死ぬには丁度いい日かも。
『不都合を味わう』
お寿司が美味しいのは、ワサビが効いているからであり、それは不都合を味わえない人間に幸福の味は分からないという意味らしい。
モテることと人を好きになれることは全然違う。
雅治は、こんな私が好きになれた極少ない異性だった。
秋が深まる11月の早朝。
確固たる浮気の証拠を目の当たりにした瞬間、冷静な自分と動揺を抑えられない自分が、驚くほど問題なく共存していた。
手は震えたが頭はクリアだった。
リビングに放置された雅治のiPhone、緑色のアイコンをタップしたのは果たして好奇心だったか。
今思えば、不都合な真実がそこに潜んでいることは、とっくに気が付いていた。
でもその不都合に目を瞑れないことこそが、恋だとも思った。
ほぼ確実に好意を持たれているであろうと分かる、女の子からのLINE。
否定も肯定もせず、それを受け流す雅治のLINE。やっぱり狡い男だと思った。
「お片付けしてあげたい!」
という女の子からのLINE、すなわち家に行きたいという意味のそれ。
この後家に上げたんだろう、
「泊めてくれてありがとう」というメッセージが翌日の早朝に続いている。
お片付けしてあげたい。
私はこんな都合の良い女に成り下がるメッセージを、絶対に送信しない。
それが本命になれた理由だともぼんやり思った。
こんな状況でも、自分が本命であり、彼女は遊びだろうと嫌でも分かる。馬鹿だと言われたっていい。
だって、出会い頭の雅治が私に送ってきたメッセージと、彼女へのそれは明らかに熱量の差があった。
可哀想な子、と何処か憐れむ自分が存在したけど、そう思わないと冷静でいられない自分もいたと思う。
「ねえ、これ、説明できる?」
寝ぼけて目を擦る雅治に、iPhoneを突き付けたら、彼は一切の動揺を見せなかった。
それどころか、
「うーん…」
と頭を面倒臭そうに掻き、ゆっくりと立ち上がりコーヒーを淹れ始める。
「私に、何か駄目なところあった?」
この状況でこの言葉を掛けられた自分を、大人になったなと嫌でも思った。そういえばそろそろ25になる。
泣いて怒って彼を責めてはいけないことだけは、分かっていた。
「…ない。俺が悪い」
煙草に火をつける彼を見て、流石に苛立った。
モテる男と付き合うのは、こういう不都合がある。
常に周りにはライバルがいて、虎視眈々と彼女の座を狙っている。
それでも、自分に自信があった。
「名前は、本当に良い女」
雅治のその言葉に嘘はなかったはずだ。
私自身、彼を好きな気持ちに自信があった。だから不安になることなんかなかった。そう言い聞かせていた。なのに。
隠しきれない違和感が、自分でも気づかないところでむくむくと大きくなっていく。
付き合いたての頃と比べて、二人は変わっていく。当たり前のことだけど。
その結果、知らなくていいことに自ら首を突っんだ結末がこれだ。
面倒臭いことになったな、という彼のリアクション。これが真実。
いたらいたでいいし、いなくなったら家が少し広くなる。去っていくなら、それでも仕方ない。
彼の本音が、秋の乾燥した寒気を通して伝わって泣きそうになった。泣けば良かった。
こんな不都合を、一体どう味わえと言うのだろう。
泣いて、焦って、弁解して、縋って欲しかった。
でもそんな彼を私は愛せただろうか。
いつも余裕で、どこか掴めなくて、そんな彼が好きで好きで堪らなかったな。
今日会社に持っていく用に、昨日雅治が作ってくれたお弁当。
とても食べる気になれないだろうと思って、彼が見ている前でそっとシンクに置いた。
ーーこんなもの要らない。
それが何を意味するか、自分でも分かっている。
「…元気でね」
だって私にもプライドがある。
彼は玄関まですら、追いかけて来なかった。
もうこのドアを開けることは無いんだと思うと、どうしようもない気持ちになった。
こんなに誰かを、もう二度と好きになれないだろう。
ワサビがつーんと効いたように、目頭に涙が溜まる。
ドアを開けたら外は不愉快なほどに晴天で、ああ。
死ぬには丁度良い日だなと、結構本気で思った。