荒く扉の叩く音が響いた。四畳一間の狭い部屋なのだから、そんなに激しい音を上げなくても充分聞こえるのにとうんざりしながらそれに応えた。開けた扉の向こうには、手に大きな荷物を携えたなまえが立っていた。
「誕生日おめでとう」
彼女の言葉で、ぼくはだらだらと二十年も生きてしまったことを思い出す。
不審な視線を送ってしまった彼女の荷物の中身は、ホールケーキと1.5Lの炭酸ジュースだった。ケーキの入った袋には、全国的にも有名な京都のケーキ屋の名前が印字されている。「久しぶりに地下鉄を使った」と彼女は言った。この辺りは自転車さえあれば困ることはないので、彼女は普段公共の交通機関を使わないらしい。あそこのケーキは見た目かわいいが必要以上に甘いので、ホールケーキを処理する前に胃が限界に達してしまうんじゃないだろうか、と心配になった。あの甘党の殺人鬼なら一人で全て平らげるのかもしれないが、ぼくの味覚はあそこまで狂ってはいない。ジュースに関しては「ケーキに生水は流石にないと思って」とのことらしい。よくわからない。
「それよりなまえ、何でぼくの誕生日知ってるんだよ」
ぼくが零すとなまえは、また始まったと言いたげに呆れ顔を浮かべた。
「いっくんが教えてくれたんでしょ」
「そうだっけ?」
記憶を辿るも全く思い出せない。彼女に聞かれて教えたのか、自発的に教えたのか。おそらく前者なのだろうが。
「今日くらい辛気臭い顔止めなよー」
めでたい日だよ?と言いながら、しゅるしゅると包装を解いていく。ジャジャジャジャン!と擬音を発しながら、箱の中からそれを引き出した。同時にぼくの嗅覚は甘ったるい匂いに支配される。ゴテゴテしたお菓子の飾りが施されたケーキの真ん中の、"いっくん お誕生日 おめでとう"と書かれた文字に祝われるも、自分が祝われているという実感はなかった。
「改めまして、二十歳の誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
そんなぼくの感情はなまえにもお見通しなのだろう。ぼくの言葉に、一瞬物悲しい色を浮かべたが、すぐに元の明るい表情に戻って、何か大切なことを思い出したらしく「あ」と声を上げた。「この家って、包丁あったっけ?」それは流石に馬鹿にしすぎではないだろうか。
「まぁいっか、洗い物が増えるだけだし、どうせ二人だし、このままフォークでつついちゃおう」
あまり行儀のいい食べ方ではないと思うが、ぼくは彼女の意見に同意した。
備えつけのプラスチックのフォークと、ジュースと一緒の袋に入れられていた紙皿と紙コップをテーブルにならべる。狭いテーブルの上はすぐに真っ白な色でいっぱいになった。コップに注がれた透明の液体からぷくぷくと泡が湧いている。それを眺めていると「いっくんが食べないと、私が食べれない」と急かされた。
ケーキの端をフォークで刺してスポンジと生クリームを一口分だけ掬う。口の中へ放り込むと、あっという間に甘い味でいっぱいになった。これはやっぱり二人じゃ食べきれないだろう。
「おいしい?」
「……甘いね」
「だね」
言ってなまえはコロコロと笑った。これは炭酸ジュースは失敗だったかもしれない、とも言った。
「後でブラックの珈琲でも買いに行こうか」
彼女の言葉には大いに賛成だ。
両端から互いにフォークで削っていって、まん丸だったケーキは歪な形に変わっていく。口腔内が麻痺してきたところで二人とも自然に手が止まっていた。
「今日は別に、いっくんにおめでとうを言いに来た訳じゃあないんだよ」
ぽつり、となまえが呟いた。「散々おめでとうと言っておいて?」と聞き返すと、「本当に言いたいことは、一番最初には言わない主義なの」と返された。
「なまえの主義は聞いてないよ」
何を言いたくてわざわざぼくの所へ?その答えが特別気になった訳でもないが、彼女から切り出された話題を切り捨てるのも勿体無いかと思った。
「いやぁ、幼稚なことで恥ずかしいんだけど……」
自分から切り出しておいて今更言わないなんてことはさせない。「で、なに?」と切り込むと、恥ずかしそうに両手を頬にもっていった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「………っ」
指の隙間から窺う表情は、落ち着きなく揺れていて。普段あまり見ることのない彼女の照れた様子に、ぼくは思わず吹き出してしまう。大きな声で「あああああ!!」と叫んだ彼女に、「笑えないくせに中途半端に吹き出すな!馬鹿!」と怒られた。
「いや、まさかそうくるとは思っていなかった」
まるでフィクションの世界みたいだ。現実に、そんな真っ直ぐな台詞を吐き出す奴がいるとは思っていなかった。
「だって本当の事なんだもん。本当に思ってる事なんだもん。こんな機会がなけりゃ一生言わないよ」
テーブルの角に頭を預けてうつ伏せになった状態でなまえは言った。そんなに恥ずかしいのなら、言わなくて良かったのに、とは流石に言えない。
「だっていっくん、おめでとうって言われても他人事にしか聞こえないでしょ?」
捻くれた脳みそをお持ちのいっくんにはこれくらいが調度良いと思ったんだ、と言いながら自らの髪をくしゃくしゃと掻き回している。
「いや、うん……ありがとう」
「本当にそう思ってるの?」
「……どうかな」
曖昧に返すとなまえがじと目でぼくを見た。
「別に、感謝される為に来たわけでもないからいいんだけどさ」
じゃあ何がしたくてここに来たんだよ、と思わず突っ込みそうになる。ケーキが食べたかっただけなのか。
「なんていうか、いっくんに忘れてほしくないだけで」
「君とこうやって過ごした事を?」
「そんな贅沢は言わないよ」
「じゃあ何を忘れるなと」
「ありがとうって思ってる人もちゃんと居るって事をだよ」
ああ、そういう事。
扉を開けて第一声、おめでとうと言ったときにぼくが何を思うかなど、彼女には初めからお見通しだったわけだ。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
今のは本当。そう付け足すと、「じゃあ今までのはやっぱり嘘だったの?」と突っ込まれた。
「どうだろう。嘘ではないけれど、一緒にはしてほしくないかな」
ぼくが答えると、なまえは満足気に笑ってみせた。