白い髭を蓄えた老人の指が、分厚い資料を一枚一枚、丁寧に捲り進めていく。様々な筆跡の文字が並ぶ名簿の中から"二人"の名前を見つけ出すのは、砂漠の砂の中に埋もれた砂金を探すのと同じくらい骨の折れる作業だ。すっかり冷たくなってしまった紅茶に口を付けながら、バーナビーは何度となく声に出しかけては飲み下した「もう結構です」という言葉を、再び舌の上に乗せた。水仙の季節を迎えたばかりの、寒さが残る部屋の中、ティーカップの持ち手を握る指先だけが僅かに汗ばんでいる。

「お待たせ致しました」
「あ……」

先に口を開いたのは、老人だった。気の遠くなるような作業から解放された彼は、けれど少しも疲れた様子を見せることなく、バーナビーに穏やかな眼差しを向けた。右に左に。振られる首を目で追って、失望混じりの溜め息を零す。

「アルバート・マーベリック氏、バーナビー・ブルックスJr.氏共に、入館したという履歴はありませんでした。亜熱帯の植物を集めた展覧会は確かに行われていましたが、1960年ではなく1950年の催しですな」
「そう、ですか……」
「60年以降の入館履歴はデータ保管になっておりますが、入り用ならばそちらも……」
「あ、いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます、お手を煩わせてすみませんでした」

深々と垂れた頭から頬に流れた金の髪が、潤んだ目元を優しく擽る。暑い夏、マーベリックに手を引かれながら二人で歩いた熱帯雨林の記憶が。瞼の裏でくらくら踊り、煙のようにぼやけていく。ここにも"真実"はなかった。それが分かっただけでも、良かったと思う──より他ない。
ゴールドステージの専門店で購入した洋菓子の手土産を差し出すと、老人はひたすら恐縮しながらも、快くそれを受け取ってくれた。握手を交わし、微笑みあい、名残惜しみながら園長室の扉を開けて、離したばかりの掌を見る。これは本当に"記憶"なのだろうか。振り返ると、そこには誰もいないのではないだろうか。一瞬前は既に過去で、過去は真実と虚構とが裏表になった歪なオセロだ。バーナビーの目には白に見えていたものが、赤の他人の手によっていとも簡単に黒へと返されてしまう。──マーベリックがこの世から消えても、彼の手によって真っ黒に塗りつぶされたキャンバスが純白に戻ることはないのだ。

「帰り道にお気をつけて。孫共々、貴殿とワイルドタイガー殿の活躍を楽しみにしておりますよ」

ドアの向こうから届けられた声は力強くも優しかった。バーナビーは振り返り、見えない相手に向け再度深々と頭を下げてから、仄暗い廊下
へと歩き出した。




「お、意外と早かったな」




閉館時間を過ぎた植物園の駐車場には、虎徹の所有する背の高いSVUの他に一台の車も見あたらなかった。バーナビーが園長室に入ったのは、正午を幾らか回ったばかりの頃だった筈なので、かれこれ6時間近く待たせてしまっていたことになるが、虎徹は不満ひとつ口にすることなく笑顔で迎え入れてくれた。

「ミルクティー飲む?」
「いただきます」
「ん。熱いから気をつけろよ」

車載用の小型冷温庫から取り出して手渡された缶入りの紅茶は、バーナビーが好んでいる銘柄のものだった。知名度の低いメーカーの製品なので、専門店まで足を運ばなければまず手に入らない筈なのだが──わざわざ"この日"のために、用意しておいてくれたのだろうか。指先がひりつくほどの熱を持った缶を両手で握り込んで、バーナビーは緩く口角を上げた。揺らいでいた世界が少しずつ日常へと還っていく。

「どうだった?記録、残ってた?」

肩を落として首を振る。バーナビーの顔の動きに合わせて視線を左右に揺らした虎徹が、そうかと呻くように呟きながら深く重たい溜め息を零した。これで4回目だ。マーベリックが"善き養父"の姿を造り上げる為に重ねた改竄の総数は、4かもしれないし、5かもしれない。6の可能性だって十二分にあり得る。7よりもっと多くともなんら不思議はない。要は、無限に並ぶ疑惑のオセロを全て返しきるその瞬間まで、答えは誰にも分からないのだ。金属のプルタブに指を掛けて引いた瞬間、缶の口がかしゃんと、気の抜けるような鳴き声をあげた。

「僕とマーベリックが入館した記録は残されていませんでした。亜熱帯の植物展は、僕が生まれる前に開催されていたそうです」
「──この前の水族館と同じ、か」
「来月にはここでゴールデンレトリバーとオウムのショーが催されるそうですよ。虎徹さんさえよければ、一緒に観に行きませんか?」
「ゴールデンレトリバーって、スカイハイが飼ってる犬と同じヤツだろ?いいな、それ!よーし、ハイキングがてら弁当作って2人で行くか!」
「お弁当って、虎徹さんも僕も炒飯以外まともに作れないじゃないですか!」
「いいだろ、3段全部炒飯で!」
「嫌ですよ!もう……」

わざと明るい話題を振って、胸に落ちた不安の種から目を逸らす。虎徹がいれば大丈夫、虎徹といれば何も怖くないと、無条件に虎徹を信じ込んでいる自分が"無条件にマーベリックを信じていた頃の自分"から少しも成長していないことに気付かないふりをして、ハンドルに乗せられた大きな右手にそっと自らの左手を添える。彼は優しい嘘が吐ける人だ。バーナビーは虎徹を必要としているけれど、虎徹は多分、独りでも強く生きていける。

「虎徹さん」
「ん?」
「聴かせて下さい。僕とあなたが初めて出会った時から、今日までの話」
「お前、それ好きだなー。……初めて会ったのは3年前の秋、そのとき俺はまだトップに所属してて、バニーのスーツもまだ完成してなかったよな。それで──」

手の甲に重ね置いていた筈の手は、いつの間にか温かい掌の中に包み込まれていた。穏やかな低音が耳元で優しく思い出を語る。虎徹の唇から紡ぎ出される物語は、バーナビーの記憶を辿る物語でもあるのだ。両面とも白のオセロは、誰が返しても白以外の色に変わることはない。

(でも、虎徹さんは僕にたくさん隠し事をするでしょう。家族のことも、能力の減退のことも、少しも相談しようとしないで)

「──多分、一目惚れだったんだろうな。お前がフェイスガード上げた瞬間、頭の中が真っ白になってさ。誰なんだろう、どこの所属なんだろう、こんな綺麗な子をヒーローにしておきながら『安易な顔出しは危険』だってことすら教えてない企業があるなんて信じられねーなって、そういうのがすげーぐるぐるして」
「一目惚れ?」
「……何だよ」
「別に。嘘つきだなって、そう思っただけです」

バーナビーが鼻で笑い飛ばすと同時に、かさついた唇が唇を塞いだ。虎徹を激怒させるスイッチは、意外と浅いところにある。彼は図星を突かれると途端に子供に戻る。本当は同情しているだけだ、優しくする事で優越感を得ようとしているだけだと口にすれば、彼は殆ど反射的に感情を爆発させて怒るのだ──と。気付いた時から、負の連鎖は始まっていたのだろう。

「……っ、ふ」

鋭い犬歯が舌を咬み、唾液ごと呼気を奪われる。掌から滑り落ちたミルクティーの缶が、足元に転がって乳白色の水たまりを作る。虎徹といれば何も怖くないけれど、虎徹をなくすのは怖い。

「話を続けて……続けて下さい……」

足場が崩れた時にだけ吹く臆病風の強さに怯んで。自分を支える命綱まで、無意識に切りつけてしまう。虎徹は優しい。それでも、誰よりバーナビーに優しい。

「出会った時から今まで、ずっとバニーのことが好きだ。お前が苦しそうにしてるのを見ると、俺まで息が苦しくなって、どうしていいのかわかんねーの」
「──本当に?」
「本当。だから、ゴールデンレトリバーとオウム見に行こうな。2人でバカみたいな弁当作って、建物の陰で見つかんないように手繋いで。──楽しい思い出作ろう、な?」

背中に回された腕が、震える肩をゆっくりと撫でた。オセロは、返すまで裏に何色があるか分からない。或いは、バーナビーが臆病風に負けて手を離し、"本当の意味で"ぐちゃぐちゃに壊れたその時にしか──虎徹の本音を知ることは、出来ないのかもしれない。


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