振り向かなかった。彼女の後姿がだんだんと小さくなっていくのを、ベンチに座って眺めていた。

夕日の色に染まったワンピース。白かった彼女の服。芝生に倒れこんだときに、緑の染みがついてしまった彼女のワンピース。彼女はこれから真っ白なドレスに身を包みに行くのだと思うと、やりきれないような思いがした。もう、彼女の服が野草の緑で汚れることはないのだ。


 プレリュード


雨が降っていた。日はとうに沈み、灰色の雲が折り重なるようにして空を埋めていた。棺桶の中と同じくらい、暗い夕暮れだった。

ふと、足元に視線を移す。何度見ても、墓石に刻まれた文字は変わらない。一八六五から一九四九。あのころから半世紀以上も先で、今から三十年も前のことだ。名家の墓石は、彼女の隣には一つだけ。年端の行かぬ彼女を娶った男のものだろう。

律儀に、一人で待っていたのか、馬鹿め。

降りしきる雨の中、植物のように立ち尽くしていた。どれくらいそうしていたのか分からない。ただ、手足が氷のように冷たくなるくらいには、長かった。

最初で最後の約束だった。これきりだった。

墓石に手をかける。掘り返してしまおうと思った。墓石は持ち上がらなかった。力が入らなかった。まるで力ない子供のころに戻ったみたいだった。墓石の下に横たわる白い服を想像して、吐き気がした。

手向けるものは何も持ってこなかった。ただ、墓石に唇を一つ落として、踵を返す。雨に濡れた墓石は、底冷えするほど冷たかった。


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