社会の評価なんて信憑するに足りない。科学者の言うことなんて信用出来ない。学界じゃあ評価されるこの男も、真ん中のところではどうしようもない。
彼を飼える人間なんてこの世に一人しか存在しない。ーー人間。この表現には語弊があるかもしれないが。
親から虐待を受けて育った子供は自らの子を同じように虐待するという話は世間に浸透しているが、この場合も同じような理由で説明がつくのだろうか。
軟禁されていた大人は同じように他人を軟禁する生き物になってしまうのだろうか。本人は軟禁されていたわけではないと言っていたが。冷たいフローリングに長時間座っているからか、お尻が冷えて感覚が馬鹿になっている。
「俺達にとって世界を支配することは、それ程難しいことじゃあなかった。では何故そうしなかったのか。それはただ、皆が皆世界そのものに興味を抱けなかったからだと言えるだろう」
俺たちの興味のベクトルを勘違いしていた連中が、俺たちをどうにか出来るわけなかったんだよ。
何の脈絡もなくそんな事を言うのは三十も半ばになって、えらくイメチェンしたおっさんだ。中途半端に伸びた髪が不格好である。
「単純な話、世界が、俺達を魅了する程のものを持ち合わせていなかったのさ」
くくくと含み笑いを漏らす男がちらりと私を覗く。
「君は愛想笑いの一つも出来なくなってしまったのかい?」
「今の話に笑える要素が全く見当たらなかったんだけど」
「魅力がないことが、自らの身を守るってパターンは少なくない話だ」
「私の事を言いたいの?」
「君にしては察しがいいね」
目を細めて笑う。
頭の良い人の考える事はわからない。
彼を理解するのを諦めたのはいつの話だったか。私が成人に満たない頃、彼に追いつこう追いつこうと懸命に足掻いた事もあった。私は間違いなく彼に惹かれていた。惚れていた。しかしどれもこれも、今となっては過去の話。人の気持ちは枯れるもの。
「もう私の気持ちがここに無いの、知ってる?」
「俺は君からの"お帰りなさい"が聞きたかっただけだぜ?」
「自分勝手な話よね」
昔は私の相手なんて全くしてくれなかったくせに。そんな皮肉を込めて睨んだ。
「君は、自分に素直になりなさいと教えられなかったのかい?」
「人に迷惑をかけるなって教えられたわ」
迷惑?迷惑……。迷惑、ねぇ。
私の発した単語をもぐもぐと噛み砕くように復唱し、じろじろと私を見る。頭の先から足の先まで行ったり来たりする彼の視線が気持ち悪い。
「今回の俺は珍しいことに、誰にも迷惑をかけていないのだが」
「私が迷惑」
「昔みたいに俺を好きになれば済む話じゃないか」
失った時間を取り戻そうぜ。誰からも必要とされずにのらりくらりと誰かの背景として生きてきた君に、俺が意味を与えてあげようじゃないか。
そう言いながら兎吊木は、年齢にそぐわない子供っぽい笑顔を浮かべて肩を揺らした。その仕草がが堪らなく心を擽る時期もあった。それも過去の話だ。
都合が良いにも程がある。
「まぁ精々頑張って、失った時間でも忘れてきた大切なものでも一人で探せばいいじゃない」
私は今のところ協力してやるつもりはないから、と言い捨てた。対して兎吊木は、俺は簡単なゲームに興味を唆られるような追求心の乏しい生き物ではないぜ、と笑うだけだった。